ベンチにて

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私はベンチに座り、人を待っている。 ここは私鉄の大きなターミナル駅。乗降客数はこの地域で一番、乗り換えの客も沢山いる。 その二階コンコースの中心に時計台を兼ねたカリヨンと呼ばれる鐘楼があり、時計塔の上に一抱えほどの大きさの鐘が葡萄のように連なっている。その鐘楼を囲むようにして背丈ほどの高さの観葉植物が幾つかと木製のベンチが十脚ほど置いてあり、私はそれに座り人を待っている。   時計を見るとそろそろ始発が動き出す時間だ。 周りはエキナカと呼ばれる店舗が軒を連ねている。  今はまだほとんどの店が閉まっている、売店とコンビニが開店準備をしているくらいだ。  朝早い仕事なのか、それとも徹夜明けで帰るのか、始発目当ての客がホームを目指して歩いてゆく。  外はまだ真っ暗だが、コンコースは間引いた照明が点いている、だが、かえって薄暗く寒々しい。  一時間ほどして、本格的に電車が動き始めた、コンコースに人が増えはじめる。学生とサラリーマンが半々といったところか。 鐘楼の上の天窓から柔らかい春の朝日が差し始めていた。 売店とコンビニが開く。そこに通勤客が吸いこまれ、何がしかのお金と品物を交換して吐き出され、ホームに向かって足早に歩いてゆく。一部の客は鐘楼を囲むベンチに座り、品物を食べたり飲んだりしては、やはりホームに向かって行く。 それらを見ながら私はベンチに座っている。 きちんとスーツを着、ネクタイを締め、革靴を履いている。その辺を歩いているくたびれたサラリーマンよりも良い格好のはずだ。年はとってはいるが、まだまだ若い連中には負けない。背筋だってしゃんとしている。 通勤客が一段落した時、鐘が鳴り出した。時計を見ると午前九時だ『線路は続くよ、どこまでも』を奏でている。それが鳴り終わらないうちに目の前を小学生の集団が通り始めた、一年生か二年生、小さな子供達が高音でかしましくさえずりながら歩いて行く。男の子も女の子も体操服に運動靴、背中には色とりどりの小さなリュック、水筒を斜めにかけ、友達とふざけあいながら楽しそうに歩いて行く。私の子供の頃とあまり変わらないな。 子供達がかぶっている帽子が目にとまる、紅白の体操帽だ、風で飛ばされないようゴムひもをあごで引っかけている。私の子供の頃も同じものをかぶっていた、もちろん材質などは良くなっているのだろうが、基本のデザインは何十年経っても変わらないのだな。 あの頃は楽しかった、何の心配も不安も無く無邪気に遊んでいた。 「本当にそうかい、なにか忘れていないかい」 いきなり至近距離から話かけられた、声がしたほうを見ると、私の隣にしょぼくれたじいさんが座っている、いつの間に座ったのか全然気が付かなかった。 茶色のジャンバーに灰色のズボンをはき、黒地に赤でHのマークが入った野球帽を目深にかぶっている。顔は帽子で隠れてよく見えないが、年齢は私と同じくらいか、背中を丸めて座っているのでわかりにくいが、背丈や体格も似たようなものだな。 だが私がきちんとスーツを着込んでいるのに比べて、くたびれ、薄汚れた安物のジャンバーにやはり薄汚れて膝の破れたズボンをはいた、小汚いじじいだ。 「何を忘れてると言うんだ」  私は帽子の男に聞いた。 「良く見な、紅白帽だよ」                ※  ああ思い出した。  あれは小学校二年か三年の時だ、梅雨が明け、夏休みの前。学校の帰りに私は友達のよっちゃんと近所の溜め池で魚を取って遊んでいた。そこは『危ないから行ってはいけない』と母からきつく言われていた場所だった。でも魚がたくさんいたんだ。 「取った」  私が魚取りに夢中になっている隙に、かぶっていた紅白帽を後ろからよっちゃんが取った。よっちゃんは、よくこういう悪ふざけをする。 「なにするんだよ、返せよ」 「やだよ」  よっちゃんはそう言いながら紅白帽を振り回す。  私は取り返そうとするが、斜面に立って魚取り用の網を持っているので、うまくよっちゃんから取り返せない、無理をすると斜面から転がり落ちそうになる。 「えい」 「やったな」  それでも私はなんとか取り返すことに成功した、が、バランスを崩して危うく斜面から落ちそうになり、斜面に生えていた木につかまって助かった、でも木につかまるために、手に持っていた帽子をはなしてしまった。帽子はそのまま池に落ち、風に吹かれて網が届かない、池の真ん中まで流されてしまい見えなくなった。 「僕知らない」  よっちゃんはそう言って帰った。  私も家に帰った、紅白帽をなくしたことを母親に聞かれたが「失くした、どこでなくしたか、わからない」で通した。もし本当のことを言ったら、溜め池で遊んでいたことがばれ、ひどくしかられる。そう思うと、よっちゃんのことも言えなかった。 母親は帽子を失くしたことを怒っていたが、父親が、男の子はそういったものをすぐに失くすものだととりなしてくれ、ひどく怒られることはなかった。  でもいつか溜め池で帽子が見つかるんじゃないか、帽子には私の名前が書いてある。そうしたら溜め池で遊んでいたことがばれるんじゃないか。そう思うと、とても怖くて不安だった。                 ※ 「でも結局紅白帽は見つからなかったんだよな」  帽子のじじいだ。  そう、結局帽子は見つかることなく、新しいものを買ってもらい、夏休みに入ったのだった。今ならそんなことで心配したりしないのだろうが、小学生の私にはとても恐ろしいことだった。 「あの頃は楽しかったかい、何の心配も不安も無く無邪気に遊んでいたのかい」  いや、子供には子供なりの、不安や恐怖や心配事に毎日悩まされていたように思う。  待ち人はまだ来ない。  帽子のじじいはいつのまにかいなくなっていた。  私は待つ。目の前の時計の針が着実に動いていく。 エキナカにある飲食店のお客が増えきた。 鐘が鳴り出した『スミレの花咲く頃』だ、時計を見ると昼の十二時だ。 私の向かいのベンチに大学生風の女の子が座った。 この駅は沿線沿いに大学が多いので、乗降客や乗換客に学生が多い。 スマートフォンを取り出して画面を見ている。もう一人、同じ年くらいの男子大学生が近くのファーストフード店の紙袋を持ってやってきた。先に座っていた女の子に声をかけ、その隣に座る。恋人ではないな、そのちょっと手前、友達から恋人になりたいと思っているあたりだな、どうやら男のほうが女の子に気があるようだ。 いいな、若いなあ。 私にもあんな時があった、人生で一番華やかで楽しい時だ。友人と遊び、女の子と恋をする、青春を謳歌ってやつだな。あの頃は楽しかった。 「本当にそうかい」  背中を丸めたしょぼくれじじい、やっぱり帽子で顔は見えない。いきなり隣に座ってる。 「びっくりするから急に現れるな、どこから出てきやがる」 「そんなことはどうでもいいだろ、それよりなにか忘れていないかい」 「なにを忘れてるっていうんだ」 「ほら、向かいの女の子を見てみな」  じじいはそう言って、向かいのベンチに向かって顎をしゃくった。 見ると、天窓からの日差しがきついのか、女の子が横に置いていた帽子をかぶった。つばの小さな麦わら帽子だ。花柄のバンダナを巻いていて可愛らしい。                 ※  思い出した、私の学生時代の恋人もあんな帽子をかぶっていたな。 彼女の名は由美、同じ大学で二つ年下、小柄で色白でおとなしい、目のパッチリした素敵な彼女だった。 そうだ、由美は私の親友だったKが紹介してくれたのだった。いや、ちがう、Kが惚れていた女の子を無理やり私がさらったのだ。 それくらい由美は魅力的だった、親友を失ってでも欲しかった。 そのせいかKは私の前から去っていった、大学も辞めてしまい、国に帰ったらしいが、その後音沙汰は無かった。 でもその由美とも大学四回生の夏、別れてしまった。  その時私はなかなか就職が決まらなくて苛々していた、周りの連中はそこそこの企業で妥協して内定をもらっているのに、私は自分のこだわった会社にしか面接を受けに行っておらず、そのせいでいつまでも内定がもらえなくてあせって苛々していたのだ。  暑い中、着慣れないスーツに身を包み、汗を拭き吹き会社回りをしている途中、由美と会った。由美のほうから話があるというので、忙しいのに時間を割き、喫茶店で会ったのだ。 「なに、話って」 「最近会ってくれないから」 「それは、卒論と面接で忙しいって言ってあるだろ」 「それはわかるけど」 「話それだけなら、もう行くよ、忙しいんだから」  そう言って、伝票をとり、レジに向かおうとした私に向かい「赤ちゃんできたの」と由美は言ったのでした。 「え」 「だから、赤ちゃんできたの。三ヶ月だって」  それだけ言うと、由美はうつむき、横においていた麦わら帽子で顔を隠すようにしながら泣き始めました。  私はうろたえ、何も言えずにその場を後にした。由美の顔を隠していた麦わら帽子の飾りに巻いてあった花柄のバンダナがなぜか脳裏に焼きついている。  私は親に泣きついて金を用意してもらい、半ば無理やりに堕胎させた。  その後、由美は私の前から姿を消した。Kと同じく大学も辞めてしまった。 私も、もう由美に連絡を取ることはなかった。 幸い、その後就職もうまく決まり、私は無事大学を卒業して社会人になることが出来た。                ※ 「お前さん、本当に由美さんの事好きだったのかい」  じじいだ、何を聞いてきやがる。 私は由美を愛していたはず。でも当時の私の行動を考えると、本当に由美のことを好きだったのだろうか。 Kが惚れているから奪ってやれとだけ思って由美と付き合ったのではないのか。 「青春を謳歌していたんだよな、あの頃は楽しかったのだろ」  うるせえ、じじい。 「消えろ、うっとうしい」 「わかったよ、また現れるからな」  そう言うと、一瞬目を離した隙にじじいは消えてしまった。  もう私はそれを不思議にも思わなかった。  待ち人はまだ来ない。  向かいに座っていた大学生のカップルはとっくにいなくなっている。  昼下がりのけだるい空気がコンコースを包む。乗降客も近くにある、ショッピングモールに向かう主婦や、リタイヤした年寄りがぽつぽつ見受けられるだけだ。  ベンチで休んでいるのも、そうした人たちが多い。時計の針だけが進んでいく。  鐘が鳴る『ローレライ』だ、時計を見ると三時だ。昼に大学生が座っていたベンチに、作業服を着た、四十過ぎくらいの現場監督風の男が座った。白いヘルメットをかぶっている。ヘルメットには中堅住宅メーカーのマークが入っていた。  カフェのコーヒーカップを持っている、移動中にちょっと休憩する気だな。 「思い出したか」  また出たなじじい、いい加減飽きてきたぞ。 「何をだよ」 「あの男と同じ位の歳にお前は何をしていた」 「ああ、バリバリ働いてたよ、大学を出て、勤めたのが機械メーカーだったからな、基本事務方だったけど、たまに工場出張とかの時はあんな格好をしていたものさ」  そうさ、一番頑張って働いていた年齢じゃないか、ちょうど係長をしていたくらいじゃないかな。結婚もして子供も男女一人づつで、仕事も家庭も充実していたな。 「本当にそうか」  うるせえな。 「そうだよ、人生で一番充実した時期だったよ」 「本当か、本当だな」  ああ、もうわかったよ、あのヘルメットで思い出したよ。                ※ 同期のMと工場出張にいった時のことだ、Mは同期の中で一番出世が早くて、私がやっと係長になったというのに、とっくに課長になっていて次期部長に一番近いといわれていた。 そうさ、出張先の接待で風俗に取引先と行っていたMの事を、あることないこと尾ひれをつけて、こっそり社内で触れ回ったのはこの私だ。風俗以外にも、取引先にキックバックを要求しているとか、いろいろ言って回ったさ。おかげで私はMの後釜として課長になれた。 「それだけか」  あと、何があるっていうんだ。 「奥さんだよ」  妻か、そうか、あの頃ちょうど弱ってきた私の両親の介護を、仕事が忙しいと言い訳して全部押し付けていたな。 「子供の事もだろ」  ああそうだ、一番手のかかる年齢だった子供たちの世話も妻に全部まかせっきりだった。 「友美のことは」  友美か、あの頃浮気していた女だな。しばらくして妻にばれたのだった。 「人生充実していたんだな」  うるさい、うるさい。もう言うな。  じじいは消えた、作業服の男もいなくなっていた。  待ち人はまだ来ない。  天窓から差し込む日が傾いていく。  帰宅途中の学生が増えてきた、ベンチも学生で一杯になってきた。  学生に混じって初老の男性が一人ベンチに座っている、初老と言っても私よりだいぶ若い、六十過ぎくらいか。登山帰りなのかリュックを背負い、山登りの道具を持ち登山帽をかぶっている。 「思い出したか」  じじいだ。 「何をだ」 「ほら、登山帽だよ、悠々自適な老後を、趣味の登山三昧で過ごしている。なんて考えようとしてたんだろ、でも本当はなあ」 「うるせえ、それ以上言うな、そこから先は」 「思い出したな」 「ああ、思い出したよ」  その時、鐘が鳴り出した「夕焼け小焼け」だ、時計を見ると夕方の六時を指している。天窓から夕日が差し込み、となりに座っているじじいをサーモンピンクに染めている。                 ※  四十歳で課長になったのはいいのだが、その後すぐ不況になり、会社は外資に買収されてしまった。なんとか六十歳の定年まで課長職で会社にしがみつき、定年後年金と貯金で食いつなごうと考えていたら、妻が貯金と年金の半分を持って、離婚して出て行ってしまった。  子供たちは妻の味方だし、しかたなく仕事を探したのだが、この歳で出来る仕事は限られるし、体もあちこちガタがきていた。  結局警備員の職にありつき、安月給でなんとか暮らしていた。でもその生活も七十歳を過ぎたとたん首になり、やむなく唯一残っていた財産のマンションを売り払って安アパートを借り、年金とマンションの売れた金で食いつなぐ生活をしていたのだ。  毎日することが無くて、近くにあるこの駅に朝入場券で入り、夜までベンチに座ってぼうと通り過ぎる人を眺めていた。  それを悠々自適と強引に言うことは出来るかもしれないがな。 「そう思ってもいいんだぜ」 「情けないからやめてくれ、私にも意地というものはある」 「そうかい、じゃあ俺は消えるわ」  そう言ってじじいは消えた。黒い帽子が残像のように眼の裏に焼きついている。  いつの間にか人の姿が少なくなってきた。天窓も真っ暗だ。  鐘も今日はもう鳴らない。周りの店もほとんどが閉まっている。照明が減らされて薄暗くなっていく。  時計を見る。もうすぐ終電が出る時間だ。  待ち人は来ない。 はて、私は誰を待っていたのだろう。 私は立ち上がり改札に向かおうとした。すると改札口から、誰かこちらに向かって歩いてくる。 待っていたのはあの人だろうか。私はベンチに座り直した。 その人はこちらに向かって歩きながら黙って手を上げた、なんだ帽子のじじいじゃないか。 さっき消えるといってたくせに、まだなにか用か、なぜいきなり隣に現れないんだ。 「まだ何か用か」 「鏡だよ」 「鏡だと」 「ああそうだ、よく見な、俺は鏡に映ったお前の姿だよ」  なにを言ってるんだ、私はスーツにネクタイ、革靴だ。帽子もかぶっちゃいない。  じじい、お前の姿とは全然違うよ。  私はそう思い、自分の姿を見直してみた。 「違う、スーツじゃない。安物のジャンバーだ、灰色の薄汚れたズボンだ、目の前のじじいと同じ格好をしてる」  頭に手をやると帽子に触った、脱いでよく見ると、ツバの部分がマークと同じ赤色になっていた。  目の前まで来ていたじじいも同じように帽子を取っている。  顔が見えた、そこには皺としみにまみれた、老いさらばえた私の顔があった。 「待ち人は俺だよ」  そうか、そうだったな、初めから待ち人は来ていたんだ。 「そういうことさ、さあ行くぜ」  ちょっと待ってくれ、行くってどこへだ。 「なんだ、まだ思い出さないのか。お前はな、ここで死んだんだよ、ベンチに座ったまま動かなくなっていてな、終電が出た後、駅員に見つかったんだよ」 そうなのか。 「生きている間、行きかう人を眺めながら、自分の人生を頭の中でやり直してたんだよ。小学生の時は無邪気で良かった。学生の時は青春を謳歌してた、サラリーマンの時は課長になってバリバリやってた、定年になったら悠々自適に暮らしている。そんな人生を歩んでいたと、自分に言い聞かせていたんだ。それを自分でもそんな人生だったと思いこんだ時、心臓麻痺でぽっくり死んじゃったんだよ。そして地縛霊になって同じ事を繰り返しているんだ」  じじいが聞いてくる。 「大体いつからここにいるんだ、今日の始発からか、昨日からか、一昨日か」  覚えていない、気が付いたらここに座っている。  そして誰かを待っていた。 「そう、思い出せないくらい前からここにいるんだよ、俺を待ってな」  どうしてお前、いや私は私を待っていたのだ。 「それはな、誰かにここから連れ出してもらいたかったからだよ。自分で自分にかけた‘良い人生を過ごした‘という暗示が解けないと、ここから動けなくて成仏できないんだ」  ああ、なるほど。 「そこで俺の出番さ、お前の分身として本当の人生を思い出させる。それを目的としてここにやってきたのさ」  ここから出るのか。 「でもなあ、どうしてお前というか、俺だけどさ、そんな偽の人生を作り出さなきゃいけないほど人生嫌だったかい。そりゃ誰でも人生はうまくいかないし、嫌な事のほうが多いと思うがね」  ああそうだな、人生を恨んでいたのかもしれない。  いや人生じゃないな、自分の生き方を、私自身を恨み、憎んでいたのかも知れない。 子供の頃、父親から『お天道様に恥ずかしくないように生きなさい』と言われて、それを守るように生きてきたつもりだけどな。全然出来てない。 「それでも精一杯生きてきたんだろう」 「ああそうだ、でも人も自分も不幸にしてばかりだ、とてもお天道様に顔向け出来ない人生だったよ」 「それでも分身たる俺を生み出し、何とかしてここから出ていかなきゃ、と思っただけでもいいんじゃないか」  そうか、そうだな、でもお前を生み出した事自体覚えていないな。 「ひどいな、まあそういうものだろうけどな」  私は手に持った帽子に目を落とす。  これは、この駅の電鉄会社が経営しているプロ野球球団の帽子じゃないか。ツバとマークの赤色が深いくせに安っぽい独特の色合いをしている。  不人気球団だったけど、沿線に住んでいたからか子供の頃ファンだったな。 私は帽子をじじいに向け「今年はどうかな、優勝できそうかな」と聞いた。 「何がだ」 「何じゃない、野球だよ、今シーズンのパリーグ、プロ野球だよ」 「とっくに身売りしたよ」 「え、身売りって」 「とっくの昔に球団ごと金貸しに売っぱらちまったよ、そんな事も忘れちまったのか」 「じゃあ、サブマリンのエースや世界の盗塁王や、でかい黒人のスラッガーは」 「そんなのとっくに引退して、いまじゃ解説者やコーチや監督だよ」 「そうか、じゃあ駅の南側にあった球場はどうした、まったく人気がなくて全然野球見物の客が入らなかった。時々開催していた競輪のほうがよっぽど客が来るって揶揄されたあの球場は」 「ああ、球場な、それも忘れたのか、つぶして、ショッピングモールになってるよ」  そうか、そうだったな。今じゃ野球チームがあったことや、球場があったことも忘れられているかな。 「帽子を見たら思い出したか」  ああ色んな事を思い出した。 そうだ、ここに座ったまま眠り込んだような気がするよ。 「ああそれだ、そのままぽっくり逝ったんだよ」  私は最近物忘れがひどいなと苦笑いを一つ浮かべた。  それをみてじじいが言う。 「歳だからな、仕方ないよ。じゃあそろそろ行くか」 わかった、行こう。 私は立ち上がり、今まで座っていた、座面に花が描かれたベンチに脱いだ帽子を置くと、薄暗いコンコースから改札を通って、じじいと一緒に出て行った。  もうカリヨンの鐘を聞くことはない。    了
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