隠れ家喫茶「黒猫と月」

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「あれ、チヨさん、お食事進んでいませんね。何かありました?」 もう少しで勤務の終わる、施設の夕飯時。 利用者さんが集まる食堂の隅の席で、車いすに座ったチヨさんという、来週85歳になる女性に声を掛けた。 「いんや、何にもないよぉ。あんたがよう働くなぁと思って眺めてたの」 ベランダのガラス戸の向こうに、こんもりとした木々と夕焼けが広がる。 この施設の周りは自然が多く、どの部屋から見ても窓の外には必ず緑が見えるので、ここを利用する方達にはとても気に入られている。 だが、あまりにも慌ただしい業務に飲まれる毎日の僕にとっては、目の前の忙しさと体にたまる疲労感に対して、その時間が止まっているかのような穏やか過ぎる景色は、あまりにギャップがありすぎてかえって虚しくなってしまうのだった。 「お兄ちゃん、随分頼もしくなったもんねぇ。今じゃ誰よりも頼りにしてるのよ。それにね、あなたの事をずうっと息子みたいに思ってるのよ。あの子が大人になってたら滝本さんみたいな優しい子になってたかしらって。そしたら食べるの忘れちゃったわ。ふふっ、嫌ねぇ」 チヨさんは息子さんを生後五か月の時に病で亡くしている。 更に、長年連れ添った夫を亡くして独りとなり、この施設に入所したのだ。 後に僕がここで働き始めてからは、あたふたする僕を見守ってくれていて、部屋を訪れる度に「頑張るのよ」「いつもありがとうね」と応援してくれていた。 僕がここで激務に耐えてやってこられたのは、チヨさんのお陰と言っても過言では無かった。 手を叩きながら皺の深い目じりで笑うチヨさんは、一番手前にあったお味噌汁に手を伸ばした。 お味噌汁と言っても、彼女の食事には全てとろみがついており、固形の物は食べられない。 形としては食べられるものになっているはずだが、ここ最近チヨさんの食事量は減っていて、職員会議でもたびたび話題に上がっては対策を練っていた。 だが、どう声掛けしようとあまり手を付けなくなっていた。 「美味しかったわぁ」 おしぼりで口を拭いたチヨさんは、また食堂内にいる職員や他の利用者さんを眺めては「あの人、またあんなことしちゃって」と肩を揺らして笑っていた。 「あ、これ。チヨさんが作ったんですか?」 チヨさんは呼吸器系の病気を患っていて、酸素ボンベが車いすに取り付けられている。 そのボンベの近くに、スミレの刺繍のストラップのようなものがついていた。 刺繍した布を余白が残らないようギリギリで切って、布端を丁寧に処理してある。 まるでそのまま摘んできた野の花を、ストラップにしたかのような繊細な物だった。 「そうだよぉ。私はこんな趣味しかないからね。でも何かしら好きな事があると、それだけで生きてて良かったと思えるから。お兄ちゃんにも何か作ってあげるよ。何が良い?」 チヨさんは刺繍以外にも折り紙も得意で、こうして度々職員に何か作ってあげると言う。 以前は何度か他の職員が断っていたが、結局作ってしまうのがチヨさんなのだ。 楽しそうに作る彼女の姿に、それが生きる活力になるのならと、今はありがたく受け取ることになっている。 「そうだなぁ……」 チヨさんは植物が好きだ。そう考えた時、真っ先にあの花が頭に浮かんだ。 「ミモザの花でお願いします」 「あらぁ、ミモザなんてお洒落な花知ってたの?懐かしいわねぇ、ミモザ。暫く見てないわ。いいよぉ、出来たらプレゼントするからね」 結局食事は二割ほど食べて「ごちそうさまでした」と手を合わせると、早々に部屋に籠ってしまった。
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