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再出発
それから十年の月日を過ごすのに、幾つもの壁にぶち当たった。お年頃になるにつれて周りの同級生は彼氏ができ始めて、彼氏とデートをしたりイベントを楽しむ友人を間近で見ることになり、何度何度も何度も思った。
"置いていかないで"
私を置いてどんどん大人になっていく周りに取り残されて焦り、虚しくなる。
自分だけ大人になれないみたいで苦しい。
けれど、彼氏が欲しいと思ったことはなかった。男性と喋るだけで全身から汗が吹き出て意識が遠のくからだ。
友達さえいればそれでいい、そう思っていてもみんな変わってゆく。みんなが変わるのではなくて変わらない私が置いていかれているのかもしれない。どんどん私は孤独になっていった。
帰り道の河川敷を歩きながら毎日涙をこぼした。涙で滲む夕日を一体何回見ただろう。目の前の川に飛び込もうかと何度考えただろう。自然には尽きぬ命は贅沢だろう、けれど自殺が絶えないのはどういうことか物語る。
分かってるんだよ、健康な体で日常生活を送っておきながら自分でその命を絶とうとすることがどれだけ愚かなのかってことも、過去は変えかられないことも。
そうやってずっと堂々巡りで死んでいるように生きながら、とうとう私は大学を卒業した。
春のぬくもりまだ遠い空に、不安が渦巻く。今まで学生という盾に守られていた私は丸腰で社会人としてこの世で行き抜かなければならない。守ってくれるものなんてもう何もない。
スーツに着替えるときに、お腹に残る傷跡を指でなぞった。
私は変われるだろうか?これから飛び込む世界に希望はあるだろうか?
両親に笑顔で送り出されて、私の足は地図に記されたビルの前にたどり着く。10階建てのビルに、これから私が入社する会社は5フロア。新入社員はわずか5名の電気工事を担う会社だ。
「おはようございます、新入社員の渡辺日和です」
ロビーに設置された受付の人に名前を告げると『staff』と書かれたチープな入館証を渡された。案内された部屋にはすでに同期4人が座っていて、ぎこちない会話をしている。
私が席に着くと、唯一同姓の女の子が元気いっぱいの笑顔で話しかけてきた。
「渡辺さんだよね?私は川口唯子!これからよろしくね」
華奢な体に艶々の黒髪ボブ、そして白い肌。化粧など殆どしていないのにじゅうぶん可愛い。
「じゃあ俺らも自己紹介する?」
他の三人も私たちの会話に入ってきた。ドクン、と心臓が嫌な動きをする。視線が合うだけで手汗が尋常じゃない。
「俺、矢口貴士!髪の毛は天パです」
最初に声を上げたのは暗めの茶髪にくるくるの髪の毛をした、いかにも陽キャですみたいな男の子。
「じゃあ次俺。佐々木斗亜です」
いかにもモテそうなこの人はスタイルの良さもあってスーツがよく似合う落ち着いた男の子だ。
「じゃあ…最後。鈴木龍太です。オンラインゲームばっかりやってます」
小さく手を挙げて遠慮気味に呟いたのは眼鏡なんだけどどこか垢抜けていて、知的な雰囲気の男の子。
こんなに男の子をまじまじと観察したのは久しぶりだ。自己紹介を終えるとどこかさっきまでとは違う柔らかな空気に変わった。
…まただ。
その空気に私の体は対応できず、置いて行かれた気分になる。こめかみから汗がじわじわと出てきて、気付かれないようにするのに必死だった。さりげなくハンカチで汗を拭っていると、すごく慌ただしい足音がしてハイヒールを履いた足の長い女の人が入ってきた。
「遅くなってごめんなさいね!あれ?何か既に良い雰囲気だね」
色素の薄い栗色の長い髪が歩くたびに揺れて紺色のパンツスーツがとても似合うその綺麗な人こそが、新入社員の教育係だった。
「私は人事部の鳥羽大和です。これから関わることが多くなると思いますのでよろしくお願いします」
完璧すぎるほど整い尽くした顔をしている。こういう人はきっと昔から人気者で常に周りに人が集まってきていたのだろう。
「配属先を先にお伝えしておきますね」
鳥羽さんは手元の資料から一枚の紙を抜き取った。
「佐々木くん営業部、矢口くん工事部、鈴木くん経理部、川口さん企画部、渡辺さん総務部ね」
淡々と読み上げてその後各部署の簡単な説明をした後、フロア説明のために鳥羽さんと一緒に各部署を覗いた。総務部は女性が多いようで少しホッとする。
昼食を終えるといよいよ私達は自分の部署へと送り込まれることになる。移動のためにエレベーターに乗ったとき、ちょうどお昼時だったので満員になり、前に立っていた中年男性が場所を詰める為に後退りしてきた。
あ、やばい…
そう思ったときには遅かった。その男性の匂いが十年前嗅いだ匂いに似ていて、頭がクラッとした。次の瞬間には膝が床についていて、息ができなくなっていた。
突然崩れ落ちた私の体を、隣に立っていた佐々木くんが咄嗟に支える。その手さえも恐ろしくて、呼吸は更に苦しくなり意識が朦朧とする。
佐々木くんと鳥羽さんに支えられて私は次の階で降りた。それからすぐ意識を手放した。
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