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「ねえ、お嬢ちゃん」
ガラガラの汚い声がする方を振り返ったら汚れた灰色の作業着を着た男が立っていた。
「ちょっと教えてほしいんだけど」
歯がほとんど無い口から笑みが消えたかと思うと思いっきり顔をグーで殴られ、すさまじい痛みに驚いているうちに今度は服の首を掴まれて近くに停めてあった乗用車に蹴り込まれた。乗用車の中で暴れる私の顔を何度も殴ると、口にガムテープを貼りつけて手首を結束バンドで縛った。車は乱暴に急発進し、体が左右に打ち付けられる。信号待ちで立ち上がろうとした私の目に飛び込んできたのは、ズボンから露出している勃起した下半身…
「キャー!」
「…べさん、渡辺さん!?」
「!」
自分の叫び声で目を見開くと、そこは白い壁やベッドに囲まれている部屋だった。私はどうやら夢を見ていたようだ。あのときの悪夢を。
「随分うなされてたけど大丈夫?」
私の顔を覗き込んでいるのは鳥羽さん。
「大丈夫です…」
ここはただ体調不良の人が休むだけの部屋で、看護師さんだとかそういう人は在中していないようだ。
「ちょっと具合悪かったのかな?」
「えっと…」
これは正直な話しておくべきだと思った。何回も何回も繰り返さないとは言い切れないからだ。これでクビになるなら仕方ない。
けれど優しい瞳をした鳥羽さんは聞き上手で、言葉に詰まりながらも最後まで全部話切ることができた。
「そうだったんだね。確かに男性もたくさんいるし、全く関わらずには働けない。でも…」
鳥羽さんは少し黙ってから再び口を開いた。
「この会社は個人を尊重する会社だから、生きたいように生きればいいよ」
「本当ですか?個人を尊重って…」
鳥羽さんから聞かされたのは衝撃の真実だった。
「だって私男だもの」
当然私はフリーズした。しなやかでとても女性らしい佇まいをしたロングヘアが似合うこの鳥羽さんが男?
「トランスジェンダーなんだよね。面接のときに正直に言ったけど、この会社は受け入れてくれたの。この会社にはLGBTの人が20人ほどいるんだよ」
鳥羽さんは椅子にかけていたジャケットを羽織ながら笑った。
「だからあなたも、男性が苦手だって貫き通せばいい。だけど貫き通し通すには覚悟も必要だよ。男性から腫れ物のように扱われて辛い思いをするかもしれない。でも仕事さえちゃんとしてくれれば生きたいように生きればいい。ここは特別な会社だから」
腕時計をチラッと見て立ち上がった鳥羽さんは鞄を持ち、連絡先を書いた紙を置いて去っていった。その紙をぎゅっと握りしめて溢れそうな涙を堪えた。
強くなりたい、やっぱり私は強くなりたい。
幾度も夜を越え、涙苦しみ怒り喜び笑い、色んな日々を過ごしながら季節は巡り、入社してから二度目の春が来た。
「佐藤さん、私プロジェクター用意してきますね!」
「ありがとう!」
快活に上司に告げると、会議室へ向かって歩き出した。廊下から見える空は暖かい日差しが差し込む快晴だった。
「久しぶりに雲がないな」
と呟いた自分に驚く。久しぶりに、なんて言えるくらい私は空を見上げるようになったのだ。今まで地面のシミを数えていた私が、空を見上げている。
「お、渡辺」
「あ!佐々木くん!今から外回り?」
営業部エースに君臨した佐々木くんの噂は私の耳にもよく入ってきた。
「そう。今日は弟の誕生日だから直帰するけど」
こうして佐々木くんと会話できるほどには成長した。同期以外にも、毎日顔を合わせる人となら通常の会話ができる。
「何歳になるの?」
「18だよ」
「高校生なんだね」
このときの私は、1ミリも思っていなかった。佐々木くんの弟が私の人生に大きく関わることなんて。
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