迎車

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 孝之さんの話に返事をしながら足早にホテルのロビーを横切る。ディナーの新メニューは美味しかったし夜景もいつも通りに素晴らしかったけれど、今夜は観劇をしてからの食事だったからもう十時だ。月末で仕事は立て込んでいたし、早く帰って休みたい。  エントランスを抜け──足を止めた。迎えの車がない。いつもなら恐ろしいほどぴったりのタイミングで来ているのに。胸のうちに不安が広がる。まさか事故にでも遭ったのだろうか。 「珍しい」と孝之さんも言う。「遅れるなんて初めてだ。では今夜は僕に送らせてもらえるかな」 「いえ、お手間は取らせません。うちの車を待ちます」 「美苗さん。婚約者を送り届けることは手間とは言わない。一度くらい任せてほしい」  にこりと笑みを浮かべる孝之さんに苛立ちがつのる。この非常事態にのんきもいいところだ。うちの如月(きさらぎ)は私の運転手を始めてこのかた、一度だって遅れたことはないのだ。それなのに。 「あ」と孝之さんが声を上げ、私たちの目の前に車が滑り込み止まる。うちの車だ。  運転席の扉が開く。 「遅いわよ、き……」 『如月』と言いかけた言葉を飲み込む。降りてきて平身低頭で謝るのは如月ではなかった。こんなことは初めてだ。  孝之さんに別れの挨拶をして車に乗り込む。  我が東雲(しののめ)家は古くは華族に繋がる血筋で、多くの事業を展開している。資産も歴史も国内トップクラスに入る名門家だ。雇っている使用人も多く、運転手だけで三人いる。それでも足りず、私に付けられたのが本来は執事として雇われた同じ年の如月だった。三年ほど前のことだ。  如月は、当時我が家に住み込みで働いていた執事田中の甥だ。高齢の田中が退職を考え、自分の後がまにと如月を推薦してきたのだ。  その少し前に、如月はブラックすぎる会社のせいで過労から線路に転落、あわや事故死、ということがあったらしい。そこで田中は甥をホワイトな我が家で働かせようとしたのだ。  結果、如月は父の眼鏡にかない、執事として採用された。だけど人手が足りず、私の運転手も務めている。さすがに彼の休みの日は他の使用人に変わるけれど、勤務日は必ず如月が運転してくれる。  それなのに今夜は来なかった。朝は彼だったし、休日とも聞いていない。ましてや婚約者とのデートの迎えが彼でないなんて初めてだ。  ──きっとあのことのせいだ。  胸の内がざわつく。  昨晩、私は如月の頬に平手打ちをした。もちろん初めてのことだし、私は悪くない。悪いのは如月だ。でも彼はきっと腹に据えかねたのだろう。だから迎えに来なかった。元々二十時以降の迎えは勤務時間外の業務で、特別手当てを出している。本人が望まないならやらなくて構わない仕事なのだ。遅番の使用人に任せればいいのだから。今まで一度もそんなことはなかったけれど。  屋敷に着き、車を降りる。出迎えの中に如月の顔はない。  狭量め! たかが執事のくせに。調子に乗りすぎなのだ。  誰もついて来なくていいと言って、ひとりで自室に向かう。いつもなら如月が私の仕事用バッグを持って共に来る。  部屋に入ると鍵をしめ、不行儀にベッドにダイブした。  ちょっと叩いたからって、三年も続けてきた仕事を拒むなんて狭量すぎる。  ──『執事のくせに』とも言ってしまったけど。  でもそのくらいで仕える屋敷のお嬢様のお迎えをサボるなんて。叱責くらいでへそを曲げるなんて子供ではあるまいし。  だけど、と思い出す。如月は前の職場は上司のパワハラも酷かったと言っていたような気がする。本人は何も語らなかったけど、前執事の田中が。そのせいか如月は勤め始めの頃は生気がなく青白い顔に強ばった表情を張り付けて、死人のように見えたのだった。  私がしたことはパワハラだろうか。だけど悪いのは如月だ。執事にあるまじき振る舞いをしたのだから。  三年間の信頼を壊したのは私じゃない。  そもそも死人のようだった如月が人に戻れたのは私のおかげのはず。朝晩の送迎時にたくさんの会話をした。趣味のこと仕事のこと友人のこと。如月も楽しんでいて、私が面白かったと本を褒めればそれを読み、興味深かったと絵画展を評すればそれを見に行っていた。それならいっそのこと一緒に行けば早いと思い、映画や舞台、水族館と興味あるものは何でもお供をさせてあげた。もちろん如月の勤務時間内に収まるよう、配慮をしてだ。多少は執事の仕事に影響があったかもしれないけど、福利厚生が充実した素晴らしい職場と言えるはず。  でも私が一番好きなのは、お迎えの車の中だ。私はその日一日の出来事を語り、如月はその感想を言う。如月のほどよく低い声は耳に心地好く、私の疲れを癒してくれる。それがなければ一日を終えた気になれないくらい。  今日の仕事は忙しかったし、孝之さんとのデートも頑張った。如月の声で私の疲れを流してほしかったのに。  ──それに昨晩の弁明も聞きたかった。  今朝は何もなかったような顔をして、私を送っておしまいだった。だから迎えのときにあるのだと思っていたのに。  唇にそっと触れる。  昨晩帰宅後、この部屋で如月に今夜のデートの服を選んでもらっていた。孝之さんは親が決めた婚約者。家同士の付き合いがあるから子供の頃からの知り合いではあるけれど、彼自身のことは深く知らない。私より如月のほうが孝之さんについてリサーチしている。彼好みの洋服、食事にデートスポット。  半年前に婚約が決まってから如月は、私と出掛けなくなった。福利厚生はひとりで利用する、お嬢様に付き合わせては孝之さんに失礼だからと言って。その通りだと思い、気になる映画も新名所もレストランも孝之さんと行くようになった。送迎はもちろん如月。孝之さんに失礼がないようにと如月は時間に神経質なまでに正確だ。  そんな如月が服を選んでいる最中、突然動かなくなった。まるで電池の切れたオモチャのように。  急に具合が悪くなったのかと心配した私に如月は、キスをした。  執事のすることではない。  頭が真っ白になり彼の頬を平手打ちし、 「執事のくせに、身を弁えなさい!」  と叱った。  如月は何も言わずに部屋を出て行った。  唇にもう一度触れる。  如月はどうして弁明に来ないのだ。  ◇◇  今日は送りの車内で如月に問いただす。  そう考えながら入った食堂で、私は驚き足を止めた。  いつもなら如月が立っている場所に、田中がいたのだ。 「どうして田中が?」  そう問う私に田中も両親も兄も怪訝な顔をする。 「新しい執事の教育係として、三ヶ月間だけ復帰でしょう?」と母。「如月から聞いていないの?」 「彼が言い忘れるはずがない。美苗がまた聞き流していたのだろう。悪い癖だぞ」と兄。  田中が復帰? そんなことは絶対に聞いていない。しかも新しい執事って何? 如月は?  状況を見れば、明白だ。如月は退職した。急なことではなく円満なもの。私だけが知らなかった。どうして?  味のしない朝食を詰め込み、急ぎ部屋に戻る。昨日のままになっているバッグからスマートフォンを取り出し画面をオンにすると、如月からのメールが届いていた。受信時間は昨日の19時59分。退勤直前だ。その頃私は観劇中だ。開演前にスマートフォンをマナーモードにして以来、触っていなかった。  慌てているのか違うところを何度もタップしてしまう。ようやく開いた如月のメールには退職のことが書かれていた。  ひと月前に大学の恩師が良い会社を紹介してくれたこと、学生時代に研究したことが生かせること、研究員に空きが出るのは四年ぶりで次がいつになるか分からないこと。そして新職場での引き継ぎのために本日で退職し、東雲家には明日からは新しい執事と田中が来ること。  メールは、最後に挨拶ができなくて申し訳ないと書かれてしめられていた。  弁明は一言もなし。キスのキの字もない。  どうして。  これではまるで、あの晩には何もなかったかのようだ。  震える指で電話帳を開き、如月に掛ける。三コールで繋がる。 『はい』と聞こえてくる声。『田中でございます。お嬢様、いかがなさいましたか』  ──そうだった。この電話番号もアドレスも執事に貸与されているスマートフォンのもの。 『お嬢様?』 「……何でもないわ。間違えたの」  そう言って電話を切る。じっとスマートフォンをみつめる。だけどどんなにみつめたって、私は如月の個人的な連絡先を知らないから連絡は取れない。あんなに毎日たくさん言葉を交わし、趣味を共有していたのに。  退職した彼はもう、私とは何の繋がりもない人になってしまったのだ。  ◇◇  新しい執事は経験者だそうで、田中が太鼓判を押すほど優秀だ。家族もみな気に入っている。私の運転手としても申し分ない。ただ、私の癒しにはならなかった。悪い人じゃない。話し掛ければ的確な返答が来る。でも私が望んでいるのはそれではないのだ。  ひと月が経ちふた月が経ち。孝之さんとの挙式が三ヶ月後にせまり、来週にも招待状を発送する。  胃は常に痛く、夜もなかなか眠れない。如月のせいだ。執事にあるまじきことをするから、私の中の何かが壊れてしまったのだ。  壊れてしまった私は夜更けに田中の部屋を訪れた。彼は如月の伯父だ。連絡先を知っているはず。  それを教えてほしいと頼む私を田中は拒んだ。個人情報を勝手に教えるわけにはいかないと言って。諦め切れない私は使用人の田中に頭を下げてまでして懇願した。何度も何度も頼み、やがて根負けした田中が自分が如月に電話をするから、それで話してみてくれと譲歩した。  田中が私用のスマートフォンを取り出して掛ける。コールがひとつ、ふたつ、みっつ……。  九つめのとき、コールが止んだ。 『はい』と如月の声がする。 「ああ、修か。夜更けにすまない。お嬢様がどうしてもお前と話したいとおっしゃっている。代わっても構わないか」 『……ええ』  差し出されるスマートフォン。心臓が口から飛び出しそうだ。 「……もしもし?」 『はい』 「如月?」 『はい』  その声を聞いたとたんに涙がバッとあふれでる。 「如月」 『何でしょう』  言いたいことはあったはず。ちゃんと考えておいたのだ。だけど口をついたのは── 「迎えに来て」だった。「お願い、迎えに来て」 「お嬢様!?」と田中が慌てている。 「如月、お迎え」 『……今、どちらにいらっしゃるのですか』 「屋敷よ」 『それであるのに迎えに来い、と』 「お願い」ボタボタと涙が落ちる。「胃が痛くて辛いの。如月に迎えに来て欲しいのよ」 『俺が着ているのは安いカジュアルウエアで車は中古の軽ですが、よろしいですか』 「構わないわ」 『それに俺はもう執事じゃない。迎えに行くなら、ただの男としてです。分かっていますか』  ただの男という言葉に、よく分からない感情が沸き上がる。 「嬉しい」  考えるより先に言葉がこぼれていた。 『今すぐ行きます』  通話が切れる。 「なんてことだ」  と田中が頭を抱えているが、私は今、久しぶりに落ち着きを取り戻した気分だ。  私は如月が好きなのだと気づき、全てがすっきりとした。これから大変かもしれないけど、この二ヶ月の辛さに比べればたいしたことはないはず。  そっと唇に触れ──唇は、ろくにお手入れをしていなかったせいでカサカサとしていた。  如月が来る前に急いでリップを塗らなければ!  それからお迎えの車に乗せるものを準備しよう。
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