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心の行方
書類を作成して、お昼休みの後で通達を終わらせ細々とした仕事をしている内に問題の時間が近付いていた。
「うわっ」
慌てたような声と同時にバサバサバサッと派手に紙が落ちる音がして何事かと顔をあげる。今時なんで大量の紙資料を運んでいたのかわからないが結城を含め何人かが拾い集めに立ち上がった。髪をオールバックにしたスクエアフレームの銀色が涼し気な男性が頭を下げながら慌てて拾い集めている。あと少しで集め終わると伸ばした手の先でぐしゃっと紙が踏まれた。2度3度。
「紙をばらまいた無能な奴はどこのどいつだ」
「申し訳ありません」
わざと踏みにじられた書類を見ているのが嫌で結城はいたぶろうとしていた動きを遮るように声をあげていた。
「課長、申し訳ありませんが足を……」
「サクラちゃんじゃないか! 僕の足にキスしてくれるって?」
さすがに周囲がざわついた。折原が立ち上がって間に入って対峙する。みるみるうちに新見の顔が怒りにどす黒くなり凶悪な顔になっていく。緊張に強張った顔で折原は新見を真っ直ぐに見据えた。
「セクハラですよ」
「何を言っているのかね、この主任ごときが! ただのコミュニケーションだろうが!」
「先ほど監察官を見ました。迂闊な行動はなさなない方がいいかと」
「!」
「それに結城さんはこれから仕事の打ち合わせが入っています」
「あ、ああ、仕事は大事だ。大事だとも。サクラちゃん、頑張るんだよ」
わざとらしく笑みを浮かべ新見は足をどけた。そして横を擦り抜けざまに折原の足を蹴っていった。痛みに顔を顰めながら唇に人差し指を当てて苦笑する。声をあげるなと。
「結城さん、その書類を運ぶのを手伝ってあげてください。1人で持つには多過ぎるでしょう。ほら、みんなも仕事に戻って」
「すいません、僕のせいで」
「気にしないで」
結城が泣き出しそうな気持ちを抑え込んでいる目の前で件の男性は折原に頭を下げていた。香崎が集めた束を結城の持っている束に重ねて、拾えずにいたくしゃくしゃになった紙を伸ばして一番上に置いて結城の背中を軽く叩いた。
「少し気分転換しておいでよ」
「……ありがとう」
書類を抱えてフロアを出たところで見上げる背中がしゃべった。
「お騒がせしてすいません」
「いいえ……誰でもそういう時がありますから」
男は笑ったようだった。光に当たるとストライプが浮かぶ黒いスーツ。洒落ている。こんな社員いただろうか。結城が考えながら歩いていると陽の光が目に入って我に返った。ちょうど総務課のあるフロアの反対側にある大会議室の近くに来ていたようだ。一体どこに行くのだろうと訝し気に首を傾げながらも付いて行けば会議室を少し過ぎた場所にある長椅子に男は書類を置いた。
「改めまして、ヒーロー課統括の木河 銀二です」
「え⁉ あ、失礼しました、あの総務課の櫻崎 結城です……」
「どうぞお座りください」
「ここで面談を?」
「はい。特に女性にとっては見知らぬ男性と密室に入るのは抵抗があると思いまして。しかし、予想を超えて下種ですね、新見新造は」
結城は目を丸くした。木河の配慮にも驚いたが吐き捨てるように言い切った内容にはもっと驚いた。木河が長椅子の端に座り目で促すので結城はおずおずと反対の端に座った。2人の真ん中に書類が積みあがっている。
「単刀直入に申し上げます。私達は貴女を引き抜きたい」
「何故、ですか。私は若くないし」
「ヒーローに年齢は関係ありません」
「戦うなんて考えられません」
「そうかもしれませんね。貴女は周囲の平和を祈っている。いつでも。その裏で……貴女は怒りたいんじゃないかと思いました」
どきりと心臓が跳ねた。そんなわけない。怒るのは平穏と程遠い。怒る人間は避けたい。いつもそう思っているのに木河のすべてを見通すような瞳は結城がまだ気付いていない何かを確信している気がした。
拳を握り締め目を逸らした結城に木河は声を荒げることもせず淡々と言葉を紡いだ。
「怒りは悪いことじゃありませんよ。悪いのはコントロールできずに不当に人を攻撃することです。今はやたらに怒りを悪者にする風潮が強いです。でもね、怒りは生存本能であり、尊厳でもあるんです」
「尊、厳……?」
「怒りは自分にとって大切なものが脅かされた時の反応です。自分の身が危険に晒されたときに拒絶するための意思表示です。櫻崎さん、貴女は何もかもを許すんですか……?」
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