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「田中先生は、普段どうやって塾まで来ているんですか?」
目的地の塾にまであと数分くらいの位置で、再び東先生が俺に話しかけてきた。
「自転車ですね。そこまでの距離ではないので」
俺は失礼にもならなく、愛想もない絶妙な塩梅のトーンで答えた。
「そうかなあ……自転車だと、四、五十分はかかると思うけど……」
「そのくらいなら、丁度いい運動になりますよ」
「うーん……やっぱり車の方が通勤には便利だと思いますよ」
東先生は一呼吸をした。「――塾の講師は給料が良いから、いい車がすぐに買えますよ」
「…………」
東先生の言葉に、俺は何の言葉も返さなかった。今日の朝、俺を塾まで車で送ると塾長からラインで連絡が来た時点で、送迎担当の先生の口から塾の講師の良い所アピールセリフが必ず飛び出すと俺は予想していた。なので、俺は予め決めておいたのだ。――返事は無言だ、と。
俺と東先生は再び沈黙――そして、車は塾の前に着いた。
「私は車を駐車場に停めて来ますので、先にどうぞ」
俺は車から降りた。「塾の講師、辞めないで続けた方がいいですよ」
恐らく、塾長から絶対に伝えて来いと言われたセリフだろう。そのセリフも一緒に置いていき、車は走り去った。
事の発端は昨日の仕事終わりだった。俺は塾長と二人きりになった時に、退職の意志を塾長に口頭で伝えたのだ。俺がそれを伝えると、塾長は「情けない」とキツイ言葉を俺にお見舞いした。それでも、話し合いの結果、俺は今週末で退職していいとの運びになった……はずなのに。――まあ、この塾、人手が足りてないからなあ。俺みたいなどんくさいデブ猫の手でも借りたいのだろう。
でも、三か月の短い間だったが、俺は塾の講師が自分に向いてない職だと痛感した。この仕事を始める前は、陰キャな俺でも十代の子供相手なら問題ないだろうと思ったが……甘々にも程があったな。俺が担当した授業なんて、グタグタの極みだったし……。まさか学級崩壊の光景を、先生側の視点で拝めるとは。――あれはマジで心がポキッと折れたわ。だから、俺は塾の講師をもう辞めたいのだ。工場関係の仕事に転職したいのだ。――コミュ力があまり必要ではなさそうだし。
今の所、前座の東先生は退けた。ただ、ここからが本番だろう。話術に長けた塾長が、あの口この口で俺の決意を翻意させようとしてくるに違いない。――負けるな、俺。焦るな、俺。挫けず辞めるのだ、俺。
俺は気を入れ直し、そして塾の扉を開いた。
「――田中先生、待っていたよ」
ラスボスのお出迎えだ――。
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