黒揚羽蝶

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「小澤先生、蝶々嫌いなの?」 思わずのけ反ったのを見られた。 「ううん。ビックリしただけ。鈴木くん、漢字書けた?」 生徒の指摘通り、俺は蝶が苦手だ。 特に今ひらりと目の前を掠めた黒揚羽が。廊下側の窓から出ていくのを見届ける。 教育実習で生徒のサポートに机の間をまわる。二年生は席を立つ子も少ない。 手が止まってる生徒のノートを確認する。 書き取りが苦手な子の一人だ。 「先生、目の横どうしたの?」 「火傷の跡だよ。ほら吉村さん、後一行頑張って書いてね」 「火傷かー。かわいそう。それが無かったらカッコいいのにね」 俺は笑顔だけキープで、もう一度書き取りを促す。火傷のことはよく言われるし、傷つきもしないが、8才にしてはやけに大人びた言い方が少し気になった。 「子供はストレートだからね。小澤先生嫌な思いしたかな」 職員室で担任の後藤先生が気遣ってくれた。 「いえ。ちょっと大人っぽいというか、ああいう言い方するんだなと」 「あの子、外見のことでクラスの子や親に何か言われてるのかな。こうじゃなかったら可愛いのにとか。子供って自分が言われて嫌だったこと言ったりするんだよ」 自分がされて嫌だったこと――。 「僕も様子みるので。小澤先生実習あと1週間だけど、何かあるようだったら教えて」 「わかりました」 クラスメイト或いは親や親戚。軽い気持ちで言ったことでも、子供にとってかなりしんどい言葉、自分にも経験がある。特にうちは両親がうまくいってなかった時期はとばっちりもあった。 「それから申し訳ないんだけど、親戚に不幸があってね。明後日午後早退するので。教頭先生に頼んであるから、打ち合わせお願いできるかな」 まただ――。 俺が黒揚羽蝶が苦手な理由。 最初は中学3年、校庭に現れた時は祖父が。2度目の高校2年、駅前で目の前に飛んできた時は祖母。 まるで知らせるように現れる。祖父母は高齢だったし、長く入院していたから偶然だと思っていた。 だがその後3度目は、去年。ライブハウスの前で黒揚羽蝶が舞った。次の日楽しみにしていた海外のバンドのVo.の訃報。オーバードゥースだった。 そして今日だ。 黒揚羽に苦い思い出があるから、余計に。 小5の春休み。5つ下の弟と二人、母方の祖父母の家に行かされた。田舎に遊びに行ったというより、両親が話し合いの為に預けられた。子供ながらに不安を抱えての田舎の生活。 その時弟が大事にしていた蝶の幼虫を、死なせてしまった。 虫かごから居なくなったと弟が大騒ぎし、探したが見つからず、弟は俺がわざと逃がしたと怒り始めた。 本当に俺ではないと何度言っても泣き叫んできかなかった。今思えば両親のことが重い蟠りとなって、それを発散したかったのかもしれない。 その夜、トイレに向かった時廊下で何かを踏んだ感触があった。スリッパごし。嫌な予感は当たって、虫かごから逃げ出していたであろう幼虫だった。 その緑の塊をティッシュにくるみ、リビングで明るくなるのを待った。薄明かりの中畑を抜けて海沿いに少し行くと小さな墓地があり、そこを守るように大きな松がある。その松の下に埋めた。 急いで家に戻り部屋を覗くと、弟はまだ寝ていた。 泣きはらした寝顔に申し訳ないと思いながらも話せずにいた。わざとだと思われるのが、また怒りが再燃するのが、嫌だったからだ。 布団に入り、もう一度眠った。 夢の中、青い朝靄の静かな空気。畑の向こうに見えるあの墓地から、無数の黒揚羽が自分のいる部屋の窓に飛び込んできた。 ハッとして目が覚めた。今にも窓から蝶の大群が現れそうで、その恐ろしさに居たたまれなかった。 休みがあけ実家に戻った。両親は離婚を思い止まったが、母は父親似の俺が疎ましく、ますます弟を溺愛した。父親は離婚するなら親権を放棄したいと言っていたとその後知った。 その年の冬、熱いココアを飲もうとしていた時に、弟がふざけておもちゃを持て 振り回していた腕が当たり、ココアをぶちまけてしまった。それが顔にかかって、こめかみのところに小さな三角形の火傷の痕が残った。 弟ともギクシャクしたまま。少しずつ歪んでいく関係性。歩みよりで回避できたかもしれない家族の溝を埋める努力を、誰もしなかった。勿論俺も。家族でも好きになれない、理解し合えないことはあると早々に諦めていた。 もしかしたら吉村さんも8才の心には深すぎる大きすぎるトゲが、ずっと刺さっているかもしれない。 教育実習最後の日、挨拶を済ませ職員室を出ると担当したクラスの子達が廊下に集まってくれていた。教室でもお別れを言ったのに、なんだか気恥ずかしかった。 「一人ずつ握手しようか」 ありがとうとか、いい先生になってとか、生徒達の言葉に、こちらも感謝を言い乍ら。 最後に吉村さんがいた。彼女は何か言いたげに顔をあげたが、すぐ俯いてしまった。 「皆、もし人に言われて嫌だなとか辛いなということがあったら、やめてと言ってもやめてもらえなかったら、後藤先生や、保健の柴田先生、スクールカウンセラーの斎藤先生に話してね。皆、元気で」 それを聞いて吉村さんは俺を見上げた。 学校を出て、駅に向かう。 大通りを渡ろうとした時、「兄貴」と声がした。振り返ると弟が立っていた。 「勇二」 大学から一人暮らしをし、実家は隣の市だが正月も帰っていなかったので久しぶりに会った。LINEではなくわざわざこの実習先の駅に来るなんて。 「何かあったのか」 また離婚話が出たのだろうか。 「母さんが実家に戻るかも」 (とうとうきたか) 「わかった。どっか店入るか。お前高校は?」 「休んだ」 弟はかなり憔悴していた。歩き出そうとして、ふらついた。 「危ない!」 右折してきた車。俺は弟の腕を引っ張り、自分が体勢を崩して車道の方によろけてしまった。 「兄貴!」 膝の裏にバンパーが当たったのはわかった。スローモーションで体が浮いていくのを感じていた。目の前に黒揚羽がよぎった。 (遂に俺なのか。死の世界へ。黒揚羽のお迎え――) そこで意識が途切れた。 上下もわからない真っ白な空間に立っている。というか浮かんでいる。たくさんの羽音が遠くから聞こえる。 黒揚羽蝶の大群が俺を迎えに来るのか。 あの時仲間を死なせてごめん。 勇二、あの時言えなくて、謝れなくてごめん。 「兄貴!」 「小澤さん、気づきましたか?わかりますか?弟さん」 目が覚めると病室だった。 弟と看護師さんが俺を覗き込んでいた。 「わかり、ます」 「先生呼んできますね」 俺じゃなかったのか。弟も無事だ。 「勇二、怪我してない?」 「俺は大丈夫だよ。兄貴が庇ってくれたから」 「運転してた人は?同乗者とか。無事?」 「怪我してんのは兄貴だけだよ。人の心配なんて――」 誰も死んでない!じゃあやっぱり俺なのか。 「そうなんだ。俺酷いの?怪我」 感覚が戻ってきて、足が少し痛いことは感じられた。 「足と肩の打撲だって。スピード出てなかったし、上手くフワッとボンネットに乗ったっていうか。脳波の検査とか、むち打ちがあるかとかはまだだけどたぶん大丈夫だろうって」 「上手くフワッと、か」 俺は笑って弟を見た。弟の涙がみるみる溢れてきた。握りこぶしを固く膝の上に置いて、震えていた。 「兄貴、ごめん。ごめんなさい」 「俺が助けるの失敗して自分で転けて車に当たったんだろ。お前のせいじゃないよ」 「それだけじゃなくて。今まで、ごめん」 「俺の方こそだよ」 俺は早々に家を出た。母が弟を大事にしてはいたが、折り合いの悪い両親の間で、弟は一人、どんな思いでいたのか。考えもしなかった。 「お前一人に押し付けてたな。ちゃんと家族で話し合おうな」 弟の表情が少し和らいだ。 「うん」 簡単にはひび割れは修復出来ないかもしれない。俺のやりたいこと。弟を守ることや助けたい子供たちがいる。 本当にいつかお迎えが来てしまう前に。 黒揚羽に怯えなくてもいいように。
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