0人が本棚に入れています
本棚に追加
繋がりを欲しない者は、誰かを待つ機会も生まれない。
そんな自明のロジックに、待つ立場になってみて初めて気がついた。
誰かを待つのはいつ以来だろう? 機会が全くないわけではないが、学校にせよそれ以外の場所にせよ、なんらかの義務にもとづくもの。期待感も高揚感もなかった。
しかし、今回は違う。
高校の敷地内、木陰になった目立たない場所に僕は佇み、正門の人の出入りに目を凝らしている。朝ということで、流れはほぼ外から内。朝のショートホームルームが始まるまで間があるので、流入してくる生徒の総数はそう多くはない。
ただ、木陰といっても姿は完全には隠せていない。正門から入ってくる生徒を見逃さない位置は、見方を変えれば、正門から入ってくる生徒から視認可能な位置でもある。流れから孤立して一点に留まっているという意味では、却って目立っているともいえる。実際、歩きスマホに現を抜かしたり、友達との無駄話に夢中になったりしている生徒以外は、ことごとく僕に注目した。
僕は学校では空気として生きている人間だ。その手の人種の御多分に漏れず、平凡な平穏をこよなく愛している。必要があるか否かを問わず、他人の目に留まるような振る舞いをするなど、もっての外。
そんな思いとは裏腹に、見られているけどまあいいやと、ふてぶてしく構えている僕がいる。苦痛なのは確かだが、あくまでも我慢できる範囲内。その人に会いたい気持ちがそれだけ強い、ということなのだろう。なにかを渇望しているとき、人の神経は太くなるものらしい。
時間が進むにつれて、人の流れは着実に肥えていく。比例して、僕に注目する生徒も増えて居心地の悪さが増す――と思いきや、そうはならない。僕に近い側を歩く生徒の体が、遠い側を歩く生徒の視線を遮る壁になるためだ。そのおかげで、居たたまれない気持ちに襲われる事態は免れた。
僕は人目よりもむしろ、その人を見逃してしまわないかを懸念していた。
仮にそうなったとしても、彼女はクラスメイトなのだから、教室に行きさえすれば顔が見られる。ただ僕は、会えることが約束された場所に辿り着く前に会うこと、それが小さくない意味を持つ気がしている。
もしかすると、自分勝手な思い込みに過ぎないのかもしれない。だとしても、その考えと心中したかった。
願いを果たせないでいるうちに、僕が待っている人は今日は登校しないような気がしてきた。なにせ未来を予言する言葉を口にした人だ。僕が待ち構えているのを事前に察知して、あえて来ないという選択をした可能性も――。
「遠藤くん」
思わず身を竦めてしまった。突然のその声は、正門から校舎へ向かう人波の中から発信されたにしては、あまりにも近い。声の発生源を振り向くと、
「……井内さん」
緑の黒髪を白い夏服の肩に垂らした少女が、僕の間近に立っていた。満面を占めているのは、彼女の性格を体現するかのような、微笑に限りなく近い柔和な表情。視線が重なると、柔和さがナチュラルに深化した。
井内彩音さん。僕のクラスメイトで、学級委員長を務めている。
僕にしては珍しく、下の名前まで記憶しているのは、クラスの女子の大半からもっぱら「彩音」と呼ばれているからだ。役職に就いているのだから、役柄で呼ばれてもよさそうなのに、下の名前を呼び捨て。裏表がなく、分け隔てなく他者と接する、善良で親しみやすい性格の賜だろう。
「遠藤くん、おはよう」
「あ……おはよう」
返信を受け取ると、井内さんはほんの浅く頷いた。僕に背を向けて人の流れに復帰し、校舎の方角へと遠ざかっていく。僕は彼女の背中が見えなくなるまで見送った。
井内さんは典型的な普通の人だ。それでいて、孤立する九条さんにも積極的に話しかけるなど、正常と異常の境界を越える行動をとるのを厭わない。その両義性は承知の事実だったが、それでも彼女の行動には驚かされた。大それた思惑を胸に秘めているわけではないのは、なんとなく分かる。それでも、なにか裏があるのでは、という一抹の懸念を消すことができず、気持ちが落ち着かない。
しかし、その状態も長続きしなかった。
「彼女」が正門を潜ったのだ。
歩み寄ろうとすると、「彼女」がこちらを向いた。一拍遅れて歩みが止まる。僕がクラスメイトの遠藤裕也だと認識したのだ。
「彼女」の周囲の景色が、いつの間にか不鮮明になっている。全ての音がどこか遠い。昨日も似たような現象が生じたことを思い出す。
期待していた表情の変化は、認められない。ただ、あちらから歩み寄ってきてくれた。女子にしては短すぎるようにも思える髪の毛を、先端が耳に触れて鬱陶しいらしく、二度三度とこめかみに撫でつける。
九条翡翠。
僕の光になった人。
「遠藤くん。こんなところでどうしたの?」
「ああ、よかった。思った通りだ」
「……どういうこと?」
「教室だと九条さん、全然しゃべらないよね。井内さんが親切心から声をかけても、高木さんから冷やかされても。だから、学校の中ではあるけど教室の外ではあるここなら、例外的にしゃべってくれるかな、と思って」
「だって、彼女たちと話す必要はないから。教師と話しているところ、遠藤くんは見たことない?」
「もちろんあるよ。でも、驚いている。僕だけが特別扱いをされた理由が分からないから」
「伝えなければいけない気がしたから」
感情が読み取れない、透き通るような声。最小限の言葉での返答が、内に秘められた思いの強さを暗に表明しているかのようだ。
「遠藤裕也が九条翡翠を殺すって、伝えなければいけない気がしたから、伝えた。それだけだから」
「でも多分、そうはならないと思うよ。僕に九条さんを殺す理由はないし、殺したいとも思わないし。九条さんはどう思っているの? 僕に殺されそうだから怖いっていう気持ち、強い?」
返事はない。軽く困惑してしまったが、無言を返したのも当然だ、とすぐに考えが変わった。昨日、九条さんは自らの予知能力について語ったが、自分が殺される場面が映像として脳内に流れた、という説明はしなかった。予感が漠然としたものなのであれば、いくら被害者が自分といえども、真摯に向き合うのは難しいのだろう。
「未来予知とか、予言とか、その手のオカルトを僕は信じない。だから、昨日の『君は私を殺すよ』っていう発言、どういう意味なのかなって、ない知恵を振り絞って考えてみたんだ。その結果、もしかしたらこういうことなのかな、というものを一つ見つけたんだけど」
「どう解釈したの?」
「……ああ、でも、時と場所を変えた方がいいかもしれない。もうそろそろショートホームルームの時間だし、ここは人が多いから」
現在、僕たちは僕たちだけの世界にいるが、外界からの干渉を完全にシャットアウトできているわけではない。不鮮明になっても景色を景色と認識できるように、蝉の声が遠のいても聞こえ続けているように、校舎へ向かう生徒たちの視線を断続的に感じていた。
「話、長くなりそうなんだ」
「まだきちんと整理しきれていないから、多分そうなると思う。でも一番の理由は、静かな環境で九条さんと話がしたいからだよ。なにせ話題が、生きるとか死ぬとか、殺すとか殺されるとかだから」
「分かった。じゃあ、昼休みに屋上で」
九条さんは僕に背を向け、校舎へ向かって歩き出した。僕から遠ざかる第一歩を踏み出した途端、にわかに蝉の鳴き声が復活し、二人を世界から隔絶していたものが消え去ったのを悟る。
あんなにも存在感を放っている人なのに、九条さんの後ろ姿は呆気なく人波に紛れた。
「九条さん、冬服だから暑いでしょ」
井内さんは今日も、休み時間になるたびに九条さんに話しかける。九条さんの机の前にしゃがみ、天板の縁に両手を添えて、話し相手の顔を斜め下から見つめながら。
「今日は最高気温が三十三度になるらしいから、熱中症には気をつけてね。室内でエアコンをかけていても、なる人はなるみたいだから」
九条さんは今日も頬杖をつき、井内さんから顔を背けている。その漆黒の瞳の先には、摂氏三十三度に達するポテンシャルを秘めた七月の世界が広がっている。
熱心に話しかける井内さんと、徹底的に無視する九条さん。そのギャップが醸し出す歪な空気に、誰もが無駄口を控えて、人によっては息を呑んで、二人の会話の行方に耳を傾けたものだ。空気という特性を考慮しても平凡の範疇に属する僕も、その例に漏れない。
ただ、それは転校してきた当初の話。いかに異様でも、いかなる異様でも、場数を踏めば適応する。今となっては誰もが、その光景を当たり前のものとして看過している。井内さんの賛同者となって九条さんに話しかける生徒も、固唾を呑んで成り行きを見守る生徒も、絶滅してしまった。
しかし、正常と異常を兼ね備えた僕は違う。一貫して関心を持ち続けているのではなく、復活した。昨日の下校途中での遭遇が、会話が、永遠に忘れられそうにない一言が、九条さんに対する興味関心を呼び覚ましたのだ。
「こういうときはね、こまめに水分をとるといいよ。九条さんって、昼食のとき以外はなにも飲んでいないよね? いつ見ても机にじっと座っているから、心配になるよ」
話に聞き耳を立てている限り、井内さんは九条さんのことをクラスで一番知っている。九条さんに対する関心の度合いは僕が勝っていると思うが、深く興味を持ったのは昨日の下校時のこと。井内さんは模範的で精力的な学級委員長として、入学当初から九条さんのことを気にかけているから、関心を注いでいる総時間は僕よりも圧倒的に上だ。
胸の底で嫉妬の炎がちらついている。
もっと九条さんのことを知りたい。空気の僕に話しかけてくれて、しゃべってくれた、予知能力を持つと自称する少女のことを。
「持参している飲み物がなくなったら、自販機で買うといいよ。体育館に行く途中にあるから、場所は九条さんも分かるよね? お金、持ってきてる? ないんだったら貸すから、気軽にわたしに――」
「井内、まだやってんの?」
戸口から女子の大声が聞こえた。井内さんを名字で呼び捨てにして、人目を憚らず大きな声でしゃべる。二つの条件を満たす生徒は、僕たちのクラスには一人しかいない。高木夏希だ。
「九条なんて放っておけばいいのに。そんなにいい子アピールして、あんたになんの得があるわけ?」
「そんなのじゃないよ。ただ、九条さんと話がしたいから」
井内さんは微かに苦笑している。高木さんの言動は総じて攻撃的で、井内さんは何事も穏便に済ませようとする意識が強い。対極に位置しているようにも思える二人だが、高木さんは井内さんによく話しかけるし、井内さんの高木さんの扱いはそつがない。一見水と油に見えて、その実、凹凸がぴったりと重なるから不思議と噛み合う。そんな関係だろうか。
「本当はしゃべれるくせに人を無視する九条もおかしいけど、めげないあんたも相当変人だよね。まあ、時間を無駄にしたいなら好きにしろって感じ」
高木さんは栗色の長髪を指先で触りながら、友人の机まで行って談笑を始めた。転校してきた当初は九条さんに絡むことも多かったが、今となっては、時たま遠回しに非難の言葉を吐く程度に落ち着いている。
高木さんの横槍に気を削がれたらしく、井内さんはきりがいいところで話を切り上げ、自席に戻った。
高木さんは井内さんを変人だと称していたが、僕もそうなりたいと思う。
九条さんと昼食を共にすることに対する心の高ぶりは、いい意味で皆無だった。
授業中、黒板に記された要点をノートに書き写す淡々とした手つき。休み時間、窓外の景色を眺めるどこか物憂げな無表情。井内さんに話しかけられている最中の、柔らかくも厳重に閉ざされた唇。
九条さんにまつわる全てが昨日までと同じなのに、いつもとは違って見える。僕に見られているのを意識して振る舞っているような、そんな気がしてならない。
もちろん、僕の身勝手な思い込みに過ぎないと理解している。話しかけられ、言葉を交わし、再び会話する約束を交わしたとはいえ、僕の基本的な性質は空気。彼女の心を支配するほどの影響力を行使できたとは思えない。
ただ、僕の顔が、言葉が、存在が、胸を過ぎった瞬間が、全くないわけではないはずだ。
遠藤裕也という一個人が有する存在感が、他人になにかしらの影響を与えている。
その認識は、僕を静かに高ぶらせる。
自らの胸にそっと手を宛がう。九条さんのことをもっと知りたいという欲求が持続しているのが、ただ続いているだけではなく徐々に膨らんでいるのが、掌を介して伝わってくる。
いつもとは正反対の意味で、時間の流れを遅く感じている僕がいた。
最初のコメントを投稿しよう!