4 今日は朝から嘘をつきっぱなしだ

10/15
前へ
/106ページ
次へ
 予想もしていない転倒で、というか予想していたら転ばないわけで、いずれにしても、なっちの前で醜態を曝したことで、もう自分が自分として存在していることそのものが辛く、今すぐ消えてなくなってしまいたかった。  呆然としたまま周囲を見渡すと、照明を抑え気味にした館内の所々にはガラスケースが設置され、その中には坂本龍馬が綴った手紙だとか、愛用していた刀だとかが展示されていた。  僕には何の興味もなかった。さっさと部屋に帰って、ひとりでふて寝でもしようと展示を素通りして出口へと急いでいると、最後の展示室にさっきのポニーテールの女性がいた。  彼女は部屋の中央に置かれたガラスケースの前で身をかがめ、ケースの中をじっと覗きこんでいる。身動きひとつしない。まるで彼女自身がひとつの展示物のようだった。  ケースの中の展示物に注がれる彼女の眼差しは真剣そのもので、まさに食い入るような視線とはこのことを言うのだと思った。  何が彼女をそこまで夢中にさせているのか気になって、僕は彼女の背後へと回って見た。  ガラスケースの大きさに比べて展示物はひどく小さかった。  それは額に入れられたL判ほどのモノクロ写真だった。そこに写っていたのは学生の頃に歴史の教科書や資料集で見たおぼえのあるポーズをとった坂本龍馬だった。  傍に立つ警備員の視線を感じつつガラスケースの脇に記された解説を読むと、なんでも幕末の写真師、上野彦馬という人物によって湿板写真という当時の技術で撮影、現像された非常に貴重なものらしい。  保存状態は驚くほどよく、龍馬の表情はおろか、穿いている袴の襞や腰に帯びた脇差の柄の模様まで実に鮮明に写し出されている。  小さな写真ながら、幕末という動乱の時代を生き、革命を成し遂げた一人の男の姿が神秘的ともいえる重みをもって、現代に生きる僕達へと迫ってくる。  それまで坂本龍馬にまるで興味のなかった僕でも、この写真には胸をうたれた。この写真が撮られたときの彼はおそらく僕より少し年上だろうか。さっきまでの自分がとてつもなくくだらないことで落ち込んでいたことに気づいて、恥ずかしくなった。 「どんな声をしていたのかしら……」  ポニーテールの女性が龍馬の写真を見つめたまま、小さな吐息とともにつぶやいた。  声か……と思う。たしかに写真の中の龍馬は今にも口を開いてしゃべり出しそうに見えた。
/106ページ

最初のコメントを投稿しよう!

8人が本棚に入れています
本棚に追加