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夏の終わり
家のインターホンが鳴る。
肌の表面を汗が包み込んだ。
水分で満たされた空気を泳ぐように、玄関へと向かう。
扉を開けるとショウが立っていた。
ショウは、隣の部屋に越してきた住人だ。
彼は、週末になると訪問してくる。
手には缶ビールを持っていた。部屋に招き入れ、なんてことのない会話をする。
東京に越してきたばかりで、友人もおらず、することもないと俺の部屋を訪ねてくる。
そんなショウの素性を詳しくは知らない。
普段何をしているのか、東京に何をしに来たのか、聞いたこともなかったし、ショウから話すこともなかった。
それでも、こうして慕ってくれていることはうれしかった。
見た目は自分とは正反対な端正な顔立ちで、眉は筆で引いたかのように整っていた。掴みどころのない雰囲気が漂っている。
人懐っこいようで、一定の距離からは踏み込めないような、野良猫のような存在だった。
長く伸ばした髪から覗く切れ長な目は、自分の中まで見透かされているような不思議な感覚がある。
ショウが持ってきたゲームをやって、酒を飲んで、眠くなったら寝る。
学生の頃に戻ったような感覚だった。何も知らない者同士、互いに干渉をしない関係が心地よかった。
ある日、ショウが少し深刻そうな顔でやってきた。
理由はほかにもあるのだろうが、実家に帰ることにしたという。
夏の終わりには引っ越すらしい。
話を聞いてみると、元々何か夢があって上京してきた訳でもなく、今やっている仕事も惰性で続けているだけで、特に出世欲もないため、続ける理由が見つからなくなったらしい。
地元に戻って農家を継ぐのだという。
それ以上は聞けなかった。
理由よりも、ショウの顔はもっと重い何かを隠しているようだった。
普段通りの週末がやってくる。
いつものようにインターホンが鳴った。
「カギ開いてるよ」
少し動くだけで汗の噴き出る季節に、なるべく体を動かしたくなかった。
玄関まで行くのも億劫な俺は、リビングから外に向かって返事をした。
しかし、いつまで経っても扉が開くことはなかった。
いつも通り、ショウが訪ねてきたと思っていたのだが、人違いだったのか。
普段ならそろそろ来てもいい時間だったので、少し気がかりになった。
ソファに深く根を下ろしていた腰をあげ、水分を含んで重くなった体を引きずるようにして玄関に向かう。
覗き窓から外を見ても誰も立っていない。
さっきのインターホンを鳴らした人は誰だったのだろう。
扉を開けるとドアノブに袋が下げられていた。
ショウがいつも持ってくる缶ビールとつまみだった。
隣の部屋のインターホンを押す。
何か忘れ物でもしたのかと思ったが、部屋から返事はなかった。
外に出たついでに、コンビニでも行こうとアパートの階段を降りると向かいの川沿いで明るく光っているのが見えた。
焚火でもしているのだろうか。
風で煽られて、火の粉が空に舞い上がる。
高く上がった火の粉は、輝きながら夏の夜空へと消え入った。
なんだかやけに印象的で、その光景が頭から離れなかった。
そのままショウとは会えなくなった。
大家に聞いてみると、そもそも隣にはずっと人が住んでいなかったらしい。
ひと夏の友人は、その季節とともに去っていった。
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