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今日、学校が終わったらうちに遊びにおいでよ、と美奈が言ったとき、菜緒は迷わずにうなずいた。こわかった。だけど本当のことを知りたい気持ちが恐怖に勝った。
久しぶりに訪れたその家は、ひどい有様だった。ドアを開ける前から、すえたにおいがした。鼻をつんと突く、すっぱいような苦いような奇妙なにおい。
ドアが開いた瞬間、押されるように出てきた異臭に全身が包まれ、菜緒は泣きそうになった。それなのに美奈は何事もないかのように平然としていた。
あふれだす洗濯物の量は、以前の比ではなかった。菜緒の腰ほどまでその高さは増していて、踏まねば廊下など歩けなかった。シャツの隙間から、かさこそと音がして白い幼虫のようなものが這い出してきたのを見て、菜緒は胃から給食で食べたシチューが逆流しそうになるのを感じた。
リビングからは、腐臭、としかいいようのないものが漏れだしていた。なるべく、鼻で息を吸わないようにする。においなどという生易しいものではない。重たくのしかかってくるその空気は、息を止めていても毛穴の隙間から刺すように入りこみ、菜緒の体を蝕む。
「美奈ちゃん、……お母さんは?」
「さあ? 奥で泣いてるんじゃない? 知らない。ずっと、顔見てないもん」
吐き捨てるように、美奈は言う。
「ばっかみたい。今までずっと美奈、美奈って裕未のことなんて見向きもしなかったくせに死んだとたんに今度は裕未、裕未って。泣いてたって裕未もパパも帰ってこないのに。この家にはあたししかいないのに」
「お父さん、いないって……どういうこと?」
「ずっと帰ってこないの。たまに帰ってきても、すぐいなくなっちゃうし」
どうでもいい、と美奈は憎憎しげに切り捨てる。
やっぱりちがうと、菜緒は思った。本当の美奈は、こんな言い方はしない。目の前の美奈は、しわくちゃのシャツに薄汚れたジーンズを履いていた。薄汚れて、腐臭ただようこの家に、平然とした顔で立っている彼女が本当の美奈のはずがない。
裕未ちゃんなんでしょう、と菜緒は言った。
あなたは美奈ちゃんなんかじゃない。裕未ちゃんでしょう、と。
言葉にしたとたん、ぶわっと汚れた空気が口からもぐりこんできて、菜緒は思わず咳き込んだ。そんな菜緒を、わずらわしいものを見るように美奈はゆっくり振り返る。
「あたしは、美奈よ」
ちがう、と菜緒は歯をくいしばる。
本当の美奈は、うしろにいる。うつろな目をして、立っている。
だけど今、美奈を名乗っている彼女も瞳の空虚さは同じだ。
どうして、と涙がこぼれそうになった。どうしてこんなことになっちゃったの。わたしたちが裕未ちゃんを無視したから? 美奈ちゃんばかりをかまったから?
嘘だ、と菜緒が思わず言い返すと、美奈は――裕未は――にいいいいっと口の端をあげた。そして、歌うように言う。
「知ってる、菜緒ちゃん。嘘ってね、ばれなきゃ嘘じゃないんだよ」
「……どういう、こと」
「嘘をね、本当にしてくれるおまじないがあるの。その方法をあたしは手に入れたの。だからいまは、正真正銘、あたしが美奈なのよ」
睦基の話を思い出す。
さみしい子供たちだけの、噂話。やっぱり裕未ちゃんはそれを頼ったんだと、なぜだか確信した。どうして、たった一人の妹なのに。自分の大事な家族なのに。どうして。ぽろぽろと菜緒の目から涙がこぼれた。かなしいのか悔しいのか、それともこわいのか、理由はわからない。
「嘘は嘘だもん。本当になんて、ならない。裕未ちゃんは裕未ちゃんだよ。ほかのひとになんて、美奈ちゃんになんてなれないんだから!」
あばばばばばばば、と突然、裕未が――いや、美奈が?――わからない――顔をゆがませて、口から泡を吹いた。だめだめだめだめ、嘘は見破られたらだめ、だめだめだめ、だってあたしは美奈で、やりなおすの、本当のあたしなのそれが、だからだめだめだめだめ、そう言って彼女は猛然と菜緒に飛びかかった。
首を絞めつけられた菜緒はうめいた。言葉にならない声が漏れる。どうして、どうして、どうして、そううめき続ける菜緒に、裕未は泡を噴きながら歯をむき出して笑った。
だって本当ならあたしが美奈みたいになるはずだったんだもの。あの子があたしを奪ったのよ。ずるいの。あの子はずるいのよ。だってあたしがお父さんに似ていないのはあたしのせいじゃないのに。それなのにみんな、美奈、美奈、美奈って。だから押してやった。あいつすべって簡単に死んじゃった。おまじないがきいたんだ。あたしが美奈で、死んだのは裕未で、あたしが本当のあたしになれるようにって。あたしだってきれいな格好したかったしおしゃれだってしたかった。あんな家、出ていきたかった。なにもかもあたしのせいなんかじゃないのに。あんな家に生まれたのがまちがいなんだ。でも全部変わったの。嘘はほんとになったんだから!
喉元に細い指が食い込む。子供の力とは思えないほど、きつく。
だけどね、せっかく美奈になれたのにけっきょく同じなの。みんながあたしを避ける。こうしてちゃんときれいにしてにこにこ笑っているのに今度は、みんなあたしの家をゴミ屋敷だっていじめるの。菜緒ちゃんだって全然、遊びに来てくれないじゃない? 家が汚いのはママのせいよ。ママの頭がおかしいのだって、あたしのせいじゃない。死ねばいいのよママも。みんなあたし以外はみんな消えちゃえばいいんだ。あたしはもっとちゃんとしたあたしになるんだから。だからねえ菜緒ちゃん、今度は菜緒ちゃんをあたしにちょうだい。そうよ。本当だったらきっと、菜緒ちゃんみたいな子になるはずだったの。うるさいママもいなくておばあちゃんに甘やかされて、みんなに好かれて、睦基くんとも仲良くできて。ずるいじゃない、そんなの。そんないいことづくめなのって、ひどいじゃない。あたしはこんなにつらいのに。だから菜緒ちゃん、菜緒ちゃんをあたしにちょうだい。ちょうだいちょうだいちょうだいちょうだいあたしにいいいいいいいい。
のどがぎりぎりと締め付けられて、頭のてっぺんが冷えていく。膝に力が入らなくなる。そのまま力任せに押されて、指先がすうっと痺れ、全身に力が入らなくなった菜緒はうしろによろめいた。
殺される。
このままじゃ、美奈ちゃんとおんなじで殺されてしまう。
――いやだ!
菜緒は、裕未の足を残された力いっぱいで払った。裕未はそのまま横に倒れこみ、壁に頭をぶつけた。菜緒は、靴も履かずに家を飛び出した。
待てえっ、と地を這うような声がした。あんな声、美奈ちゃんでも裕未ちゃんでもない。そう思ったら、睦基の言っていた呪いの意味がわかったような気がした。大きすぎる嘘が、願いが、なにかを狂わせたのだと。
とにかく逃げなければと階段を駆け下りようとして、下の踊り場に残った黒ずんだ染みが目に入る。美奈の血だ、ここで美奈が死んだのだ、と気をとられた隙に、がっ、と力強く腕をつかまれた。ちょうだいよ、菜緒ちゃんをあたしにちょうだい! そう叫びながら裕未が菜緒をつきおとそうと両手を振り上げる。
かえして、と。
声が聞こえたのはそのときだった。一瞬だけ、怯んだように裕未の動きが止まる。その隙をついて菜緒はとっさに裕未を押しかえした。ぎゃあっ、と醜い声をあげると同時に、裕未の体は放り出される。宙に。
数秒遅れて、ごいん、と鈍い音が響く。なぜ、菜緒は上に向かって押したのに。そんな疑問はけれど、すぐに吹き飛んだ。首がおかしな方向に曲がり、菜緒を見上げている裕未と目があったとたん、ひっ、と声が漏れる。その目に、生気はない。
横たわる体の足元には、美奈が立っていた。かえして。わたしの名前。かえして。動かなくなった裕未にそう、訴え続けている美奈が。
――嘘だ。
菜緒はその場にへたり込んだ。
――こんなの、嘘だ。本当のわけがない。
全身ががたがた震えていた。どうしよう、誰かが来てしまったら。裕未に、美奈に襲われたんだと話して誰が信じてくれるだろう。おまえが殺したんだといわれるに決まっている。全部、菜緒のせいにされてしまう。
「菜緒!」
動くこともできずにいると強い力で引っ張りあげられ、そのままエレベーターに押し込まれた。放り出されて菜緒は壁に肩をぶつける。そうしてようやく、声が出た。
「睦基。……どうして」
睦基は答えない。菜緒とおなじくらいに青ざめて、唇を一文字に結んで、震える手で1のボタンを押す。
「……俺もおまえも、何も見ていない。そうだろう? あいつが勝手に落ちたんだ」
「ちがう。わたしが殺したのよ。わたしが、突き落とした」
「そうじゃない。おまえは何も悪くない。俺たちは関係ない!」
ちん、と音がして1階につく。菜緒の手を引いて、睦基が走り出す。何もかもなかったことにするように。逃げ出すように、走る、走る、走る。
菜緒はふと、視線を感じてあの角部屋を見上げた。
ぬいぐるみがいくつも、変わらず並んでいる。その隣にうつろな、闇のような空洞の目をした裕未が、美奈が、どちらかわからない女の子が並んでいた。
燃えてる、と誰かがつぶやいた。
夕暮れが近くて空がほんのり赤く染まるなかに、灰色の煙がもうもうとのぼっていく。
あれ美奈の家じゃね。
わかるはずもないのにそう言ったのは、誰だっただろう。
美奈の母親が自宅に火を放ったと、そのあと誰かから聞いた。だけど、美奈がどうなったのか、だれもなにも言わない。死んだ、という噂さえ聞こえてこない。あれは本当はだれだったのか。美奈なのか、裕未なのか。けれど雛子に話してみたら、裕未ってだれ、と怪訝そうに返された。それ以来菜緒は、誰にもなにも話していない。睦基にさえも。
知ってる、菜緒ちゃん。嘘を本当にしてくれるおまじないがあるんだよ。嘘はね、ばれなければ本当になるの。信じ続けていたらそれが本当のことなの。
耳に残る、少女の声。それと同じ声がときどき、菜緒を追いかける。
――ちょうだい。
だけど菜緒は、聞こえないふりをする。なんにも見えていない、聞こえていない。そう自分に言い聞かせ続けている。
ちょうだい、ちょうだいちょうだいちょうだいぃぃぃぃぃぃ。
耳元でささやかれるこの声も全部、嘘だ。時々、肩をがっとつかまれたような衝撃がある。だけどそれも全部、気のせい。
だって。
信じている限り、それは本当のはずだから。だから菜緒にはなにも見えない。なにも、聞こえない。なにも。
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