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隠れ家喫茶「黒猫と月」
天使。
そんなありきたりな言葉が、頭に浮かんだ。
世界がスローモーションに見え、彼女の髪一本一本に当たる陽光が、更にその姿を幻想的なものに思わせる。
「あら、こんにちは」
黒いふわふわとした髪を耳に掛け、目を三日月の様に弓なりにして微笑むその女性は、窓枠に吊るした植木鉢に水をやっていた。
丘を降りた先に海を望むその場所に古びた三階建てのマンションが建っている。
そのマンションの敷地に、ミモザの木が一本。
昨日1日うなりを上げていた嵐にも耐え、この海風にも耐え、見事な黄色い玉状の花を満開に付けていた。
三月の終わり。薄青い空に映えるその可憐な黄色い花に見惚れていると、マンションの一室から女性が声を掛けてきたのだ。
喫茶【黒猫と月】
潮風にあちこちが錆びついたそのマンションの入り口の隅に、そう書かれたこじんまりとした銀色の看板が立っている。
「三階か」
そういえば、さっきの女性も三階にいたな。
人の気配のしないマンションに足を踏み入れた。
介護職員として働く僕は、欠勤した人の穴埋めもあってこの一週間ろくに休みが取れずにいた。
漸く夜勤が明けて訪れた二連休。少し寝たら外に出たい。この春の空気を胸いっぱい吸いたいと思っていたのだ。
だが、久々の二連休の初日は酷い春嵐が吹き荒れ、外に一歩も出られなかった僕は、今日はいつもより足を延ばして町の外れまでやって来ていた。
良い店との出会いは、いつも突然やって来る。
実は、いたく気に入っていた喫茶店が、ある日ぽつぽつと臨時休業が増え始め、ついに先月の中ごろには店先に店主が病に倒れて亡くなったとの張り紙がされていたのだ。
それからは、止まり木を失くした鳥状態となって、休みの日の度にそわそわと町を彷徨い歩いていた。
そんな僕にとっては、新しい喫茶店との出会いは逃すわけにはいかない。
「ここ、か。入って良いのかな」
営業中とも、準備中とも書いていない。
無機質な冷たい階段を上ったすぐの部屋の前に、下にあったのと同じ小さな看板が立てられている。
細やかな照明が取り付けられており、オレンジ色の灯りが銀色の看板をぼうっと照らしていた。
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