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学童校舎の掃除はもちまわりだ。放課後、みんなよりはやく来て、遊ぶよりまえに床を箒ではいて、机を拭かなきゃいけない。今週の当番は、菜緒と睦基だった。
睦基は同じ5年生で、家も近所の幼なじみだ。学校ではあんまり親しくしゃべることもないけれど、菜緒の数少ない、心許せる友達でもある。その日は裕未の幽霊も現れていなかった。だから菜緒は様子をうかがうように、最近の美奈ちゃんって変じゃない、と睦基に聞いてみることにした。
「変って、なにが」
「なんだか前とちがわない? 前はもっと……おとなしかったよね。服装とかもいつもきちんとしてたし、目立つのもきらいだったし。でもいまは」
たとえば授業で積極的に手を上げるようになった、それくらいのことだったら菜緒だって気にしない。でも雛子がゴミ屋敷と吐き捨てたあのあたりから、たしかに美奈は清潔感を欠くようになった。爪も伸びっぱなし、検査の日にハンカチもティッシュも忘れてくる、きちんとブローされていた髪はいつも寝癖ではねている。先生やクラスメートの悪口を言うようになった。些細なことだけれど積み重なると大きな違和感となって菜緒を襲う。その違和感を覚えるたび、同時に裕未の視線も感じて不安になる。
けれど睦基は、そうかなあと興味なさそうに頭をかくばかりだった。
「いままで裕未の影に隠れて見えてなかっただけじゃないの」
「そんなこと……」
「それか、常盤山の呪いにあったとか」
「呪い?」
ぞんざいに飛び出した物騒な単語に、菜緒はびくりと体を震わせる。睦基は、おやというように片眉をあげる。
「なに、おまえ聞いたことないの、あの噂」
「……ない」
常盤山は学校の裏手にある、子供たちの遊び場だ。山といっても、少し盛り上がった小高い丘程度のもので、かくれんぼや鬼ごっこに使うにはもってこいの場所だった。
「あそこに、小さな祠があるの知ってるだろ?」
「うん……小さな注連縄を張った樹もあるよね」
「そう、それ。あそこにさ、嘘を埋めるとほんとになるっていううわさがあるんだよ」
「嘘を……埋める?」
どくん、と心臓が跳ねた。
――わたし、知ってる。
はじめて聞くはずなのに。どこかでそれを、聞いたことがあるような気がする。
「たとえば、明日のテストがいやだったとするだろ。そうすると、明日はテストなんてない、っていう嘘を埋めるんだよ。そうすると、本当になるんだって」
「それって、願い事をいうのとどうちがうの?」
「さあ。でもさ、明日テストがなくなりますようにっていうのと、明日のテストなんてそもそもありませんっていうんじゃ、気持ちの強さがちがう気がするよな。ねえよそんなもん!って言い切ったほうが、信じそうになるじゃん」
どくどくどく、と全身の血液が脈打っている。どうしてだろう、どうしてこんなにも菜緒は不安になるのだろう?
「でも、あんまり無茶な嘘を埋めると、本当になるかわりにひどい呪いをくらうんだって。人格が変わったり、寿命が縮んだり。ま、それも嘘くさいけどな」
「……じゃあ、美奈ちゃんはその呪いを受けたってこと?」
「ばっか、そんなわけねえじゃん。冗談だよ、冗談。言ったろ、うわさだって。ジンクスみたいなもんだろ、きっと」
深刻な顔で箒を握りしめる菜緒を、睦基は笑い飛ばす。そこでようやく菜緒もつられて頬を緩める。
「そんな話、はじめて聞いた。もっと流行ってもよさそうなのに」
「だってこれ、学童限定のうわさだもん」
「え?」
「俺は去年卒業した6年生に聞いたぜ。祠のうわさは、さみしい子供たちだけの秘密なんだって」
「さみしい……子供」
「そう。俺たちみたいな。だから美奈は関係ねえよ。聞いたこともないと思うぞ」
でも裕未は。
学童にしょっちゅう出入りしていて、友達もいなかった裕未は。
ぞわ、と背筋に悪寒。ああもうすぐ来る、もうすぐ現われる。菜緒は胃がきゅうっとしめつけられるのを感じた。
「わたし、裕未ちゃんだと思うの。……美奈ちゃんじゃなくて」
睦基は怪訝そうに菜緒を見返した。
「死んだのは、本当は美奈ちゃんだったんじゃないかな。裕未ちゃん、もしかしてずっと、美奈ちゃんになりたかったのかもしれない」
「……なんだよ、それ。裕未が美奈を殺したってこと? 殺してなりかわったって?」
「殺したかどうかは……わからないけど」
でももし、残ったのが裕未だったら、きっとみんなは疑った。滑って転んだんじゃなくて、裕未がいつもの意地悪で美奈を突き飛ばしたんじゃないかって。それでまちがって、階段から落ちてしまったんじゃないかって。
菜緒が冗談を言っているわけではないと気づいて、睦基は顔色を変えた。
「……いくらなんでも、それは無理だろ。あいつら、確かに双子だったけどでも、二卵性で全然似てなかったじゃん。入れ替わるなんてそんなの」
「だからその、嘘を」
ひくっとのどが鳴る。言葉が、つっかえる。
「嘘をついたんじゃないかな、裕未ちゃんは。死んだのは裕未ちゃんで、自分は美奈ちゃんだってそういう嘘を」
「ばか言ってんじゃねえよ。ただの噂だって言ったじゃん」
「でも最近の美奈ちゃん、絶対に変だよ。睦基だって本当はそう思ってるでしょ? あれじゃまるで」
かたん、と音がした。菜緒と睦基はそろって体を震わせる。校舎の入り口に、人影があった。血走った、憎むような目と一瞬だけ視線が交差する。だけどすぐにその人影は背を向けて走り去っていく。あれは。
菜緒も睦基も、一言もしゃべらなかった。少しして睦基が、もうやめよう、とだけ言った。もうこの話はおしまいだ、おまえも他の誰にもするな、そんな話は忘れろ、と。
菜緒はぶんぶんと首を横に振った。だって菜緒には、見えている。部屋の隅でひとりで立ちすくんで、どこにも行けずにただ、かえして、と泣く女の子が。死んだはずのあの子が、どうしても菜緒には美奈にしか見えない。だったら菜緒たちが毎日、顔を合わせているのはいったいだれなのだ?
だけど睦基にそれをぶつけることも、菜緒にはできなかった。
「……ねえ、睦基。どうして裕未ちゃんは、あんなに美奈ちゃんを嫌っていたんだろう」
双子なのに顔も性格も全然似ていなくて。
だけど美奈はいつも裕未を気にかけていた。わたしがアイロンかけた洋服を出してもね、裕未、着てくれないの。さみしそうにつぶやいていた美奈の横顔を菜緒は覚えている。どれだけきつくあたられても美奈は決して裕未を嫌わなかった。
ぽつりと睦基が言う。
「日曜日にいつも、兄貴に教会に連れて行かれるんだ」
人影の消えていったほうを眺めている睦基に、つられて菜緒も外を見やる。
「カインとアベルの話って知ってるか?」
「……知らない」
「聖書に載ってる、有名な話だよ。兄と弟が神様に贈り物をした。だけど神様は、弟の差し出した羊だけに目を留めて、兄貴のことは無視したんだ。それで兄貴は、弟を殺した。人類で最初の殺人はこれだって言う人もいるらしい。……聖書なんて、説教するためのつくりごとだって俺は思ってる。だけどさ、人を殺すなって説教するにしても、どうして兄弟の話にする必要があるんだろう?って俺、ずっと疑問だったんだ。だけど裕未と美奈を見ていたら、なんとなくわかった気がした」
いつもひとりぼっちで、友達のいなかった裕未。
いつも友達に囲まれて、みんなに愛されていた美奈。
その顔を思い出そうとする。だけどどちらも、ぼやけてしまってわからない。
「同じはずだと思うから、むかつくんだ。同じはずなのに、ていうか自分のほうがちょっと上のはずなのに、弟だけがひいきされるから腹立つんだよ。なんであいつばっかりって。なんで自分ばっかりこんな目に、って。たぶん裕未もそうだったんじゃないかな」
「でも……裕未ちゃんと美奈ちゃんは、ぜんぜん、同じじゃなかったよ」
「裕未にとっては同じだったんだよ。だって、双子だから。だからきっと、他人よりもいやだったんだ」
しょうがないの、あの子さみしいのよ。だからわたしだけは味方でいてあげるの。そう言っていた美奈。
裕未は、さみしかったのだろうか。学童の子供たちと、同じように。
「なあ、もうひとつ教えてやろうか。……弟を殺したカインは、アベルはどこかと聞かれたときに、知らないっていうんだ。おれがあいつのことなんて知るわけないだろって。それが、人類が最初についた嘘」
ひどく大人びた表情で、睦基はつぶやいた。
「自分を守るためにきっと、人は簡単に嘘をつくんだよ」
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