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僕たちが乗った鈍行列車は、快速電車が止まる駅で大勢の乗客を吐き出した。以後は、停車するたびに車内の人口密度が低下していく。車窓越しの建物は次第に疎らになり、反比例するように植物の緑が目立ってきた。
九条さんは視線を窓外に向けている時間が長いから、景色の変遷には当然気がついているはずだ。ただ、僕になにか言ったり尋ねたりはしない。種明かしはなるべく先延ばしにしたいので、こちらとしても黙っておく。
やがて、路線の終点となる駅に到着した。
九条さんを促して降車する。改札を潜り抜けて駅舎を出ると、僕たちが暮らす街よりもやかましい蝉の大合唱と、湿気をふんだんに孕んだ三十度越えの熱気が歓待した。前方には小高い山がそびえている。駅前から伸びた道は、その巨大な塊へと真っ直ぐに突き進んで衝突し、木々の間を縫って奥へと続いている。
「山」
随分と久しぶりに聞いたような、九条さんの声。言及した自然物を凝視していて、多少なりとも心が動かされたのは確からしい。ただ、九条さんは九条さんだから、声音や表情から感情らしい感情は読み取れない。
「実は、ここには前にも来たことがあるんだ」
「下見?」
「いや、子供のころに家族と。家族っていうか、おじいちゃんだね。おじいちゃんと二人で来たことがあるんだけど――歩きながら話そうか」
道が続く先を指差すと、九条さんは頷いた。僕たちは肩を並べて歩き出す。
「ここに来たのは、小学四年生のときだったかな」
さっそく僕は話し始める。九条さんは僕ではなく景色を見ているが、聞いていないようでその実聞いているというのは、電車の中での経験から把握済みだ。
「僕の父さんと母さん、そのころから折り合いが悪くて、よく夫婦喧嘩をしていたんだ。子供の立場からすると、理由を知りたいというよりも、とにかく争いをやめてほしい、いつも通りのお父さんとお母さんに戻ってほしい、ただその気持ちだけなんだよね。でも、僕がどんなに泣いても喚いても口論をやめてくれなくて。そんなときに決まって逃げ込んだのが、近所にある父方のおじいちゃんの家。優しくて物静かな人で、僕をとてもかわいがってくれて」
傘を忘れた日に学校まで届けに来てくれたこと。夏休み恒例だった工作の宿題の手伝い。両親に内緒で買ってくれた高級な和菓子。具体的なエピソードを交えながら、祖父の人となりを滔々と語る。
九条さんは相変わらず相槌も打ってくれない。ただ、心なしか、僕に注目する時間が長くなった気がする。
「休日って、親が両方とも家にいるから、なにかと衝突しやすいでしょ。だから土日になるたびに、遊びに行くと称しておじいちゃんの家に避難するようになって。ゲームばかりするもよくないということで、いろんな場所に連れて行ってもらうようになったんだ」
「そのうちの一つが今向かっている場所、ということね」
「そういうこと。楽しかった思い出が残っている場所だし、九条さんがリクエストした環境に合致しているから、行き先に選んだんだ」
「情報量が少ない割に、伝えるのに随分時間がかかるのね」
「九条さんが簡潔すぎるだけだよ」
両親の仲、親子関係の推移、祖父の現在。興味を惹かれる事柄も多かったはずだが、九条さんは黙っている。家庭の問題には首を突っ込まないように配慮したのか。単に関心がないだけか。いずれにせよ、気軽な一エピソードとしてさらっと触れるだけのつもりだった僕としては、ありがたい対応だ。
道はやがて山の中に入った。緩やかな起伏と曲折をくり返しながら、延々と続いている。
木々の枝葉が庇代わりになっているので、汗が滲むことはない。風が通り抜けると、涼しいと錯覚する瞬間さえある。言及する話題に、目に映る自然物を取り上げることが増えてきた。
やがて道が二股に分かれた。真っ直ぐに行く道と、左に折れる道と。前回来たときの祖父の説明によると、真っ直ぐに進めば集落がある、とのことだった。左の道に行くよう、手振りで九条さんに促し、そちらへと進む。
道なりにひたすら歩いていると、視界が開けた。
「川」
突き刺すような直射日光に怯む様子もなく、九条さんは必要最小限の言葉で、前方を左から右へと流れているものに触れた。
せせらぎならば少し前から聞こえていた。水流が豪快だとか、河原が広大だとか、眺めが雄大だとか、刮目に値する特徴を備えているわけではない。彼女の性格を考え合わせれば、驚きはないに等しかったはずだ。しかし、声から感情が排除されているせいか、却って心を動かされているようにも感じられた。
「ここがさっき言った、おじいちゃんと来たことがある河原。景色としては平凡なんだろうけど、印象に残っている場所の一つではあるね。移動に自家用車じゃなくて、電車を利用したからだと思うんだけど。聞いたこともない鳥の鳴き声を聞きながらお弁当を食べたり、石をひっくり返して生き物を探したり。楽しかったな」
説明を述べるのも聞くのも、川を眺めながらになる。上流ということで、一面に散らばった石は、岩と呼ぶのが適当な形状と巨大さを誇るものが多い。その狭間を、細い水の流れがほぼ一直線に疾走している。僕たちが現在立っている道の脇から、踏み固められた急な細道が河原へと伸びていて、そこを通って下りられるようになっている。祖父と来たときは誰とも出会わなかったが、現在も無人だ。
「とりあえず、下まで行ってみようか。九条さんは河原でなにかしたいことはある?」
「別に。川は川でしかないし、河原は河原でしかないから、特になにも」
「冷めてるなぁ。釣りなんかしたら面白そうだけど、道具も知識もないからね。九条さんの服装だと、水遊びをするのもちょっと難しそうだし」
「一人ですれば」
「そんなの、面白くないよ。せっかく二人で来たんだから、二人で同じことをやらないと。とにかく、いったん下りようか」
バッグの持ち手を握り直し、先陣を切る。気乗りがしていないようなので若干不安だったが、ちゃんとついてきてくれた。足を滑らせないように、九条さんに声をかけながらの移動となる。
荷物を適当な場所に置き、僕は河原を歩き回る。清澄で新鮮な空気、生命力を横溢させた豊かな緑、陽光に煌めく川面。自然の中で活動する時間が募れば募るほど、懐かしさが深まっていく。
前回訪れたのは六・七年も前になるが、石や岩という、変化の速度が極めて緩やかな物体がひしめく場所だからか、既視感を覚える瞬間も少なくない。この大きな角張った岩は、おじいちゃんに「危ないからやめておきなさい」と制止されるのを振り切ってよじ登ったな、とか。川辺のこのあたりで転んで泣きそうになったんだっけ、だとか。足場は悪いが、ちょっとしたアトラクションで遊んでいるかのようで、歩くことが全く苦にならない。
ふと我に返り、足を止めて九条さんの姿を探す。
彼女がいたのは、僕たちが荷物を置いた場所の近くにある、大きくて扁平な石の上。そこに端然と腰を下ろし、景色を眺めている。二人で来たのだから二人で同じことをしよう、という、十数分前の自分の発言を忽然と思い出した。足元に注意しながらも急ぎ足に、辿ってきた道を引き返す。
「はしゃいでいるつもりはないのかもしれないけど、はしゃいでる」
戻ってきた僕に、九条さんはいきなりそんな言葉をぶつけてきた。例によって無表情、感情のこもっていない声で。
「いつ川に向かって石を投げ込み始めるかと思って、ずっと見ていたんだけど」
「水切り遊びのこと? あれ、上手くできないから面白くないんだよね。もう少し流れが穏やかなところでやった方がいいだろうし。九条さんは退屈?」
「そうでもない。静かな場所は嫌いじゃないから。川の近くだから音がうるさいけど、うるさくない」
言わんとしていることは理解できる。たとえば、たまにどこかで鳥が鳴く声がするのだが、川音はそれの邪魔をしていない。音量も響きも異なるにもかかわらず、一方が一方を圧倒して掻き消すのでも、邪魔し合って不愉快な音と化すのでもなく、平和的に併存している。
大勢の人が活動する町中にいるときには、絶対に味わえない静けさだ。この環境が好きだからこそ、祖父とこの地を訪れた過去は輝かしい思い出の一つとして脳内に保存され、九条さんと共に足を運ぶ場所に選ばせたのかもしれない。
「僕も静かな場所は好きだから、九条さんの気持ちはよく分かるよ。なにかして遊ぶというよりも、景色を眺めながらぼーっとしていたいのかもしれないね。癒されたい願望がある気がする。ストレスが溜まっているのかな」
「年寄りじみたことを言うんだね」
「静かな場所は嫌いじゃないって最初に言ったの、九条さんじゃないか」
九条さんの右隣にある、適当な大きさの石の上に腰を下ろす。互いに景色を眺めながら、そのついでといった感じで会話を交わす。静かで、穏やかで、安らげる。そんな時間が僕たちの世界を流れていく。
十一時半を回ったところで、少し早いが昼食を食べることにした。僕が持参したのは、コンビニで買った唐揚げ弁当と緑茶。九条さんが本日の昼食に選んだのは、タマゴサンドと紅茶。
「九条さん、今日はちゃんとした昼食だね」
「なに、その失礼な反応」
僕の発言が失礼だとは微塵も思っていない声でそう言って、サンドイッチのフィルムをていねいに破く。
「屋上で九条さん、タブレット菓子が昼食だって言ったけど、その発言が凄く印象深くて。だから、申し訳程度のお菓子を持ってきてそれで済ませる、みたいな感じなのかなって思っていたよ」
「食欲が湧かないときはそうだけど、普段は普通だから」
「でも、量は少ないよね。それだけで足りるの?」
「充分。そんなに大量の揚げ物とか、絶対に吐く」
「大量ではないと思うけど。それとも、揚げ物が苦手っていう意味?」
「好きでも嫌いでもないけど」
他愛もない話をしているうちに気づいたのは、出会った当初と比べて随分とスムーズに会話ができている、ということだ。
感情が表に出ないこと。そのせいで、対応が素っ気なく感じられること。その二つに、最初はやりにくさを感じていた。しかし、場数をこなしたことで、彼女の独特な言動に心が慣れてきた。今となっては、九条さんならばこう返すだろうと予測を立てて、それをもとに会話を組み立てることすら、ある程度思い通りにこなしている。独特さに翻弄されるのではなく、腹を立てるのでもなく、個性は個性として受け入れ、愛し、楽しめている。
「でも、こうして九条さんと一緒に食事ができて、今日はよかった。屋上で話をするって決まったとき、正直に告白すると、二人で昼食を食べる展開を期待していたから」
「そんなに心躍るイベントなの? 食事を共にするというのは」
「心躍るよ。気が置けない人が相手なら、だけどね。九条さん的にはどうなの?」
「楽しくない、わけではないかな。遠藤くん、私が嫌な気持ちになることは言わないから。よくしゃべるな、とは思うけど」
「よくしゃべる? そうかな。九条さんがあまりしゃべらないから、無意識に引っ張る側に立とうとしているのかもしれないね」
僕は普段、友達付き合いを全くしない人間だ。トークに長けている自覚、人と話すのが好きだという自覚、どちらもない。無口な九条さんにとっては、殆どの人間が「よくしゃべる人間」なのだろう。
「でも、別に、うるさくはないから。よくしゃべるけど、うるさくはない」
「さっき言った川の音みたいに、不愉快ではないということ?」
「少なくとも、邪魔ではないかな」
「そういうことなら、よかった。九条さんってリアクションが希薄だから、しゃべっていて不安だったんだよね」
「話が上手いとは思わないけどね」
「その一言は余計だけど――でも、うん、やっぱり嬉しいよ。九条さんが楽しんでくれているみたいだから」
食事を終えた僕たちは、下流に向かって河原を歩くことにした。
会話の内容は引き続き、他愛もない、悪く言えばくだらないこと。足元が悪いので、そちらに注意をとられて、言葉のキャッチボールが途切れることもたびたびあった。不思議なのは、向かい合って食事をしていたときよりも並んで歩いている今の方が、緊張を強く感じることだろう。飛び交う言葉の頻度が減少したのに伴い、静けさが強く訴えかけてくるせいで、二人きりというシチュエーションを強く意識してしまうから、だろうか。
とはいえ、全体的な雰囲気は悪くない。むしろ、とてもいい。要するに、いい意味で緊張感がある。
駅前で合流してからの二時間ほどで、僕は九条さんという風変わりな少女に、随分と適応できた気がする。
口の中のキャンディを見せられたときはさすがに慌てたが、どぎまぎさせられるような一言を九条さんが口にしても、あからさまに戸惑うことなく受け流したり、受け止めたりできるようになってきた。息苦しい雰囲気の中、相手の腹の中を探りながら言葉を交わすよりも、明るい光の下で気軽に言葉を交わす方が、当たり前だがずっと楽しい。
十分ほど歩くと、少し大きめの岩が密集し、進路を半ば防いでいた。迂回したり、乗り越えたりして先へ進めないわけではないが、苦労をしてまで散策を続行する理由はない。双方の合意のもと、踵を返す。
「このままずっと川に沿って歩き続けて、家まで帰るつもりなのかと思ってた」
「まさか。荷物を置きっぱなしだし、それはないよ。ていうか九条さん、どれだけ僕を変なやつにしたいの」
「私と一緒にどこかへ遊びに行こうだなんて提案する時点で、そうだと思う」
「そんなことないって」
九条さんが石に躓いて転んで、助け起こすさいに体が密着して――などというベタなアクシデントも起こらないまま、僕たちは元の場所に戻ってきた。
時刻は十二時半。電車にちょうど間に合いそうということで、帰ることになった。
急勾配の細道を上って舗装道路に出た途端、行きは見落としていたものを発見した。
「うわー、懐かしい!」
僕が指差した先にあるのは、樹木と樹木の間にひっそりと建つ、古びた木製の小屋。高さは二メートル弱。幅と奥行きはそれよりも少し長い。
「取り壊されたか、台風の直撃を食らって壊れたか、そのどちらかだと思っていたんだけど、健在だったんだね。元が古びているから、前見たときと全然変わっていないように見える。……あ、ごめん。説明が遅れたね。この小屋、六・七年前におじいちゃんとここに来たときも建っていたものなんだ」
中は空っぽだったこと、用途は不明なこと、なども併せて説明する。試しに戸を開いてみると、蜘蛛の巣がいくつもかかっていたが、なにも収納されていない。外観と同じく中身も、前回から変わりないようだ。
「存在には気がついていたけど、遠藤くんがスルーするから、スルーするべきなんだと思って」
興味あるのかないのか、判然としない目つきで小屋を見やりながらの、九条さんの発言だ。
「なんだ、気づいていたんだ。教えてくれればよかったのに」
「いかがわしいものが保管されていそうだから、妄りに話題にしない方がいいのかな、と思って」
「蜘蛛の巣が張っているだけだよ。昔も今もね。前回来たときは、秘密基地にするのによさそうだとか、そういう無邪気なことを考えた記憶がある。まだ小学生だったから」
「夢、叶える?」
「いや、やめておく。また今度来る機会があれば、利用を検討しようかな。今日はもう帰ろう」
「そうだね」
僕たちは来た道を引き返した。
帰りの電車の中ではあまりしゃべらなかった。疲れたからというよりも、静かに過ごしたい気持ちが強かったのだと思う。
僕としてはそれで構わなかった。隣り合って座席に腰を下ろし、下りるべき駅に着くまで電車に揺られる。ただそれだけで。
「九条さん、今日はありがとう。とても楽しかったよ」
九条さんと別れるときが来た。前日に交わした取り決めに従い、待ち合わせ場所と同じ駅構内でのお別れだ。
「九条さんはどうだった? 楽しかった?」
「歩かされた割には楽しかった、かな」
「よかった。じゃあ、最後にもう一つだけ訊かせて。自殺するのが馬鹿らしくなるくらい、楽しくなった?」
「さあ、どうだろう」
素っ気なく答え、僕に背を向けて歩き出す。呼び止めようとしたが、それよりも一瞬早く、彼女は語を継いだ。
「一回くらいで変わるはずない。これと同じことが何度かあれば、もしかしたらって思うけど」
その言葉は、僕にとっての光になった。眩しいほどに輝かしくはないが、折に触れて何度も眺めたい、そんな温かな光に。
九条さんの言う通りだ。一回で不充分なら、何度も、何度でも挑戦すればいい。
その挑戦権を与えてくれたことに、僕は心から感謝する。
僕はきっと大丈夫だ。親が何度醜い争いをくり広げようとも、凪を漂うよう小舟のように平穏な気持ちで、騒々しさをやり過ごせるだろう。
光。翡翠色の光。
触れられないが、すぐ近くで輝いてくれる。ただそれだけで、僕は救済されている。
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