本編

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「ーーーーさん、小谷さーん? 起きてください」 名前を呼ばれた気がして、重たい瞼を持ち上げた。 ぼやけた視界の向こうは真っ白で、次に白衣を着た看護師が私を覗き込むのが見えた。 そこで、ここが病院であることを理解した。 「おはようございます、小谷さん。お気分はいかがですか?」 にっこりと人好きのする笑顔を向けられて、私の新しい生活は始まった。 「あの、小谷って誰のことですか?」 私の問いかけに、看護師の顔が一瞬引き攣ったように見えた。 それから気を取り直したようにもう一度私に笑顔を向ける。 「記憶が混乱しているのかもしれませんね。今、先生を呼んできますので少し待っていてくださいね」 こうして清潔に保たれた部屋の中で、私は自分の境遇を知ることとなった。 主治医曰く、私は大きな事故に遭って記憶喪失になってしまったのだとか。 小谷澪、25歳と記入された個人カードを渡された。 空中列車同士がぶつかった事故の被害は甚大で、多くの被害者がひとまず空いていた病院に運び込まれた。 私もその被害者の一人だった。 私が今入院している病院は民間経営のため、退院するにもオーナーの許可を得なければならない、と主治医は続けた。 しかし現在、その肝心のオーナーが不在のため現場では私の処遇を決めかねているのだそう。 「身体には何も問題はない。すぐにでも普通の生活が送れるんだがね」 はぁ、と溜め息を吐いた主治医が看護師に問いかけた。 「退院させてはいけないのかね?」 「しかし、まだオーナーが帰ってきていません」 主治医が拳をテーブルに力強く叩きつけた。 診察時の様子からは考えられないほどの剣幕だった。 突然のことに驚いて、私は肩を揺らす。 「彼女自身のためにも退院させるべきだとは思わんのかね! はっ、なんだ。それとも君が彼女の代わりになれると?!」 嫌な笑顔で看護師を品定めする主治医に、彼女は何も言えなくなったようだ。 そのまま黙って立ち去ってしまった。 結果、私は主治医の独断により退院させられることとなった。 病院を出る直前、看護師が何度も私に謝ってきた。 彼女の謝罪の意味を理解したのはすぐだった。 病院を出た私の目に、私の顔が飛び込んできたからだ。 ビルの巨大電光掲示板でも、歩行者用通路の掲示板にも、あるいはすれ違う人の個人用端末のディスプレイにすら、私の顔をしたラブドールの広告が掲載されていたのだから。 幸いにも、病院前を歩く人々の視界は仮想空間で彩られており、私を認識する人はいなかった。 『最高の瞬間を貴方だけに♡』 馬鹿みたいなキャッチコピーを見て、私の頬は羞恥に赤く染まる。 居た堪れない気持ちを抱えたまま、どうすることも出来ず、私はただその場から逃げ出したのであった。 ーーーーそれが、昨日までの話だ。 そして今、私は美しい顔をした男性に何故か手を引かれ、路地裏を駆けている。 弾む息が示すのは、恐怖か、高揚か。 行く宛のない私の両足は驚くほど軽かった。
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