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『魔王』
一分一円。
券売機から出てきたテレビカードは一枚千円でテレビの視聴が千分可能になるらしい。
それがどれほどの価値なのか私には分からない。
ただ、お札の投入口に消えていった千円札よりも小さく、けれど厚みがあり、その分重いテレビカードか同じ千円だよとお小遣いで手渡されたとしたら、納得がいかないということだけが分かる。
それでも、父と弟はこのカードをご所望だった。
弟の入院が長引く度にこのカードの消費が増えるわけだが、今日は母の代わりに父が病院へ来ているためにもっと消費が増える。
弟の様子を見に来ているはずなのに、何故野球中継を流しておかなくてはいけないのか。
疑問と苛立ちを感じながらも、私はカード片手に弟のいる病室へ戻る。
小児病棟は全体的に明るく、病院特有の陰鬱さが少ない。
入院しているこの中には、病室でジッと眠っていることが出来ずに飛び出してくる子もいる。
現にプレイルームにもなっているホールからは、子供達の元気そうな声が聞こえてくる。
勿論、そういう子達ばかりではない。
病室から出たがらない子、出られない子もいる。
だが、一般病棟に比べるとやはり賑やかだ。
磨き抜かれた廊下はスニーカーの靴底と擦れ、キュッキュと高い音を立てる。
弟の入院が決まった時、母が自宅で使っていたスリッパを持たせたが、スニーカーに変えて欲しいと言われていた。
躓いたり滑ったりしないようにするためらしい。
弟は真新しいスニーカーに喜んだが、母は複雑そうに眉尻を下げて微笑んだ。
片手でテレビカードを弄びながらスライド式の扉を開く。
扉の脇に添えられた病室の番号の下には、弟の名前が一つだけ記載されている。
弟の病室は個室だった。
中にはトイレも洗面台も、シャワールームだって備え付けられている。
私が入院患者だったら嬉しいが、弟はずっと一人で暇を持て余しているようだ。
私が戻るとベッドの上でパッと顔を上げて「お姉ちゃん!」と声を張り上げた。
子供特有のハリのある高い声だ。
声変わりなんてまだしていない、なだらかな白い首を見ながら、私は後ろ手で扉を閉める。
「はい、これ。テレビカード」
私は病室の中央に置かれたベッドへ近付き、持っていたテレビカードを弟に差し出したが、横から伸びてきた手に奪われる。
ベッド脇に置かれたパイプ椅子に座っている父だ。
その顔はこちらには向けられず、ベッドサイドに備え付けられたテレビへ釘付けだった。
弟がニコニコと笑って「ありがとう」と言うもので、顔を顰めたくなるのを何とか堪える。
だが、父の応援するチームが負ければ良いとは思った。
ベッドの上にいる弟から見て左手側に扉やテレビがあり、父はテレビの前を陣取っている。
私は父の横にあるもう一つのパイプ椅子を持ち、弟を中心にした右手側、窓側へ移動した。
私と父にベッド脇を固められた弟はこころなしか嬉しそうだ。
「お姉ちゃん、見て」
腰を落ち着けた私にいそいそとスケッチブックが突き出される。
受け取って中身を見る。
弟の芸術的センスは私よりも上らしい。
力強い線で描かれているのはライオンだった。
NHKの特集でも見たのだろうか。
「へぇ。凄い。上手じゃないの」
私がそう褒めると弟は照れたようにえへへと笑う。
片エクボが可愛らしい。
それからライオンの生態について教えてくれる。
狩りはメスが主体となること、オスの狩りが少ない理由が百獣の王たる象徴のタテガミが目立つからということ、子供のオスは群れから追い出されること、群れが大きくなれば子供のメスも例外ではないこと。
聞いたことがあるものから聞いたことがないものまで、弟の話を聞きながらスケッチブックを捲って他のページも見せてもらう。
暇を持て余しているのだろう、入院初日に母が買い与えたスケッチブックの中身は半分以上埋まっている。
その中で一つ、気になる絵を見付けた。
私は顔を上げ弟に問おうと口を開いたところで、コンコンとノックが聞こえる。
開いた口からは質問ではなく「あ」と漏らした私は、もうそんな時間かと思う。
スライド式の扉がほとんど音を立てずに開かれ、白衣の男が顔を覗かせる。
若い男だった。
色素が薄く線の細い猫っ毛と、目尻がチョンと下がった垂れ目がちな瞳が印象的な男だ。
肉の薄い痩身だが上背があり、目測でも身長は二メートル近いと分かる。
長身特有の威圧感はなく、穏やかで緩やかな空気をまとっていた。
しかし、清潔感に溢れる白衣と顔の半分を覆い隠すマスクからは、鼻を突くような薬品の匂いが漂ってきそうだ。
私はほとんど無意識のうちに、スンと鼻を一つ鳴らしていた。
その男は弟の担当医だ。
通院していた頃から弟の様子を見ていた担当医を母も気に入っていた。
人好きしそうな見た目もそうだが、物腰が柔らかいのだ。
小児科だろうと厳つい顔立ちに子供を嫌っているような態度の医者は珍しくない。
そんな中でこの担当医は要領を得ないこともある弟の話をちゃんと聞いてくれるのだ。
そういうところを母も、母だけではなく弟本人も本人も気に入っている。
何度も弟の見舞いに来ている私は担当医と面識があった。
軽く会釈をして挨拶をしようと腰を上げた瞬間だ。
弟が突然泣き出した。
本当に突然、前触れもなく、火が着いたように泣き出した弟は、大きく口を開けて声を上げる。
真っ赤な口内から放たれる声に、言葉としての意味はない。
母音に濁点を付けてただひたすらに泣き叫んでいる。
私はすっかり驚いてしまって中腰で固まってしまった。
担当医も扉を押さえたまま弟を凝視している。
「ああぁぁぁ……ぱぱあぁぁ……」
弟は泣いて父に縋り付く。
胸倉を掴まれ、引っ張られる父は弟の方へ体を倒しながらも、弟と担当医を二度三度と見比べる。
父と担当医は初対面のはずだ。
だからこそ父は最終的に私の方を振り返り「人見知りかな」と空惚けたようなことが言えるのだ。
母から散々説明を受けたのではなかったか。
これだと担当医だけではなく弟の状態すら分かっていなさそうだ。
私は胃の底の方がクツリと音を立てるのを聞いた。
そんな中動いたのは担当医だ。
扉を閉めて長いコンパスで二歩半、簡単にベッド脇へやって来た。
父の隣に立ち「大丈夫ですよ」そう穏やかに言いながら。
縋り付く弟の背中をぎこちない手付きで撫でる父に「今日はお父さんがいらっしゃっているんですね」と続けた。
「代休でして」父は答える。
普段は母が弟に付き添い、父が見舞いに来たのは今日が初めてだった。
両親共に働いているというのに、家事や弟のことは全て母にのしかかっている。
今度は胃の上の方がギチリと痛み、私は浮かしていた腰を下ろして座り直す。
相変わらず弟は泣いていた。
キツく閉じられた両目からはボロボロと大粒の涙が落ち、赤くなった頬が濡れる。
普段は担当医が来ると『先生先生』とはしゃぐと言うのに。
手に力が入り、持っていたスケッチブックの歪む感覚にハッとした。
それなら泣く弟と話す父と担当医を見る。
あんまりジッと見ていたものだから、担当医が顔を傾けて私の方を振り返った。
「こんにちは」
目が合うと担当医は目を細めた。
マスクで口元が隠されているが、小さく笑っているのが分かる。
私は慌ててスケッチブックを閉じ、軽く会釈で返す。
それから担当医は首から下げた聴診器を持ち体を折り曲げた。
大きな影が弟に覆い被さる。
いつもならはしゃぐ弟が泣いている。
泣き声は更に高く大きくなった。
「ぱぱ、ぱぱあぁぁ……」
弟が父を呼ぶ。
父は全く分かっていない様子で、担当医が聴診器を当てやすいように服を捲ろうとしては、掴まれた胸倉を引っ張られて体を前のめりにしている。
「ごめんね。ちょっとだけ見せてね」
慣れているのは担当医だけだ。
手早く呼吸音を確認し、目や口の中を確認する。
本当にちょっとしか見ていないのに「うん。大丈夫だね。ありがとう」と身を引いた。
「では、お母さんがいらっしゃる頃にまた来ますね」
「あぁ……はい。ありがとうございます」
父にも愛想良く笑みを見せる担当医だが、父の方は既に疲れ切った力のない声だった。
普段から子育てのコの字にも触れないからだ。
「それでは、失礼します」担当医は汚れ一つない真っ白な白衣を翻し、病室を出ていく。
「若かったな」
担当医が出て行って先程の泣き声が嘘のように静まった弟が、ヒックヒャックとしゃっくりをしている。
その背を下手な手付きで叩く父が言った。
まるで若いのがいけないと言いたげな口振りだ。
私は立ち上がり、自分の座っていたパイプ椅子の座面にスケッチブックを置く。
「ちょっと」小さく言って歩き出せば、父が「どこに行くんだ」と聞いてくる。
弟はヒウヒウとしゃっくりが止まらない様子だ。
「ちょっと」
同じ言葉を繰り返して私は病室を出る。
背後では父の応援する野球チームが逆転負けする実況が聞こえた。
***
病院内は走ってはいけない。
当たり前のことが大きな縛りのように感じながら、私は大股で廊下を早足で歩く。
走ってはいないが、基本は柔和な看護師に見つかれば軽い注意くらいは受けるかもしれない足捌きだ。
キュッと靴底が鳴り、曲がり角に差し掛かる。
「へ」人影が目の前の曲がり角からにゅっと飛び出し、車は急には止まれない、なんて言葉を思い出す。
人も同じだと思うのだが、私は前に出した足を引っ込めることが出来ずにキュキュッと床に付けた逆の足が鳴る。
体を捻り衝突を避けようとした私に対し「おっと」相手は手を伸ばして私を受け止めた。
いっそ転んだ方がマシだと言うのに。
ボスン、と相手の体に寄り掛かった私は、大して高くもない鼻を打ち付けた。
「……すみません」
「いえいえ。こちらこそ、失礼しました」
恥ずかしい、と私は俯きがちに謝罪を口にしたが、穏やかな声が頭上に降り注ぎ、直ぐに顔を上げてしまった。
目が合う。
「先生」
私とぶつかりそうになり、私を受け止めたのは弟の担当医だった。
下がり気味の瞳を細めて笑っている。
「お姉さん、丁度良かった」と言いながら。
担当医は私のことを『お姉さん』と呼ぶ。
勿論、意味合いは担当している患者の姉である。
「病室を出る時、少し気になっていたんですよ。顔色があまり良くありませんが」
「あの」
続きそうな言葉を遮って私は担当医の顔を見つめる。
随分と近い距離だが、予想に反して薬品の匂いはしなかった。
むしろ花のような柔軟剤の香りがする。
「魔王、弾けますか」
パチリ、担当医は目を瞬いた。
それからゆっくりと首を傾け「シューベルト?」と問い掛けてくる。
弾けますか、で思い当たったのだろう、私は頷く。
「まぁ、弾けなくはないけれど」
「……ピアノに向いてそうな手ですもんね」
私の体を支える手を横目で見ながら言えば、暗にセクハラを示唆したように聞こえたのか「失礼」と手を離す。
代わりに白衣のポケットから五百ミリリットルのペットボトルを取り出し、私の方へと差し出した。
「良ければ、どうぞ。本当に顔色が悪いですよ」
「……ありがとうございます」
受け取ったペットボトルは未開封で冷たい。
購入したばかりのようだ。
私はそれを両手で握る。
「ピアノを習っているんですか?」
担当医は柔らかに問い掛ける。
高校生は既に大人との境目に立っており、弟のこともある自宅ですら子供らしい甘えの少ない生活だ。
それなのに、担当医はまるで私を子供のように扱う。
だからこそなのか、私は素直に首を振って答えた。
「ピアノどころか、アルトリコーダーだって苦手です」
選択科目の音楽を履修しているのは良いが、歌と知識ばかりで楽器はてんで駄目だった。
担当の教師もフォロー出来ない様子で視線を彷徨わせるほどに。
「では何で魔王なんですか?」
「……もしかして、病院で弾いたりしたのかな、と」
ゆらり、明るい茶色の瞳が左右に揺れる。
考え込むように、思い出すように。
「……いいえ。いいえ、心当たりはありませんが」
「そうですか……」
「理由を聞いても良いですか?何故、魔王を弾けると思ったのでしょうか」
手の中のペットボトルを転がし、中身をちゃぷちゃぷと揺らす。
ミネラルウォーターだ。
わざわざ、水を買ったことなんてないのだが。
「……弟のスケッチブックに、魔王が迎えに来ると」
「魔王が」
つい先日の音楽の時間だった。
シューベルトの魔王を習ったのは。
流石に担当の教師も弾けないとのことでCDだけで聞いたピアノは、走るように速かった。
その上、腹の奥底に響くような重たい音だった。
歌詞のあらすじは簡単だ。
病気になった息子を父親が馬で医者に連れていこうとする。
その間に息子は高熱から幻覚を見て幻聴を聞いた。
それが魔王だった。
息子は怯え、父親を幾度となく呼んでは、いかに魔王が恐ろしく自分を害そうとしているのかを告げた。
しかし父親はそれに取り合わなかった。
結果、息子は医者へ辿り着く前の道中で息絶える。
眉根を寄せる私に担当医は何度か瞬きをした。
短い睫毛が細かく揺れている。
「……きっと、大丈夫」
担当医が目を細めて言った。
私にはそれが笑みには見えなかった。
宥めるように肩を叩かれ「母が来た時、私も同席しても良いですか」と聞けば、答えは返ってこない。
返らない答えが、正しい答えのように。
脳裏には、スケッチブックに書かれた『まおうがむかえにくる』という弟の拙い文字。
添えられたイラストは白衣ではなく黒衣を着た担当医だった。
担当医は慰めるような言葉を口にしない。
代わりに「子供の方が、分かっていることは多いのかも知れないね」と告げた。
その子供には弟だけではなく、私も含まれている。
そんな気がした。
ごめんね、と言うように叩いたはずの肩を撫で、担当医はまた白衣を翻して立ち去っていく。
長いコンパスは簡単に距離を離して先へ進む。
羨ましいと思った。
狡いと思った。
私の脳裏には黒衣の担当医が残り、胃のひっくり返るような不快感を覚える。
軽やかに翻ったのは白衣のはずなのに、黒色がチラつく。
弟の顔に記憶を挿げ替えようとするが、先程の父を呼ぶ泣き声が耳の奥で警報のように響いている。
貰ったペットボトルを握り締める。
磨き抜かれた廊下に雫がパタパタと落ちた。
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