4 今日は朝から嘘をつきっぱなしだ

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 入口でチケットを見せて入館すると、館内にもロープで通路がつくられており、その順路に従って進むと、その先に「坂本龍馬と幕末」という看板が下がっていた。  その看板をくぐって展示室に入ると、さらに通路は二つに分かれて、その通路の分岐点には(いかめ)しい顔をした警備員が立っていた。 「整理券のある方だけ左側に一列にお並びください。それ以外の方は立ち止まらずにそのまま館内へとお進みください」  警備員は野太い声を張り上げて入館者の整理をしていた。百人目である僕が最後に並ぶと、傍に立っていた係員がすばやくロープを張って通路をふさいでしまった。  我々が並ぶ列の先には、赤い絨毯を敷かれた低いステージが設けられており、その壇上にあのなっちが着物姿で立っていた。  浅黄色に色味を押さえた白に近いピンクの桜の花が映える清楚で春らしい着物はなっちによく似合っていた。  なっちは笑顔で手を振ったり、深々とお辞儀をしたりを繰り返しながら我々を出迎えてくれた。  僕の後ろにいた小太りの男は小さな舌打ちを残すと僕の脇を通り、恨めしそうにステージに立つなっちを眺めていたが、警備員に「立ち止まらないでください」と少し強い口調で言われ、すごすごとその場を離れていった。  人の流れが一段落して館内の様子が落ち着くと、握手会が始まった。  なっちが列の先頭に立つ人から順番に握手を交わしていく。その模様を数台のテレビカメラがとらえ、いっせいにカメラのフラッシュが炊かれた。  彼女の方から来館者に歩み寄ると、しっかりと両手で丁寧に握手をして、ファンの人に何事かを話しかけられるとその円らな瞳でまっすぐに話者と視線を合わせ、一生懸命に頷きながら話を聞いて、ときどきくったくのない自然な笑みを浮かべる。  なっちはやっぱり良い子だなあと改めて思った。かつてとは比べ物にならないほどに有名になっても、謙虚な姿勢は少しも変わらない。まさにアイドルの鑑だった。  やがて列が進み、なっちが近づいてくるにしたがって僕の心臓の鼓動は激しさを増していった。  全身に血を送りだすその小さなポンプはなっちの目の前に立ったら僕の口から飛び出して博物館の床の上でブレイク・ダンスをしてしまうんじゃないかというくらい胸の中で脈打っている。  掌は白く冷たくなって汗が滲んでくる。  自分の前に立っていたポニーテールの女性がときどき振り返っては坂本龍馬や新撰組やその他、僕のよく知らない維新の志士の話を楽しそうにしてきたのだけど、僕は上の空でただ適当に相槌をうっていた。  はっきり言って、うるさいとさえ思っていた。 「生なっち」を目の前にしてそれどころではないのだ。
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