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目に映るすべてが突如スローモーションになり、なっちへとむかう数歩が永遠のように長く感じられた。
映画『ノッティング・ヒルの恋人』の主題歌であるエルビス・コステロの甘く歌う『She』が脳内でリフレインしている。
カメラのフラッシュがくぐもった不思議な音をたててゆっくりと明滅する。
今ならキアヌ・リーブスなみに弾丸だってよけられる。
でも、今の僕のイメージはあくまでヒュー・グラントだった。
なっちが微笑みながら手を差しのべてくる。
昨晩から何度この瞬間をイメージ・トレーニングしたことか。
僕の差し出した左手がふわりとした温かな感触に包まれる。
なっちと握手する度に不思議に思うことがある。それは、握手をしたときの感触というのは必ずしもその人の手の肉付きや形状とは一致しないということだ。
彼女の手はどうみてもほっそりしていて、ふくよかではない。にもかかわらず、なっちの手の感触は驚くほどふっくらしていて温かく、この上なくやさしい。
それはたぶん、肉体をとおした彼女の心そのものに触れているからだと思う。これは彼女の心の感触なのだ。
僕らは握手という行為を通して、心と心を通わせあっている。
僕の邪な心は彼女に見透かされてしまっているだろうか。そして、それはどんな感触のするものなのだろう。
何か言わなければ、と思う。なっちに何かを伝えなくては。
でも、彼女を目の前にすると頭の中はいつも見渡す限りの雪原のように真っ白になってしまい、言葉はいつもその雪の下深くに跡形もなく埋もれてカチカチに凍り付いてしまう。
やがて、なっちは僕の異変に気づき、その笑みの残る目元にかすかに「どうかしましたか?」と問いたげな表情を浮かべて僕の顔を眺める。
彼女の脇に立っていた博物館の職員から坂本龍馬のフィギュアがなっちへと手渡された瞬間にスローモーションは終わり、すべての時間が再び正常に流れ出した。
エルビス・コステロは突如、歌うことを止め、僕はただの冴えない男に戻っていた。
なっちの手からフィギュアを受け取ると、カメラのフラッシュが光の渦のように僕の背後から襲いかかってきた。
僕はそのまぶしい光を避ける夜行性の獣のようにそそくさと頭を下げながらステージを降りた。
そのとき、わずかな段差に足を引っかけて不様に転んでしまった。カメラマンや報道記者達から驚きと笑いの声があがった。惨めだった。
「大丈夫ですか?」
顔を上げると、なっちが僕の目の前にかがんで心配そうに手を差しのべてくれていた。
女神の降臨。
館内の照明が後光のように彼女の背後で輝いていた。
僕はなっちの手をとると立ち上がり、真っ白な頭のまま「すみません」と頭を下げた。額にどっと汗が噴き出してきた。
僕はハンカチを取り出そうと上着のポケットを探った。何かが床に落ちた。徹夜して書いたなっちへのファンレターだった。
なっちは床からそれを拾い上げると、僕へと丁寧に差し出した。秋葉原の路上でチラシを配っていたあのときとまったく変わらない笑顔を浮かべて。
「それは、あなたへのファンレターです」
目を合わせずになんとかそれだけ言うと、僕は逃げるようになっちの前から小走りで去り、展示室の人だかりの中へとまぎれた。なっちの方をふり返る余裕なんてありはしない。腋の下や背中を冷たい汗が流れていた。
その後の気分はどん底だった。
終わった。すべてが終わった。
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