2人が本棚に入れています
本棚に追加
本編
「ーーーーさん、小谷さーん? 起きてください」
名前を呼ばれた気がして、重たい瞼を持ち上げた。
ぼやけた視界の向こうは真っ白で、次に白衣を着た看護師が私を覗き込むのが見えた。
そこで、ここが病院であることを理解した。
「おはようございます、小谷さん。お気分はいかがですか?」
にっこりと人好きのする笑顔を向けられて、私の新しい生活は始まった。
「あの、小谷って誰のことですか?」
私の問いかけに、看護師の顔が一瞬引き攣ったように見えた。
それから気を取り直したようにもう一度私に笑顔を向ける。
「記憶が混乱しているのかもしれませんね。今、先生を呼んできますので少し待っていてくださいね」
こうして清潔に保たれた部屋の中で、私は自分の境遇を知ることとなった。
主治医曰く、私は大きな事故に遭って記憶喪失になってしまったのだとか。
小谷澪、25歳と記入された個人カードを渡された。
空中列車同士がぶつかった事故の被害は甚大で、多くの被害者がひとまず空いていた病院に運び込まれた。
私もその被害者の一人だった。
私が今入院している病院は民間経営のため、退院するにもオーナーの許可を得なければならない、と主治医は続けた。
しかし現在、その肝心のオーナーが不在のため現場では私の処遇を決めかねているのだそう。
「身体には何も問題はない。すぐにでも普通の生活が送れるんだがね」
はぁ、と溜め息を吐いた主治医が看護師に問いかけた。
「退院させてはいけないのかね?」
「しかし、まだオーナーが帰ってきていません」
主治医が拳をテーブルに力強く叩きつけた。
診察時の様子からは考えられないほどの剣幕だった。
突然のことに驚いて、私は肩を揺らす。
「彼女自身のためにも退院させるべきだとは思わんのかね! はっ、なんだ。それとも君が彼女の代わりになれると?!」
嫌な笑顔で看護師を品定めする主治医に、彼女は何も言えなくなったようだ。
そのまま黙って立ち去ってしまった。
結果、私は主治医の独断により退院させられることとなった。
病院を出る直前、看護師が何度も私に謝ってきた。
彼女の謝罪の意味を理解したのはすぐだった。
病院を出た私の目に、私の顔が飛び込んできたからだ。
ビルの巨大電光掲示板でも、歩行者用通路の掲示板にも、あるいはすれ違う人の個人用端末のディスプレイにすら、私の顔をしたラブドールの広告が掲載されていたのだから。
幸いにも、病院前を歩く人々の視界は仮想空間で彩られており、私を認識する人はいなかった。
『最高の瞬間を貴方だけに♡』
馬鹿みたいなキャッチコピーを見て、私の頬は羞恥に赤く染まる。
居た堪れない気持ちを抱えたまま、どうすることも出来ず、私はただその場から逃げ出したのであった。
ーーーーそれが、昨日までの話だ。
そして今、私は美しい顔をした男性に何故か手を引かれ、路地裏を駆けている。
弾む息が示すのは、恐怖か、高揚か。
行く宛のない私の両足は驚くほど軽かった。
最初のコメントを投稿しよう!