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今日は仕事が早く切り上げられた、と則夫からメッセージが届き、公園の場所を伝えた。
彼は夕方、公園にやってきた。そうして初めて三人で帰ることになった。
私はあの男について、今日、目にしたことを則夫に語った。
「じゃあ、そのおじさんていうのは実在したんだ」
「そうみたい」
則夫は真面目な顔で何かを考えていた。
烏の寂しい鳴き声が遠くから聞こえる。辺りは夕陽に染まり、徐々に互いの顔が見えなくなってきていた。
「正人くん、お向かいのおじさんはいつからいたの?」
正人くんはよそ見をして、則夫の問いに返事をしない。
「正人くん、おじさんを最初に見たのは――」
「おじさんだ」
正人くんの視線の先を見ると、丁度ふたつの人影が曲がり角を曲がったところだった。
「輝一くんもいた」
ちょっとの間の後、則夫が走り出した。
数秒間あっけにとられていた私も、正人くんの手を引いて則夫の後を追う。
「おい!」
曲がり角のむこうに向かって則夫が叫び、その声が住宅街に反響した。続いて車が走り出す音。
則夫に追いつき曲がり角を見ると、走り去って道を曲がる車と、地べたに座り込んだ輝一くんの姿があった。
「大丈夫?」
輝一くんはお尻をさすって立ち上がった。
「男がこの子を車に乗せようとしてた」
則夫が息を切らせながら言った。
私はその場に立ち尽くして、言葉を失っていた。
***
あの日、輝一くんは公園からの帰り道だった。男は道端に立っていた。
彼はおもちゃ屋で、車の中におもちゃを積んでいるのだと言った。輝一くんはそれを見せてもらおうと、男の車へ向かっていた。その時、二人を発見した則夫が大声を出し、それを聞いた男は輝一くんを突き飛ばして、車に飛び乗り逃げ去ったという。状況からして誘拐未遂だろう。
曲がり角から車までの距離が遠く、辺りが暗くなりかけていたこともあり、則夫は男の顔や車のナンバーを見ることができなかった。
あの後、輝一くんを家まで送った。家には父親がいて、誘拐されかけていた話をすると、ありがとうございます、と一言だけ返され、ドアが閉められた。
色々と言いたいことはあったが、他人の家に踏み込むわけにも行かず、私たちは家に帰った。
幼稚園にそのことを報告すると、次の日から町中のパトロールが増えた。
幼稚園前のアパートにも調査が入ったが、あの男のいた部屋は空き部屋であったことが判明した。
大家は鍵が壊れていたことに気付いていなかったが、前から出入りが可能な状態になっていたそうだ。
そして明日、文香が退院する。正人くんのお迎えは今日で最後だ。
先生のさようなら。子どもたちのさようなら。
一斉に賑やかになる園庭。
前と変わらず、端でひとり砂をいじくる輝一くん。死んだ目でそれを見ている父親。
何も変わっていないことが奇妙だった。
アパートのあの窓を見た。
動かないカーテン。暗い部屋。
「おむかいのおじさんいないね」
いつの間にか横に来ていた正人くんがつぶやいた。
彼はじっと窓を見つめていた。
私は視線を窓へ戻した。
何かが闇の中へ消えていったような気がした。
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