僕は君を殺さない

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 無料通信アプリを通じて会話してみて、九条翡翠について分かったことは、二つ。  一つ。申告通り、メッセージを打つのが遅い。  一つ。文章のみのやりとりだと、声で会話をしているとき以上に、冷たく素っ気ない印象を受ける。 「九条さんはどこか行きたいところはある? 宇宙とか外国とか異世界とか、現実的に不可能な場所以外なら、どこでもいいよ」 「特にないけど」 「僕がいくつか候補を挙げた方がいいかな。店に買い物に行くのと、屋外で自然と触れ合うのと、この二択だったらどっちがいい?」 「静かな方が好みだから、その条件に当てはまるのなら、どこでも」 「だったら屋外だね。山か、海か、川か。穴場的な場所を探してそこに行く、みたいな感じかな。いずれにせよ遠出になるけど、平気?」 「一つか二つくらいは、遠藤くんに譲歩しようとは思ってる」 「ありがとう。じゃあ、その方向で検討してみようかな」 「候補は?」 「思い浮かぶものはいくつかあるよ。九条さんは水遊びは好き?」 「海水浴場?」 「残念、海ではないんだ。でも、惜しいところまでいっている。遠くだから、お昼ごはんは現地で食べることになるけど、お弁当は用意できる? あ、ただし、タブレット菓子はなしで」 「私はさっき言った通り」 「ああ、一つか二つ僕に譲歩するっていうやつね。どこに繋がっているかが分からなかったから、軽く混乱しちゃったよ」 「それで、場所は?」 「僕が考えているのはね――」  学生たちが夏休み期間に入ったばかりの駅前大通りは、人で溢れている。日傘、ハンカチ、半袖から突き出た汗ばんだ二の腕。屋外で活動するのに一年の中で最も不適当な季節なのに、人々の体から汗や体臭のように活気が発散されている。目に見えるようですらある。その熱気と、この国の宿痾である蒸し暑さを、服装に占める白の比率の高さが多少なりとも和らげている。  十分前を目標に家を出た僕は、目的地を目指して黙々と歩いている。  上はシンプルな無地の半袖のTシャツ一枚。下はジーンズに、履き古したスニーカー。昼食が入った小型のショルダーバッグを除けば、普段近所のコンビニに買い物に行くときと代り映えしない。  ファッションセンスが皆無の人間が気合いを入れても、滑稽な空回りを演じるだけだ。下手に見栄を張って失敗を犯すくらいなら、いつも通りを貫く方がいい。そう考えた結果の、普段通り。  九条さんはどんな評価を下すだろう? 怖くないといえば嘘になるが、なにせ感情を表に出さない人だから、怖がるのは逆に馬鹿らしい気もする。  土日だろうと、長期休暇の最中だろうと、自宅で過ごす時間が大半を占める僕には、今現在の環境と雰囲気は新鮮だ。好きか嫌いかと問われれば、意見と矛盾するようだが、後者になる。ただ、この雰囲気が好きだと主張する人の気持ちは、まあ理解できなくもない。  休日になるたびに連れ立って遊ぶ友人の一人でもできれば、嫌いが好きに変わるのだろうか? 議題としては面白いが、今日僕たちが出かける場所は喧噪からは程遠い。少なくとも、前回僕が訪れたときはそうだった。今はどうなっているのだろう。  駅舎に一歩足を踏み入れると、鳴りを潜めていた緊張感がにわかに活発化した。待ち合わせ場所は、双方にとって分かりやすい場所を指定した。見つからないのだとしても、携帯電話で連絡をとればそれで済む。頭ではそう分かっていても、合流を果たすまでは不安は解消されそうにない。  構内にあるベーカリーが見える場所で、という約束になっている。  時間帯によっては行列もできる店らしいが、まだ正午からは遠いとあって、客の姿はない。通行人の邪魔にならない場所で足を止め、周囲に目を走らせる。  ほどなく、思いがけない人物の姿を視界に捉えた。  すぐさまその人物のもとへ向かう。足は不可抗力に急く。彼女の目的を考えれば、逃げられる心配などないのに。 「九条さん」  ある程度近づいたところで声をかける。人声が満ち、数多の人々がひっきりなしに行きかう状況ではあったが、最初の呼びかけで気づいてくれた。二十メートルほどの距離を移動する中で、二度も通行人にぶつかりそうになり、頭を下げた。  九条さんは全身黒尽くめだ。トップスもボトムスも肌の露出が殆どない、という意味でも、見るからに暑苦しい。持ち物は同じく黒色の、小さめのハンドバッグが一つ。  待ち合わせ相手が来たことに気がついても、笑顔になるでもなく、僕に向き直って顔をじっと見つめてくるだけだ。 『楽しかったら自分を出してもいいんだよ。普段とは全然違う九条さんを見せても、僕は笑わないし、誰にも言いふらしたりしないから。言いふらすような相手もいないしね』  僕は昨夜、そんな内容のメッセージを九条さんに送った。返ってきたレスポンスは、 『随分、気がきくんだね』  という、短く、どこか皮肉めいたものだった。  そう言いながらも、いざ当日に顔を合わせたら、僕が理想として想像に描いたような姿を見せてくれるかもしれない。そんな身勝手な期待もしていたのだが、これまでのところ、どの瞬間を切り取ってもいつも通りの九条さんだ。 「九条さん、早いね。僕も早めに来たつもりだったんだけど」 「平気。ついさっき来たところだから」 「本当に? 九条さん、感情が表に出ないから、本当は気をつかってくれているんじゃないかって疑っちゃうな」 「じゃあ、五時間前から待っていたということにしておいて」 「あ、ごめん。もちろん、本気で疑ったわけじゃないよ。待っていないんだったら、よかった」 「で、どこへ行けばいいの?」 「切符を買って改札を潜ろう。一本早い便に間に合うかもしれない」  ホームを走るマナー違反を犯してしまったが、予定よりも一本早い電車になんとか乗ることができた。  吊革に掴まっている乗客が二・三人いるという情勢だったが、運よく乗車口近くに二人分の空席が生まれたので、そこに座る。椅子取りゲームのような素早さを見せた僕とは対照的に、九条さんは他に座るべき人がいないか、通路の左右に静かに目を走らせてから、しとやかに腰を下ろした。根本的な気質の違いを感じると共に、屋上で日陰に腰を下ろしたさいの上品な挙動を思い出した。  感情を表に出さず、あまりしゃべらない、という異常の陰に隠れているが、基本的には礼儀正しい人だ。冷笑的なことを口にすることもたまにあるが、口調自体はていねいだし、荒っぽい真似をしたことは今までに一度もない。 「詰めて」  着座してすぐ、九条さんから言葉をかけられた。彼女から見て、僕の側ではない隣に中途半端な空きがあり、何人かが少しずつ動けば一人分のスペースを作れそうだ。言われた通りにすると、九条さんは思いのほか大胆に体を寄せてきた。整髪料のかぐわしい香りが鼻孔をくすぐった。  細身の女性だったのでどうにか座れたが、成人一人が座るにはきついらしく、僕たちは少し窮屈な思いを強いられている。それでも、精神的な苦痛まで覚えずに済んだのは、大げさな言い方が許されるならば、苦労を共にしてくれる人が隣にいてくれるからなのだろう。 「メッセージでは、目的地には十一時に着くということだったけど、一本早いとどうなの」 「二十分早く着くよ。二十分って待つとなると長いから、乗れたのは大きいよね」  九条さんから話を振ってくる場合は、必要事項について確認を取ってくることが多かった。 「見て。窓の外。山の緑と空の青! 風景画みたいできれいじゃない?」 「そうだね」  僕からも話を振るようにしたが、九条さんの対応は総じて素っ気ない。  他の乗客の目に、僕たちの関係はどう映っているのだろう? 全く気にならないわけではないが、所詮はどうでもいいことだ。和気藹々とした談笑ではないかもしれないが、ストレスなくコミュニケーションがとれているのだから。  むしろ僕が気になっているのは、他人ではなく九条さんのこと。 「九条さん。駅にいたときから気になっているんだけど」  呼びかけに反応して、中吊り広告を眺めていた顔がこちらを向く。そのさい、彼女の顎が小さく動き、口内でなんらかの音が鳴った。瞬間、気になっていたものの正体が掴めた。 「やっと分かった。キャンディだね。九条さんはキャンディを食べているんだ。しゃべるたびに甘い匂いが仄かに漂ってくるから、なんだろうなと思っていたんだけど」  九条さんは無言で頷いて指摘を認めた。 「甘い匂い、九条さんと初めて話をした日にも感じたんだよね。あのときも舐めていたんだ?」 「正解。学校にいるとき以外は、結構な割合で舐めているかな。欠かさずに、ではないけど」 「好きなんだね、キャンディ」 「別に。習慣になっているからやめられないだけ」 「タブレット菓子とか、キャンディとか……。九条さん、普段ちゃんとしたものを食べてるの? 心配になるよ」 「食事はきちんととっているから、ご心配なく。クイズだけど、匂いだけで何味か分かる?」 「味か。んー、なんだろう。イチゴとか?」 「残念」  九条さんはおもむろに大きく口を開け、舌を突き出した。唾液で淫靡に濡れたその器官の上に載っていたのは、半ば溶けて歪に変形した、黄緑色の球体。 「マスカット。メロン味じゃなくて」  宝石のような球体とともに舌が引っ込められ、唇が閉ざされる。九条さんの視線は中吊り広告に戻った。  一連の動作に、あるいは舌の様態に、僕はエロティックなものを感じてしまった。しばらくの間はしゃべり出せないほどだったが、感情が静まってからは、元の調子で、何事もなかったように話ができたと思う。  無感情で無口だからこそ、なのだろう。九条さんはなにをするにも前触れというものがなくて、突然の言動に驚かされることもある。  でも、この鼓動の高鳴りは、決して不愉快ではない。  九条さんと一緒にいられる時間の中で、何度こんな体験ができるのだろう。  静かに、それでいて強く、期待に胸を弾ませている僕がいた。
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