僕は君を殺さない

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『重大事故発生のおそれがあるので、許可された生徒・教員以外は絶対に立ち入らないでください。  S高等学校長 峰谷宗治』  屋上に通じるドアに貼りつけられた紙片を見て、自分が通う高校の校長の名字が峰谷であることを思い出した。下の名前は初めて知った。恐らく、日が暮れるころには忘れているだろう。 「それにしても――」  署名を入れることで抑止力の向上を目論んだが、それが却ってチープな印象を与えている貼り紙を前にして、当然の疑問を僕は抱く。 「屋上、入れるのか……?」  右手に提げたレジ袋を握り直し、ドアに耳を宛がう。物音は聞こえない。気配も感じない。少なくとも、大人数が集結しているわけではなさそうだ。  九条さんは僕よりも先に教室を出た。寄り道をしているわけではないなら、既に到着しているはず。  ドアノブを回すと、すんなりと九十度回転した。中に入れる。ただそれだけの事実で、掌から液体状の緊張が分泌された。  ドアを開いた瞬間、湿気と熱を孕んだ強い風が吹きつけ、反射的に目を瞑る。  風圧をやり過ごして瞼を開くと、視界に飛び込んできたのは、蒼穹。ありきたりで面白味のない表現だが、夏らしい、という形容詞が浮かんだ。  張り巡らされた金網フェンスが邪魔をして、空の下部の青色は鮮明さを失っている。床は肌理の粗いコンクリート製で、床面積は約二十メートル四方といったところ。なにも置かれていないため、よく言えば空間的なゆとりが感じられ、悪く言えば殺風景だ。  物はなにも置かれていないが、人ならば存在している。フェンスの右側、中央やや奥よりの中途半端な場所に、九条さんが佇んでいる。  顔の向きは正面。天を仰いでいるわけでも、床に目を落としているわけでもない。視線を辿ると、フェンスの上部に行き着く。しかしそこには、なにか注目に値するものがあるわけではない。九条さんが立っている地点からであれば、穴の向こうにあるなにかが視認できる、というわけではないのなら。  強風が吹き抜けるタイミングが重なったとはいえ、ドアが開く音が聞こえなかったはずがない。それでも、九条さんが首を回してこちらを見るまでには、開かれてから数秒を要した。真正面から見た彼女の顔には、一切の感情が表れていない。 「なにぼーっとしているの。凄く、滑稽なんだけど」  九条さんの平板な声が届いた。僕は耳朶を指でかきながら、 「なんていうか……。屋上のドア、普通に開くんだ、と思って」 「当たり前でしょう。鍵がかかっていないんだから」 「その事実に驚いているんだよ。というよりも、鍵がかかっていないのに九条さんしか来ていないことに驚いている、と言うべきかな。立ち入り厳禁で施錠されているか、自由に出入りできるから生徒でいっぱいか。屋上って、普通そのどちらかでしょ」 「それが遠藤くんの価値観? 独特なのね」 「独特? そうでもないと思うけど」  後ろ髪を後頭部に撫でつけ、我ながらわざとらしい空咳を一つ。 「とにかく、よかった。屋上って、もしかしたら行けないようになってるのかな。だとしたら、九条さんが言った屋上ってどこのことなんだろう。比喩表現かなにかなのかな。……とかなんとか、内心ではあれこれ心配していたから」 「ドア、閉めてもらえる?」 「あ、そうだね」 「内側から鍵がかけられるから、それもお願い」  言われた通りにする。閉ざすのも、施錠をするのも。  九条さんが歩み寄ってきた。僕の前まで来るのではなく、給水タンクが作る陰に静かに腰を下ろす。僕は九条さんの真正面、ぎりぎり日陰になっている場所に胡坐をかき、レジ袋を床に置いた。 「自分の意思とは無関係に、九条翡翠を殺してしまったらどうしよう、とは思わなかった?」 「心配性だっていう自覚はあるけど、さすがにそれはないね。殺す気もないし、殺すだけの力もないのに」 「凶器、レジ袋の中に隠し持っていたりして」 「ないよ。昼食が入っているだけ。菓子パンに野菜ジュース」  商品を順番に取り出してみせ、袋に戻す。 「九条さん、お弁当持ってこなかったんだね。昼食を食べながら話をするのかな、と思っていたんだけど」 「私はもう食べたから。タブレット菓子」 「タブレット菓子? それって――」  商品名を口にすると、九条さんは頷いた。そして右手の、親指を除く指を垂直に立てて、 「四粒。お昼はエネルギーが必要だから、少し多めに」  冗談なのか、真実をありのままに語っているのか。笑うべきなのか、「もっと食べなきゃだめだよ」とお節介を焼くべきなのか。掴めなくて、鏡を見れば不細工な苦笑いが見返してくるのだろうな、という表情を返すことしかできない。 「でも」  束の間の沈黙を、九条さんの無感情な声が過去へと押し流す。 「たとえその気がなくても、この場所なら、それが現実と化すかもしれない」 「……ああ、『君は私を殺すよ』のことね。誰からも邪魔をされないシチュエーションなら、心の闇が解放されやすい、という意味?」 「そうじゃなくて」  彼女は自らの肩越しに後方を指差す。指し示されたのは、屋上を囲繞する金網フェンス。 「あそこによじ登って、地上へと飛び降りれば、ほぼ確実に私は死ぬ。それを阻止できなかったら、変則的な形にはなるけど、遠藤くんが私を殺したとも言えるでしょう」 「――それだ。それだよ、九条さん」  なにかを言いかけていた唇の動きが止まった。 「九条さんは『君は私を殺すよ』と言って、その発言は予知能力に基づくものだと説明したよね。でも僕は、よくも悪くも現実的な人間だから、非現実的な能力を持っていますと言われても、はいそうですか、と受け入れられない。どうしても、現実的な意味や理由を求めてしまう。自分勝手な推理だし、話が長くなるかもしれないけど、我慢して聞いてほしい」  相槌の一つも打ってくれないのはやりにくいが、それが九条さんと会話をするということなのだろう。一つ息を吐き、僕は語り始めた。 「最初、僕と友達になりたいのかな、と思ったんだよ。九条さんは転校してきたばかりだから、多分そういうことなのかな、と。だけど九条さんは、積極的にも消極的にもクラスメイトとは仲よくなろうとしていない。クラス委員長の井内さんなんて、文句をつけようがないくらいいい人だけど、その井内さんにすら心を開こうとしない。なのに、僕に話しかけた。しかもわざわざ下校途中に」  浅く頷く、という反応が漸く示された。しかしそれは、事実確認を求められたから応えたというような、極めて事務的な仕草に過ぎなかった。 「井内さんや他のクラスメイトになくて、僕にあるものって、なんなんだ? それは多分、孤独ということだと思うんだ。たとえば井内さんは、友達が多いし、優しくてしっかり者だから、男子女子を問わず人気があるよね。高木さんは井内さんとはタイプが全く違うけど、他のクラスにも友達がたくさんいて、交友関係は広いみたいだし。でも僕は、二人とは違って友達なんて一人もいないし、誰からも慕われていない。休み時間は一人で机で寝たふりをしているか、スマホを弄っているだけの、目立たなくて暗い男子生徒だ。転校してきてからある程度日にちが経って、僕がそういう人間だと分かったからこそ、九条さんは僕に話しかけたんじゃないかなって、ふと思ったんだ。九条さんって、顔にも声にも感情があまり出ないから、人から誤解を受けやすいタイプだと思うんだよ。今はそうでもないけど、転校してきたばかりのころは、よく高木さんたちからちょっかいをかけられていたよね。人付き合いが苦手なせいで感情表現が苦手になったのか、感情表現が苦手なせいで人付き合いが苦手になったのか、それは分からないけど」  失礼なことを言っているな、という自覚はある。しかし、九条さんは無表情、無声、無反応。内側でなんらかの感情が蠢く、といった様子も観測できない。 「九条さんは人付き合いが苦手だから、同類の僕なら話しかけやすいし、仲よくなれる可能性が高い。誰でもいいから友達が欲しいんじゃなくて、僕が孤独な人間だからこそ友達になりたかった。……最初はそう解釈したんだけど、そう結論づけるのはなにか違う気がして。さらに考えを進めているうちに、やっぱりその説は間違っているんじゃないかなって、考えが変わったんだ」  ふむ、と、ほう、の中間のような声が九条さんの唇からこぼれた。ただ相槌を打っただけなのだろうが、そこはかとなく官能的な色調を帯びていた。 「だってその解釈だと、『君は私を殺すよ』っていうセリフを選んだ意味が分からないでしょ。だからやっぱり、そのセリフの意味を中心に考えていくべきだって、思い直したんだ。客観的に見て、僕は人を殺すような人間には見えないと思うんだよ。地味で、平凡で、よくも悪くも無味無臭で無害な生徒、みたいな認識を持つのが普通じゃないかな。じゃあなんで、『君は私を殺すよ』なんて言ったんだ? 予知能力とかなんとか言っていたけど、本当なのか? それともやっぱり、僕と仲よくなりたくて、関心を惹くために印象的なセリフを口にしただけ? 考えに考えた末に浮かんだのが、自殺の可能性だったんだ」  極めて希薄ながらも、感情の揺らぎを仄めかせていたのだから、なんらかの反応が示されるはずだ。そんな予測とは裏腹に、九条さんは唇を閉ざしたままでいる。言葉の続きを待っているのだ。 「人付き合いが苦手ということと、同類の僕なら話しやすいと考えたこと、それは事実じゃないかと思ってる。最初の解釈と決定的に違うのは、動機だね。九条さんは僕と仲よくなりたいんじゃなくて、僕に殺してほしい。自殺したいと思っているけど勇気がないから、第三者の手で命を終わらせてほしいと願っている。それが『君は私を殺すよ』というセリフの意味。殺す人間に僕を選んだのは、自分と同類の匂いがして、要求を受け入れてもらいやすいと考えたから。……違うかな?」  九条さんは僕から視線を外し、側頭部の髪の毛を二度三度とこめかみに撫でつけた。低い空を正視するその瞳は、思いのほか早く僕のもとに戻ってきた。 「考えるだけの価値があると判断したんだね。私のことや、あのセリフのことを」 「それはそうでしょ。九条さんは教室ではめったにしゃべらない、風変りな転校生だからね。下校途中にいきなりっていうタイミングが驚きだったし、セリフ自体も衝撃的だった」 「驚いたといえば、遠藤くんの解釈もそうね。私が自殺したがっているっていう解釈」 「僕の推理、当たってる?」 「当たっていてほしい? それとも逆?」 「僕の思い違いなら、もちろんそれに越したことはないよ。理由や事情がなんにせよ、命が失われるのはよくないことだからね。でも、残念ながら、そちらの可能性が高いんじゃないかって思ってる。九条さんはクラスで孤立しているし、独特の性格の持ち主でもあるから、そういう闇を抱えていても不自然ではないのかなって」  孤独は人に死への憧れを抱かせる。僕は自身の経験からその教訓を得た。  夫婦喧嘩が生き甲斐の両親。楽しいことなどなに一つない学校生活。夢も希望もない将来。こんな砂を噛むような日々から抜け出したい。されども、神の天啓は期待できない。金も、才能も、経験も、人脈もない遠藤裕也という人間に、自力で現状を打破するのは不可能。  残された唯一の道は、自ら命を絶つこと。  もちろん、死なずに済むのならそれに勝ることはない。生きて、絵に描いたような幸福な毎日を満喫したい。しかし、それは所詮夢物語の絵空事。救済案はそれしかないのだから、選択肢の一つとして真剣に検討してもいいのでは?  そんな考えを巡らせたことが何度もある。九条さんが話しかけてくれた日だって、九条さんの一件がなければ、自死という選択に向き合う時間をとっていたはずだ。  九条さんのことは、うっすらと、本当にうっすらとではあるのだが、自分と同類かもしれないと考えていた。ただ、その思いが濃度を増し、親近感やその他のポジティブな感情へと発展することはなかった。彼女が持つ特殊性を無視できなかったからだ。空気という普通ではない特徴こそ兼ね備えているが、平凡の範疇に属している僕とは、根本的に違う価値観と感性を持っている。それに基づいて行動した結果が、常日頃の無表情であり無言。そう認識していた。  しかし、昨日の下校途中、九条さんの方から僕にコンタクトをとってきた。  特殊だという意識は確固として存続しながらも、僕と九条さんは同類なのだ、という意識は刻々と深化していった。自ずと深まったし、意識的に深めていった部分もある。九さんは僕と仲よくなりたいと思っている、という解釈をしたことなどは、後者の筆頭だろう。 「それで、遠藤くんはどうしたいの?」  臆することなく僕の顔を見つめながら、九条さんはおもむろに問うた。 「えっと、どういう意味?」 「私が自殺願望を持っている人間である可能性が高い、と遠藤くんは判断したわけだよね。それを踏まえて、遠藤くんは私にどんな働きかけを行いたいと考えているの? 自殺の意思を手放すように説得する。関わり合いになりたくないから放っておく。信頼できる人間に相談するように促す。他にもいろいろ考えられると思うけど」  そう言われて初めて、その段階まで考えを推し進めたことが一度もない、という事実に気がつく。  さて、困ったことになった。  僕は黙考する。九条さんは会話の中断を快く容認してくれた。  選択肢はある程度絞られるので、驚くほど早く、おぼろげながらもビジョンが見えた。ただ、具体化していく作業ははかどらない。九条さんは寛大さを示してくれているとはいえ、納得がいく答えに辿り着くまで思案に耽るのはいかがなものか。 「こうするべきじゃないかな、という方向性は見えている。ただ、具体的にどうしたいのかって訊かれたら、答えるのは難しいかもしれない」 「難問なんだ」 「そうだね。少なくとも、今の僕にとっては」  発せられた吐息は無声だったが、ふぅん、という声が聞こえた気がした。九条さんは音もなく立ち上がり、義務感に促されたような手つきで尻を払う。 「九条さん、どうしたの?」 「暑い。教室はクーラーがきいているから、帰ろうかと」 「僕の答えは……」 「具体性がまだ伴っていないんでしょう? だったら、答えられるときが来るまで付き合う意味はないよね。今日中は無理そう?」 「えっと、どうだろう」 「長くなりそうだよね、遠藤くんのその感じだと。じゃあ、明日は終業式だから、明日の放課後を期限にしよう。昨日声をかけたあたりでまた呼び止めるから、話せるようだったら話して。それじゃあ」  九条さんの両足は靴音を奏でない。淀みのない指づかいでドアの鍵を開け、開いた隙間を潜り抜け、鉄製の障壁が閉ざされる。階段を下る足音は、すぐに無音と判別がつかなくなった。  蝉時雨がうるさい。不規則に吹きつける風は、心なしか、九条さんといるときよりも蒸し暑い。  ぬるい野菜ジュースで口腔に潤いをもたらしながら、昼食のパンをかじる。黙々と、淡々と。なにか考えるべきことがあるとき、よくこうなる。今回の対象は、言うまでもなく九条さんだ。  仮に彼女と一緒に食べていたとしたら、どんなふうに時間は流れていったのだろう? 願望を交えずに想像するならば、交わした言葉の数は少なかっただろう。下手をすると、始まりから終わりまで無言だったかもしれない。  しかし、気まずい雰囲気とは無縁だっただろう。少なくとも、日を跨いで尾を引くような深刻な気まずさとは。風や空気は蒸し暑く感じられたにせよ、不愉快ではなかったはずだ。聞こえてくる雑音は、聞いた直後には永遠に忘れてしまっていたに違いない。  この広い世界には、僕と九条さんの二人しか存在しない。そう心から勘違いした瞬間ですら、何度かあったはずだ。  パンの体積とパックの残量は、着実に減じ、不可逆的にゼロへと向かっていく。それらの推移と、混沌としていた想念が秩序を帯びていく変化の様相は、極論するならば反比例している。  とはいえ、九条さんに伝えられる程度のまとまりを獲得するには、もう少し時間がかかりそうだ。  明日まで待つ必要があると判断した彼女の慧眼には驚かされる。  やっぱり、予知能力の持ち主なのかもしれないな。  そう考える僕の心は、随分ゆとりがあるようだ。  共に過ごした時間は短かったが、それでも屋上でのひとときと比べると、学校生活は酷くくだらないものに感じられる。談笑する高木さんの大きすぎる声。古文教師の宮下の睡魔を召喚する語り口。気が弱い生徒ばかりが損を被る掃除当番。なにもかもがくだらない。  屋上でのひとときを演出してくれた張本人――九条さんと同じ空間に身を置きながら、この様とは。  コミュニケーションをとってこその九条さんなのだと、午後からの時間で僕は学習した。  帰り道で考えを話す日は、今日ではなく明日だ。的中させるのは至難の業に思える約二十時間後の自分を、それでも頭の一隅で漠然と想像しながら、問題の地点に差しかかる。なんの変哲もない民家。老朽化が進んだ木造アパート。空き缶が転がっている狭隘な空き地。なにからなにまで平凡で、運命の出会いが発生した場所らしくないし、約束の地らしくない。  しかしその事実は、九条さんに対する熱にはなんら影響を及ぼさない。  諍いは相変わらずだったが、珍しく帰宅時間が重ならなかったのもあり、両親の間に険悪なムードが漂っていた総時間は平均を下回った。口論の原因は世にもつまらないし、声が聞こえている間は嫌な気持ちになるのは避けられない。それでも、苦痛に晒される時間が短いのは、僕にとって歓迎するべきことだ。  そのおかげもあって、死んでしまいたい、と思うくらいに気分が落ち込む瞬間は、その日は一度も訪れなかった。  説明文がまだ整いきっていないだけで、方向性は定まっている。  僕の意識は、大地にどっかりと腰を落として、近い未来を見据えていた。
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