4 今日は朝から嘘をつきっぱなしだ

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「あの、これ……どうぞ」  僕が椅子の下に置かれた荷物置き用のバスケットから坂本龍馬のフィギュアが入った箱を取り出すと、朱音さんに差し出した。 「あ、すみません」と言って朱音さんが受け取る。そして、申し訳なさそうに眉根を寄せると「本当にいいんですか? 私がもらってしまって?」と僕を見た。  僕は曖昧な笑顔を浮かべて頷きながら、「どうぞ、どうぞ、持っていっちゃってください。僕はこれっぽっちも欲しくないですから」と心の中でつぶやいた。  朱音さんは本当に嬉しそうに「ありがとうございます」と笑うと、箱の中でポーズをとるPVC製の小さな坂本龍馬のフィギュアを透明セロファン越しにしばしじっと眺めた。買ってもらったばかりの超合金のロボットを見つめる小さな少年のように無邪気に瞳を輝かせている。  先ほどまでの落ち着いた振る舞いの大人の女性は彼女のどこにも見当たらない。人間とは様々な矛盾を抱えた、実に複雑かつ魅力的な構造体なのだと改めて思った。その光の当たり方によって、あるいはその周りの闇の深さによって様々な輝きを放つプリズムのようだ。  朱音さんは納得したように小さく頷くと、フィギュアの箱を自分の足元にあるバスケットに入れた。それから、窓の外に広がる夜の街を眺めた。  あれ、写真集は?  と喉元まで出かかったけれど、言い出せなかった。  写真集を催促すれば、僕がそれを欲しがっていることに気づかれてしまうからだ。CutyCoolの三人が笑顔でポーズをとる表紙の写真集は彼女の足元にあるバッグの中ですっかり忘れ去られていた。  僕にとっては片時だって忘れることなどできないほど、まさにエヴァンゲリオンの使徒のように喉からだけではなく全身のあらゆる部位から手がにょきにょき出るほど欲しい写真集でも、彼女にとってはまるっきり興味のない女達の写真を収めた退屈な紙の束にすぎないわけだ。  僕がミッションの最後の一手を攻めきれずに思案に暮れていると、ウェイターが無駄のない極めて洗練された動作で僕と朱音さんの前にグラスを置き、白ワインを注いで去っていった。  もうこうなったら、酒の力を借りるしかない。アルコールで舌を滑らかにして、この優柔不断な自分とサヨナラし、紳士的にスマートに写真集を催促するのだ。 「ええと、お疲れ様でしたって、何か変ですね……とにかく、乾杯」  そう言って、朱音さんがワインの入ったグラスを笑顔でかかげる。  僕も彼女に合わせてグラスをかかげる。そして、生まれて初めて口にするそのよく冷えた透明の液体をぐいっといっきに飲み干した。  グラスをテーブルに置いてしばらくすると、室内の照明が不思議と急に暗くなり、目の前の朱音さんが靄がかかったように見え辛くなった。  彼女が何かを言っているのだが、その声が僕の頭の中でひどく反響してしまって何を言っているのかわからない。  心地よい感触の生温かい泥が意識の中を満たしていくようだった。  次の瞬間、暗い穴にすとんと落ちるように、何も見えなくなった。
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