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神託が下されたとき、僕なんかに勇者が務まるわけないってそう思った。
だって僕は、ただの片田舎の農夫の息子で。
確かに毎日の野良仕事のおかげでそこそこ体力はあったけど、それだって戦士や傭兵と呼ばれる人たちとは比べるのもおこがましいほどで。
自分で言うのも何だけど、とにかくすべてが〝平凡〟で。
正直、セリフももらえない劇の脇役どころか、背景同然の存在だったんだ。
そんな僕がどうして突然勇者なんかに選ばれたのかは、未だによく分からない。
ただ神託が下されてから、あれよあれよという間に話は進んで。
その日いつものように畑に出て鍬を振っていた僕は、何の前触れもなくやってきた神殿の人たちに事情を聞かされ、事態を飲み込む暇もなく馬車に乗せられ、連れ出された。家族とは満足に別れの挨拶もできず、最後までおろおろしていた母と、茫然自失していた父と、連れ去られる僕の名を呼んで泣き叫んでいた幼い妹の姿だけを、今でもはっきりと覚えている。
「勇者よ、そなたに神託が下った。我らが神は長きに渡るマモノたちとの争いに終止符を打つべく、そなたを救世主として遣わされたのだ。どうか荒廃し滅びゆく大地を救い、人類に希望をもたらしたまえ。そなたに神の祝福があらんことを」
そうして気づいたときには、王国のお城にいて。
何が何だか分からないまま王様にそんな話をされて、ひと振りの剣を渡された。
渡された、というか、より正確には『聖剣の庭』と呼ばれる神殿内の庭園で、古い台座に刺さっていた剣を引き抜けと言われて、言われたとおりにしたら何故か周りの人たちが騒ぎ出し、その剣を押しつけられたんだけど。
そう言えばあのとき、王様と一緒に僕が剣を引き抜くさまを見ていたお姫様は感動で涙まで流していたっけ。僕はただの田舎の農夫の息子ですと何度もそう言ったのに、最後には頬を赤らめて、そっと頬にキスまでされた。
「伝説の聖剣を抜くことができたということは、あなたはまぎれもなく主に見込まれた救世主なのですわ。どうかご武運を、わたくしの勇者様」
とか何とか、ついでに耳もとで囁いていたっけ。
もしもきちんと状況を飲み込めていて、気持ちにも整理がついていたなら、あるいは僕も熱で浮かされた姫様の瞳に舞い上がっていたかもしれない。
でも、当時の僕はやっぱり何が何だかちっとも分かっていなくて、たったひとりで都の外へ放り出されたときには、本当にもう泣きそうだった。
救世主になんかなれなくたっていいから、今すぐ村に帰らせて下さい。
そう言いたくてたまらなかった。
だけど神殿の偉い人たちが言うことには、僕は伝説の聖剣を振るってマモノを鎮め、争いの続く世界に秩序と平和をもたらさなければならないらしい。
そうしないと大地はやがて枯れ果て、海も黒く染まり、生物は死に絶えて世界は滅びへ向かうのだと言われた。
どれくらい先の未来のことなのかは分からないけど、でも、この役目を果たせるのは神と聖剣に選ばれた勇者だけだと言われたら、もう嫌でもやるしかない。
何しろ勇者が現れるのは百年に一度の慶事だって王様が言ってたし。
当代の勇者が使命を投げ出したら、また百年新たな勇者を待たねばならないと泣きつかれて、僕は渋々旅に出ることを了承した。剣なんて振ったことすらないどころか、握ったこともない僕にそんな大役が務まるのかと尋ねたら、
「勇者には必ず神のご加護が連れ添う。聖剣を携えてさえいれば、自ずと道は開かれよう」
と言うし……とにかく気づいたときにはもう、逃げ場がなくなってた感じで。
仕方がないから都を出たときはほとんどヤケッパチだった。
もっと野心や大望のある人なら、歴史に名を残すチャンスだと意気込んだのかもしれないけどさ。僕はどんなに担がれてもそんな気持ちにはなれなかった。
僕はやっぱり、どこまでいっても平凡な農夫の息子だったから。
だから僕を突き動かした唯一の動機は、一日も早く役目をこなして、両親と妹の暮らす故郷に帰りたい──その一心で。それだけが旅の間の心の支えだった。
立派に役目を果たして帰れば父さんも母さんも喜んでくれる。自慢の息子を持てたと、きっと泣きながら抱き締めてくれる。僕が無事に使命を果たせたら、家族には一生何不自由なく暮らせるだけの褒美を取らせるって王様も約束してくれたし。
そうなればこの先二度と家族に苦労をかけなくて済む。最高の親孝行になる。
そう自分に言い聞かせて、震える足でマモノの国への境界を踏み越えた。
大陸の辺境で育った僕は本物のマモノなんて見たことがなかったから、一体どんなに恐ろしい生き物なのだろうと怖くてたまらなかったけど。
だけど最初に僕を襲った問題はマモノじゃなかった。食糧不足だ。
今となっては笑えるけれど、当時、祖国を出るまでの僕は王国民の善意に生かされていたようなものだった。
ひたすらにまっすぐマモノの国を目指す僕に、王様のお触れを聞いた王国民は行く先々で食糧や薬、泊まる場所なんかを恵んでくれた。勇者である僕の旅に協力できるなんて光栄だと、みんな喜々として手助けしてくれてさ。
「どうか邪悪で野蛮なマモノから我々をお救い下さい!」
って口を揃えて、とても親切にしてくれた。
あまりにも過大な期待と待遇に、もちろん最初は気が引けたけど。
けれど僕は無理矢理勇者をやらされている側なんだから、無償の好意を受け取る資格くらいあるだろうと考えるようにしたら、少しだけ気が楽になった。
だけどそうしてずるずると、人に甘えるのが当たり前になってしまっていたのがいけなかった。おかげで僕はマモノの国に入ったあとのことをまったく考えていなかったのだ。頭のどこかに植えつけられた、旅の間は困っても誰かが助けてくれるという刷り込みがよくなかった。マモノの国は言わば僕ら人類にとっての〝敵地〟で、人間である僕を助けてくれる人なんているわけがない。
ましてや僕は聖剣を携えた勇者で、マモノを滅ぼすためにやってきた者。とすればこの国では誰にも助けてもらえないどころか、見つかったら殺される可能性すらある。その事実にやっと気がついた僕は、マモノの国に入ってからは恐ろしさのあまり人目……というか、マモノ目につかないようにこそこそと野山を進んだ。
されどそんな作戦が長く続くわけもなかった。
何しろ僕にはマモノの国の土地勘なんてなかったし、知っているのは国のどこかにいる『四天王』を探し出し、倒す必要があるということだけ。
あとのことは神の加護が宿った聖剣が導いてくれるとか言われてたけど、剣が喋るわけでもなし。おまけにマモノの国は見たことのない植物や生き物ばかりで、自力で食糧を調達しようにも何が食べられて何が食べられないものか、僕には見分けることすらできなかった。で、呆気なく行き倒れた。
というか空腹に絶えかねておいしそうな山の木の実に飛びついたら、猛烈な腹痛と吐き気に襲われて、痙攣しながら気絶しちゃったんだけど。
きっと毒があったんだろうな。あのときは本当にもうダメかと思った。
けれど次に目が覚めると、僕は知らない天井の下にいた。
一体何が起きたのか分からず、しばらくぼうっとしていると、視界の端からひょこっと覗き込んできた顔がある。その顔を見て僕はとても驚いた。
だって金色の目を真ん丸にして見つめてきたのは、銀色の髪の上から見たこともない角を生やした、褐色の肌の女の子だったから。
「う……うわあっ!?」
と、僕は驚きのあまり素っ頓狂な声を上げ、飛び起きたのを覚えている。
すると女の子もびっくりした様子で目をパチクリさせて、だけどすぐに白い歯を見せながらニカッと笑った。
それが何とも野性味のある笑顔に見えたのは、たぶん女の子が胸と腰回りを覆うだけの原始的な服を着ていて、何だか歯並びもギザギザしていたせいだろう。
特に上下四本の犬歯がやけに鋭くて、まるで狼みたいだ、と僕は思った。
「アルー・アルー? ィレファス・プゥ・エコウォイ・ダルグ・ムイ!」
しかもほどなく女の子の口から紡がれたのはまったく聞いたことのない言葉で。
僕が呆気に取られて固まっていると、彼女は不思議そうにきょとんと首を傾げてから、さらに何度か話しかけてきた。でも、僕は喉がぎゅうっと窄まってしまったみたいになって、何も答えられなかった。
すると女の子は再び不思議そうに首を傾げたのち、何か閃いたみたいに「ヤ!」と言って、右の掌を左の拳で叩く仕草をした。女の子の手には、握ったら怪我をするんじゃないかと心配になるくらい鋭い爪が生えていた。
「カエプス・トゥナクォイ・エビャム?」
そう言って女の子は、爪先でぐるぐると自分の喉もとを示してみせる。
やっぱり何を言っているのかは分からなかったけど、何となく「もしかして喋れないの?」と訊かれている気がした。僕が毒の実を食べて倒れたからそう思ったのかもしれない。だけどその段にもなると、さすがの僕も薄々気づき始めていた。
ああ、きっとこの子が、僕らが〝マモノ〟と呼ぶ生き物なんだって。
だって噂によるとマモノとは〝言葉が通じない異形のモノ〟らしいし。
彼女の話す変な言葉も、人間とはところどころ違う体のつくりも、僕が知っているマモノの知識と合致した。ただ噂に聞いていたほど邪悪そうではないし、醜くもないし、どちらかと言えば全体的には人間に似ていて少し戸惑ったけど。
でもマモノたちはとても狂暴で、隙あらば人間を襲い、内臓を引きずり出して食らうという。だから王国は長年、人類の存続を脅かす彼らと戦い続けてきたわけだけど、マモノの生命力は強く、しぶとく、なかなか討ち滅ぼすことができないまま何百年ものときが流れた。
彼女の牙や爪に秘められた野生を見る限り、その話もあながち嘘とは思えない。
しかしどうやら、彼女は僕が〝敵〟だとは気づいていないみたいだ。そこはかなり山深い土地だったから、ひょっとすると彼女もまた本物の人間を見たことがなかったのかもしれない。でなければとっくに腹を切り裂かれて食われていたはず。
混乱する頭でそう判断した僕はとりあえず、女の子の質問に頷いた。
人間だと気づかれないように、声が出ないふりをすることにしたんだ。
「イースィ。トゥブ、アルー・アルー。デルク・エヴ・リリウォイ」
そしたらマモノの子も納得したように頷いて、また僕にニカッと笑いかけた。
あれは今にして思えば、たぶん、僕を元気づけようとしていたんだと思う。
おかげで僕はますます混乱した。やっぱりこの子からは邪悪さを感じない。むしろとても親切だ。毒のせいで弱っていた僕を、甲斐甲斐しく看病してくれたし。
いや、だけどそれは彼女が僕の正体に気づいていないからであって。
人間だと知られたら最後、きっと殺されるに決まっている。
だから僕はビクビクと怯えながら、かと言って慣れない長旅で疲れ果てた体では斬りかかることもできず、ひとまず数日を彼女の家で過ごした。
まずは勇者として戦うための、気力と体力を取り戻すことが最優先だった。
けれど彼女と過ごした日々は……存外悪いものじゃなかったと思う。
むしろ僕は途中から彼女に心を許し始めていた。
相変わらず言葉は通じなくて、何を言っているのかはさっぱり分からなかったけど。マモノの子は明るくて、優しくて、彼女の隣はとても居心地がよかった。だから僕は、気づけば自分がここへ来た目的も忘れてずるずると彼女の家に居座った。
体が元気を取り戻してからも、川からの水汲みや薪割りを手伝ったりしながら。
しかし不思議だったのは、人間の感覚では十四、五歳くらいに見える彼女が、どうしてこんな山奥でひとり暮らしをしているのかってこと。
彼女が暮らす丸太造りの山小屋はそこそこ広く、三~四人程度なら優に生活できるだけのものが揃っていた。なのに住んでいるのは彼女だけ。
近くには人里らしきものもなく、緑の濃い木々が鬱蒼と繁る山の中に、ぽつんと小屋が建っているような感じだった。まるで人目を憚るみたいに。
しかも小屋の裏には奇妙な土の山がふたつあり、彼女がときどき、そこに建てられた木の棒にじっと手を合わせているのを僕は見かけた。
あまりに粗末で天使十字も何もないただの土の山だったけど、それはたぶんお墓だった。僕は何となく、彼女の両親のお墓かもしれない、と思った。
「イェ、エレフ・ニーヴォイ・エヴァフグノル・ウォフ?」
そうして僕らが共同生活を送り始めてから、ひと月近くが過ぎた頃。
夕方、小さな食卓を挟んでふたりで食事をしていると、彼女が向かいから僕の顔を覗き込んで何か尋ねてきた。恐らくいつまでここにいるつもりなのか尋ねられているのだと、何となく僕は察した。
でも彼女の眼差しには、図々しく居候を続ける僕を詰るような色はなくて。
むしろ、ゆらゆら揺れる燭台の明かりの中で僕を見つめる金色の瞳は──ああ、そうだ、あれは王城から旅立つ僕を見送ってくれたお姫様と同じ、とても熱っぽくて、見ていると胸が切なさに掻き毟られるような、そんな眼差しだった。
あのとき、僕はきっと恋をしていた。人間のお姫様にはちっともときめかなかったくせに、まったくおかしな話だと自分でもそう思うのだけど。
だから僕は彼女の手に自分の手を重ね、ぎゅっと握った。
これ以上はもう彼女を騙せない。そう思った。
だから口を開いて、人間の言葉で真実を打ち明けようとした。
彼女になら心臓を抉り出されて食われても構わなかった。
けれども刹那、視界の片隅で。
もうずいぶん長い間、壁に立てかけたまま触れてもいなかった聖剣の鍔にある紅玉が、ちかりと妖しく瞬いた……ような気がした。
その瞬きを目にしたとき、僕は唐突に故郷の家族のことを思い出した。
そうだ。僕には帰るべき場所があり、待っている人がいる。
父さん。母さん。妹。満足に別れも告げられなかった大切な家族が。
にわかに沸き上がった故郷の記憶は僕の口を封じてしまった。今日こそ彼女に真実を告げようと誓ったはずが、再び迷いに呑まれてしまったのだ。
そしてそんな一瞬のためらいが、僕の運命を変えてしまった。あのとき彼女にきちんと真実を伝えていたら、こんなことにはならなかったのかもしれない。
翌日、マモノの子は殺された。
僕とふたりで山に入り、食べられる木の実やキノコを探している最中に、突然見知らぬ連中に襲われた。そいつらは皆、彼女と同じく頭から角を生やし、謎の言語を話して、背中には翼まで生えていた。
だけど彼女との決定的な違いは、手に手に槍のような武器を携えていたことだ。
「イェ、ナムフ・エラ・エレフス……!」
生い茂る繁みの向こうから突如現れたそいつらは、僕を見てそう叫ぶや否や血相を変えて襲いかかってきた。僕はすぐに正体がバレたのだと知った。
されどやつらが槍を振り上げて走ってくるのを見た途端、マモノの子は木の実やキノコがいっぱいに詰まった籠を投げ出して、僕の手を取り走り出した。
山の中をふたりでがむしゃらに逃げて、連中の姿が見えなくなったところで、すかさず山小屋に駆け込んだ。
そうして彼女は休む間もなく、粗末な皮製の袋に色々な荷物を詰め込み始めた。
「ィルル! レフテゴトゥ・ィヤワ・ヌル!」
そう叫ぶ彼女がここから逃げ出す準備をしているのだと知って、僕も急いで荷造りをした。けれど寝室に飛び込んで聖剣を手に取ったとき、食堂の方から男たちの怒鳴り声と言い争う彼女の声が聞こえて、僕ははっと身を翻した。
そして聖剣を抜いて食堂に飛び込む寸前に、彼女の断末魔を聞いた。
マモノの子は褐色の肌に何本もの槍を突き立てられて、絶命していた。
そこから先の出来事は、実を言うとあまり覚えていない。
気づけば僕は血と肉片と脳漿にまみれた姿でひとり佇んでいて、足もとには元が何だったのかもよく分からない、いくつかの死体が転がっていた。
無言でそれらを見下ろした僕の手の中で、真っ赤に染まった聖剣の紅玉がやはり妖しく光っていた。僕には何故だか、聖剣が悦んでいるように見えた。
彼女を殺した連中を気が済むまで斬り刻んだのち、僕は小屋の裏手に彼女を埋葬し旅立った。そうして行く先々で出会うマモノを端から殺した。
どうやらマモノの国は、人間のようにひとりの王によって治められているのではなく、四つの部族からひとりずつ長を決め、彼らの合議によってそれぞれの領地や法律が定められているらしい。その四人の長こそが、僕の斃すべき『四天王』だ。
そいつらが人間は敵だと言い続けているから彼女は死んだ。
何の罪もない、優しくて温かだった彼女は殺された。
だからこれは復讐だ。いつまでも人間と敵対を続けるやつらへの。
とは言え、僕だってすべてのマモノが憎かったわけじゃない。集落へ乗り込めばそこには人間と同じように暮らしているマモノたちがいて、女子供や病人や年寄りもいた。それを「マモノだから」という理由で殺し回るのは、さすがの僕も気が引けた。だから最初は、武器を持って向かってくるマモノだけを斬り伏せていた。
しかし王国を出るまで剣を握ったことすらなかった僕なのに、いざ戦いに臨んでみると、笑い出したくなるほど簡単にマモノが斬れる。
これはマモノたちが驚くほど弱かったから……ではない。聖剣の力だ。
王様の話は本当だった。この剣にはとても不思議な力が宿っている。
鞘から出して握ってみると鍬よりも軽く、しかも振るう直前、ほんの数瞬先の未来が見えるのだ。向かってくる敵の動きが事前に分かる……と言えばいいのかな。
だから戦いの訓練を積んでいない僕でも敵を斃すことができた。
そしてマモノを斃せば斃すほど、戦いの技は磨かれていった。
実戦の経験がどんどん積み重なって、自分が強くなっていくのが分かる。
だけどそれは単に、剣の腕前が上がったというだけの話じゃない。
四天王を探す旅を続けるうちに僕の心はどんどん冷えて硬くなり、やがてマモノを斃すことへの躊躇が薄れていった。
あれは、そう……どこかの集落で、鋤を手に向かってきた男性のマモノを斬り殺したら、納屋から女性のマモノが飛び出してきたときからだったかな。
彼女は血を流したオスのマモノに縋りつくと、大声を上げて泣いた。もう息をしていないマモノの体を何度も何度も揺すり、名前を呼んでいるようだった。
言うまでもなく、僕が殺したマモノは彼女の夫だったのだろう。
ひとしきり泣きじゃくったあと、彼女は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
誰かと同じ金色の瞳の奥には、消し難い憎悪の炎が燃えていた。
そして彼女は僕が斃したマモノの手から鋤を奪い取ると、絶叫して襲いかかってきたのだ。だから僕も彼女を斬った。
そこから躊躇がなくなった。殺すマモノを選り好みしなくなった。だって僕はもう何人ものマモノを手にかけたんだから、追加で何人殺そうが同じだろ。
弱い女子供は見逃そうなんてのは、くだらない偽善だって気づいたんだ。だいたいこいつらを生かしておいたら、そのうち報復しにやってくるかもしれない。
だったら危険は取り除いておかないと。先に手を出してきたのはそっちだしな。
結局、人間とマモノは分かり合えない運命なんだよ。
だからどちらかが滅ぶまで戦うしかないんだよ。あのとき僕が真実を打ち明けていたら、彼女もきっと僕を殺して食べただろう。そう思うことにした。そう言えばどこの集落を訪ねても、人間の肉を食べてるマモノなんて見かけなかったけどな。
まあ、そんなこと今更どうでもいいか。
かくして僕は道の上にいたマモノをすべて屠り尽くし、四天王のもとへ辿り着く頃には文字どおり、向かうところ敵なしになっていた。
聖剣は血を欲している。こいつはマモノを斬れば斬るほど切れ味を増し、さらなる血を求めて僕を誘った。やっぱり剣だから喋ったりはしないけど、聖剣を握っていると、遠く離れているマモノの気配も嗅ぎ取れるようになった。
こんなすごい剣を持っていながら、歴代の勇者はどうして使命を果たせなかったんだろうな。こいつがいればマモノなんかに負けるはずがないのに。
実際、四天王も呆気なく僕の足もとにひれ伏したし。どいつもこいつも最後まで命乞いの言葉らしきものを発していたけれど、本当のところは何と言っていたのか今となっては分からない。僕らは言語が違うからしょうがないね。
かくして僕は勇者としての使命を果たし、祖国へと凱旋した。
気づけば都を旅立ってから早数年が経っていた。
久しぶりに会う王様は、しばらく見ないうちにすっかり老け込んでいて。
帰ってきた僕を迎えるなり、何故か顔中の皺をぴくぴくと引き攣らせた。
隣では昔よりさらに綺麗になったお姫様が、青ざめて震えているし。
みんなどうしたんだろう。どこか体でも悪いのかな。
それとも何か怖がっているのかな?
「……勇者よ、よくぞ戻った。そなたの活躍は聞いておる。ついにかの憎き四天王を討ち果たしてくれたのだな。王国を代表し、礼を言わせてもらうぞ」
「いえ。僕は聖剣の……神の啓示に従ったまでですから」
「う、うむ……そうか。しかし、勇者よ。過酷な長旅から戻ったそなたに、かようなことを告げるのは気が引けるのだが……どうやらそなたは少々、やりすぎた」
「はい?」
「そなたはあまりにも聖剣に魅入られすぎたのだ。その力は我々人類には過ぎたるもの。ゆえに持ち主を狂わせてしまう。されど今ならばまだ聖剣を手放し、神の御許へお返しすることで、そなたが失った人間性を取り戻すことも──」
「嫌です」
「……何?」
「王様、僕は狂ってなんかいませんよ。あなた方は言いましたよね。聖剣の力をもって世界に平和と秩序を築くことこそが、勇者としての僕の使命だと」
「う、うむ……確かに言ったが──」
「なら僕は神託に従います。僕は確かにマモノの四天王を斃しましたが、地上からすべてのマモノを根絶したわけではありません。となれば王国はこれからマモノの国へ攻め込み、彼らの領土を占領しようとしますよね?」
「い、いや、我らは左様な──」
「嘘はいけませんよ、王様。だって僕は神に選ばれた勇者なんですから。あなた方のもくろみなんてお見通しなんですよ。全部聖剣が教えてくれたんです。あなた方は力を持ちすぎた僕が恐ろしいから、今、必死で聖剣を僕から引き離そうとしているんですよね?」
「ち、違う、我々は──!」
「つまり僕の存在は今や人類にとっても脅威であり、いつ消されてもおかしくないということ。だけど僕が死ねば王国は暴走し、マモノたちに戦いを吹っ掛ける。それじゃあまた血みどろの争いが繰り返されるだけ、神が望む平和と秩序は遠ざかるばかりだ」
「待て、勇者よ!」
「そう、僕は勇者。世界を救うために遣わされた救世主です。だから、与えられた使命をまっとうします──僕こそが新世界の秩序となって」
「ゆ、勇者様、おやめください! どうか剣をお収めになって! あなた様には帰るべき故郷がおありでしょう……!? 旅立たれる前にはあれほど、郷里に残してきた家族が心配だと……!」
「……家族? ははっ、家族ね。確かに両親と妹のことは今も愛していますよ。でも、だからこそ、僕はもう二度と故郷へは帰れない。帰るわけにはいかない」
「一体どうして……!?」
「〝どうして〟? ちょっと考えたら分かりませんか? マモノの国で散々彼らを殺し回った僕に、今更家族と幸せに過ごす資格なんてあるわけがないでしょう」
「……!」
「というわけで──さようなら、お姫様。あなたの勇者は、まぎれもなく神に見込まれた救世主だったということですよ」
そう。これがのちの伝承に語られる〝王国の悲劇〟だ。
数百年もの間、大陸で栄華を誇り続けた王国は一夜にして滅んだ。
王族は根絶やしにされ、城から上がった火の手は都を焼き尽くし、三日三晩、夜も地上を照らし続けた。僕はそこからひたすらに人間を狩り続けて今に至る。
もはやこの地上に国はない。
ただ人間とマモノとが、それぞれの土地で細々と露命をつないでいるだけだ。
誰もがみな毎日を生きるのに必死で、もはや争う力もない。場所によっては、ヒトとマモノとが手を取り合って生存している地域もあるらしい。そんなことができるなら、最初からそうしていればこんなことにはならなかったのに。
なあ、そうは思わないか、聖剣?
腰に提げた相棒にそう語りかけながら、僕は廃墟となったかつてのお城の玉座に頬杖をつき、ふっと笑った。あれから一体何百年が過ぎたのだろう。
気づけば僕は歳も取らず、時折飢えたようにヒトやマモノの居場所を知らせてくる聖剣を宥めすかしながら、今も世界の平和と秩序を守り続けている。
地上に争いが絶えてから、荒れ果てていた大地は息を吹き返し、海は輝きを増した。鳥は囀り蝶は舞い、目を閉じれば溢れる生命の息吹をすぐそこに感じられる。
だから僕は、僕のしたことは決して間違いなんかじゃなかったって、今も確信を持って言えるんだ。神様が望んだ楽園で、僕は今日もひとりまどろむ。
生き残ったわずかな人間たちが『魔王の城』と呼ぶその場所で。
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