四万八千円の傘

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 改札を通り、駅構内から外へ出ようとしたら、雨が降ってきた。  男は、カバンの中にいつも入れている、折りたたみ傘を出そうとする。  「あれ、ない」  いくらカバンを探っても、出てこない。梅雨時はいつも、底の方に入れているはずなのに。  「はぁ」  ため息をついたのは、傘を忘れたせいだけではない。最近はいつも、帰り道のこのタイミングでため息が出る。  これから家に帰ると思うと憂鬱なのだ。家にいても、落ち着かない。妻からねぎらいの言葉をかけられることはない。それどころか、家にいると邪険に扱われる。もっと問題なのは一人娘だ。反抗期というやつか、4月に高校に入ってからは一言も口をきいていない。  昔のことをふと思い出した。娘が小学生の頃はよく、帰りの駅前で傘を持って待っていてくれたものだ。  「お父さんお帰りなさい」  「ただいま」  もうあんなことはないのだなと思うと、またため息が出てきた。  コンビニが目に入る。傘を買っていこうか。いや、家までは早歩きで5分くらいだ。あきらめてこのまま帰ろう。  そう思ったときだった。  「お父さん」  傘を差して、娘が歩いてきた。手にはもう1本傘が。  「お帰りなさい」  驚いて声が出ない。  「前はよく傘持って迎えに来たでしょ」  はい、と言って傘を手渡される。  「一緒に帰ろう」  「あ、ああ」  我に返って、傘を受け取る。  娘が先に立って歩く。会話はいつ以来だろう。突然のやりとりに、なんだか信じられない気持ちと、うれしさが半ばしている。  「あのね、お父さん」  歩みを止めて娘が振り返る。  「夏休み、友達と行きたいところがあるの。ちょっと遠いけど、行ってもいいよね」  「え、何だって?」  話が頭に入ってきていなかった。  「夏休み、友達と出かけてもいいよね?お金はちょっとかかるんだけど」  「あ、ああいいよ、いいよ。夏休みなんだから、今しか出来ないことをやったらいい」  「やったー」  娘はそう言って、小躍りして歩き出した。そしてまた振り返って、  「お父さんやっぱりすき」  と言った。  これは夢なのか、と思いながら歩いていたら、いつの間にか家に着いた。  「雨強くなってきたわね。お風呂わいてるから、先入って」  玄関を開けると妻がタオルを持って出迎える。なんだか妻まで変だ。カバンを置き、言われるままに風呂場へ直行した。
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