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中年太りならぬ初老太りの男性が、居並ぶ高校生たちの胸ほどの高さの檀上で、マイクを片手に長広舌を振るっている。
一学期の締め括りとなる終業式の最中だ。現在行われているのは、大人たちが声を揃えて世にもありがたいと評する、まだ大人になりきれていない僕たち高校生からすれば世にもくだらない、校長の話。
僕はそれを右耳から左耳へと聞き流しながら、屋上のドアに貼りつけられた紙片を思い返している。下の名前は失念してしまったが、名字は覚えている。峰谷。校長はただ校長と呼ばれることが多いので、名字ですら記憶していないことも珍しくない。思い出せたのは、紛れもなく屋上ドアの貼り紙の功績だ。
話が長い。苦痛だ。早く解放されたい。
例年であれば、同級生が百人いれば九十九人が思うだろうことを、腹立たしいようなやるせないような気持ちで、胸の内でただくり返すだけだった。
しかし、今年は違う。
校長先生、背が高いし、痩せたらまあまあかっこよくなるんじゃないかな。若いころは太っていなかったのだとしたら、異性からもてていたのかもしれない。それはそうと、体育館、クーラーがないから暑いなぁ。戸は全開にされているけど、僕がいるのは真ん中へんだから、周りの人間が壁になって風が届かないんだよね。それにしても、隣のクラスの女子、結構なボリュームでしゃべってるけど、大胆だよなぁ。うちのクラスの高木さんですら黙っているのに。まあ、マナーを守ろうという意識が働いたわけじゃなくて、単に暑さにうんざりしているだけなんだろうけど。高木さん、一日に百回は言っているんじゃないかっていうくらい、暑い、暑いって愚痴っているからなぁ。
全体を広く見渡して物事を観察し、思考し、言語化する余裕を持てている。内容は、我ながら実にくだらない。それでも、薄曇りの心模様がデフォルトに設定され、ネガティブ思考が日課になっていた僕にとっては、喜ばしいことだ。
終業式を終えて教室に戻ると、担任教師から大量のプリントを配布され、連絡事項を伝えられ、一学期の全日程は終了した。一刻も早く学校に別れを告げたいはずなのに、だらだらと居残っている生徒が多く、教室内には緩みきった空気が蔓延している。苦役から解放された直後は、監獄の外に出る気力も湧かないものなのだろうか。それとも、檻だと認識していないだけか。
僕はいつものように、急くでも悠長にでもなく教室を出る。
淡い高揚感が全身に漲っている。もし誰かが僕の心の状態を把握したならば、今日から夏休みが始まるからだと誤診しただろう。
ひたすら歩き続けて、やがて問題の場所に差しかかる。
「遠藤くん」
不意打ちで投げかけられた声に、足が止まる。振り向くとそこにいたのは、
「……九条さん。いつの間に?」
「遠藤くんが気づかなかっただけ。幽霊を見るような目で見ないでくれる」
「テレポート能力は持っていないんだね」
「君の意見では、予知能力もでたらめ、ということらしいけど」
蝉の合唱は遠い世界から響く無害なノイズに等しい。周囲の景色はかろうじて認識できる程度の明瞭さだ。汗はかいているが、肌を伝う感触はなんとも思わないし、暑さも感じない。二人だけの、世界。
「それはそうと、遠藤くん、昨日の約束はどうなったの?」
「今から話すよ。昨日屋上で話したこととの重複もあって、少し長くなっちゃうと思うけど、一から話した方が話しやすいから」
そう前置きをしてから、僕は語り始めた。
「僕の考えだと、君は自殺したがっている。僕は常識的で現実的な人間だから、自殺をしたいと思うからには、なにか理由があるはずだ。なんとなく死にたいとか、そういう曖昧な理由から死を願うことも、もしかしたらあるのかもしれないけど」
いったん言葉を切って顔色を窺ったが、九条さんの無表情から読み取れるものはなにもない。
「だから、僕なりに理由を探した。僕はまだ九条さんのことは殆ど知らないから、かなり難しかったね。これかな、と最初に思ったのは、昼食をタブレット菓子だけで済ませたこと。九条さんって痩せているから、もしかしたら拒食症に悩んでいるのかなって疑ったんだ。でも、確かに痩せてはいるんだけど、病的かというとちょっと違う気もしたんだよね。夏場なのに食べないとなると、かなりつらいと思うんだけど、顔色自体は悪くないし。だから、その線はないと僕は判断した」
感情の揺らぎや思いの発露はないかと、九条さんの目を見ながらしゃべっているのだが、これという情報は顔を覗かせない。言うべきことはこの場で全て言い尽くして、最後まで聞くから。そんなささやかな無言のメッセージが、なんとなく聞こえてくる気がするだけだ。
無表情で、一見冷ややかに見えるが、発言をいちいち嗤ったりしない。だから、感情を表に出さないという性質からは意外に思えるが、九条さんは決して話しづらい相手ではない。会話する機会を何回か重ねたことで、僕はその事実に辿り着けた。
「食が問題ではないなら、なにが九条さんを死にたいと思わせているんだろう? 難しかったけど、学校での様子を見る限り、九条さんってあまり楽しそうじゃないよね。学校の中だけなのか。他の場所でも、たとえば自宅で家族と過ごしているときもそうなのか。僕は学校での九条さんしか知らないから、想像するしかないわけだけど――九条さんは、家でも、学校でも、他の場所でも、人生をつまらなく感じているんじゃないかな、って僕は思った。その根拠というのが、感情表現が苦手なこと。社会に出ている限り、多かれ少なかれ他人と付き合わなきゃいけないよね。感情表現は、人付き合いをするにあたっては必要不可欠。同情とか、愛想笑いとか。コミュニケーションを円滑に進めて、不要な衝突を避けるためには、絶対に必要になってくるスキルだ」
人生をつまらなく感じている。そう言った瞬間、九条さんの瞳の奥でなにかが瞬いたような気がした。
「感情表現が苦手な九条さんにとって、この世界は凄く生きづらい場所だと思うんだ。それこそ、死にたいと思ってしまうくらいに。僕も人付き合いは得意じゃないから、九条さんの気持ちは分かるよ。凄くよく分かる。死にたくなることだって、ないわけではないからね。嫌いでも、苦手でも、付き合っていかなければならないものだからこそ、余計に嫌だし、苦しく感じてしまう」
言葉に感情を強く込めすぎている気がして、いったん口を噤む。一つ息を吐いてから、
「人付き合いのない世界へ九条さんを連れて行くだけの知恵も、力も、僕は持っていない。そもそも、人付き合いが苦手だから自殺したいっていう説は、僕が勝手に想像したことだから、間違っている可能性もあるしね。ただ、理由はともかく、自殺願望を持っているのは間違いないと思ったから、その芽を完全に摘む方法について考えた。そして思いついたのが、毎日を楽しく過ごすこと」
「毎日を、楽しく、過ごす」
「そう。九条さんがそれをできていないのだとしたら、自分ではしたくてもできない、ということだよね。だったら、僕と一緒に楽しもうよ。僕もどちらかといえば、楽しむのが下手な人間かもしれない。友達はいないし、無趣味だし、悲観的な性格だからね。でも、楽しむのが下手な者同士、なにをすれば楽しいかとか、いろいろな意見を出し合いながら、無理なく、だけど全力で瞬間瞬間を楽しめば、未来はよい方向に向かうんじゃないかな」
自ずと溜息をついていた。以上が、僕が用意していた脳内原稿の全てだった。
「それが遠藤くんの答え?」
「うん。なにを話すかは事前に考えていたんだけど、途中でちょっと散漫になってしまったかもしれないね。分かりにくかったら、ごめん。要約すれば、夏休みは僕と一緒に遊ぼう、楽しい思い出をたくさん作って、自殺したがっていた過去の自分を忘れるくらい楽しい夏にしよう、ということになるのかな。……これ、先に言っておくべきだったね」
苦笑が漏れる。それは、己の考えを詳らかにすることで浮き彫りになった、醜いエゴイズムに対するものでもあった。
一昨日の下校時の思いがけない九条さんとの交流で、僕は彼女に特別な感情を抱いた。必然に芽生えた、一緒に過ごす時間を持ちたいという欲求。それを叶えるために、『君は私を殺すよ』という発言を己の都合のいいように解釈して、夏休みに二人で遊ぶ機会を作る方向に話を持って行った。
『要約すれば、夏休みは僕と一緒に遊ぼう、楽しい思い出をたくさん作って、自殺したがっていた過去の自分を忘れるくらい楽しい夏にしよう、ということになるのかな』
最初からそう言えば済む話なのに、だらだらと説明の言葉を並べたところなど、醜いエゴイズムを隠したいという醜いエゴイズム、以外のなにものでもない。
それも含めて、九条さんは僕の発言をどう捉えたのだろう?
「この場でどこに遊びに行くかまで決める必要がある、わけではないよね」
「え……?」
「私は全然平気だけど、炎天下でもあるわけだし。というわけで、連絡先」
九条さんは鞄から携帯電話を取り出した。なんの変哲も飾り気もない、シンプルな白のスマートフォン。
「どこをどうすれば、IDが分かるのかな。無料通信アプリ、一応インストールはしているんだけど、使わないから」
「僕が教えるよ」
然るべき指示を与えて、連絡先の交換を速やかに完了した。
「言っておくけど、私、文字を打つのは凄く遅いよ。やりとりはかなりスローになると思う」
「いいよ、そんなの。全然構わない。僕だって早くないし、今日明日中に決めなければいけないことでもないし」
スマホをスクールバッグに仕舞う九条さんの口元は、心なしか少し緩んでいる。
「じゃあね」
九条さんは去っていき、曲がり角に消える。金縛りが解け、いつの間にか元の世界に戻っている。
あまりの呆気なさに、ただ立ち尽くす。こんなにも簡単に、提案が聞き入れられるなんて。こんなにも簡単に、エゴではないと判断されるなんて。
あるいは、エゴだと看破した上で、寛大に許容してくれたのかもしれない。重箱の隅をつつくように難癖をつけるのではなく、超然たる態度で鷹揚に是認する。これまでの交流での印象から考えれば、むしろそちらの方が九条翡翠らしい振る舞いだ。
魔法が解けた途端、汗が思い出したように滂沱と流れ始めた。肌を滑る感触がくすぐったく、鬱陶しい。しかし、悪い気分ではない。何度も何度も、滴り落ちるものを手の甲で拭う僕の顔は、夏空のように晴れやかな笑みに包まれているはずだ。
行く手に光が射している。九条さんと共に過ごす時間が待っている。不愛想に頬杖をついてそっぽを向いている彼女ではなく、それよりもずっと本当の彼女に近い彼女と、共に過ごす時間が。
高鳴りは当分やみそうにない。
僕は九条さんではないから、予知能力じみた能力を使うことはできない。それでも、自分自身の未来に関して、これだけは力強く断言できる。
今年の夏は、僕史上最高の夏になる。
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