4 今日は朝から嘘をつきっぱなしだ

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 平日の午前中だというのに入館者はぞくぞくと増え、坂本龍馬という人物がこれほど多くの人々に愛されていることを知って驚いた。  ベストセラーである歴史小説によって以前から根強い人気はあったものの、ここにきて人気俳優が龍馬を演じる映画の制作が決定したということでいっきにブームに火がついたようだった。  今回の展覧会の見物である龍馬の写真の前には当然、人だかりができ、僕らは押し出されるように展示室の外に出た。  お互いが手にしていた記念品を交換すべく、館内のカフェへとむかったけれど、すでに老若男女で混み合っていた。  僕がいえる立場ではないけれど、みんな仕事はどうしたのだろう?  さっきから何か考え事をしているように僕の隣りをうつむいて歩いていたポニーテールの女性が顔を上げて立ち止まった。 「私、やっぱりもう一度、龍馬様が見たい」  独り言のようにつぶやくが早いか、彼女は再び展示室へ引き返そうとした。 「でも、もうすごい混んじゃってるよ」  僕の言葉などまったく耳に届いていない様子で、彼女は展示室にむかってずんずんと歩き出した。彼女の手にするCutyCool直筆サイン入り写真集が遠ざかっていく。僕は仕方なく彼女の後についていった。  展示室は入場規制がかかるほどの激混み状態だった。入口から博物館の外まで既に長い行列ができていた。  入口に立つ係員が数人のおばさんグループに「これからの入場は二時間待ちとなります」と申し訳なさそうに説明していた。 「ほらね。今日はもう無理なんじゃないかな。また日を改めて……」 「閉館時間ぎりぎりになったら空くかも。とりあえず常設展を見て時間を潰しましょう」  彼女は階段を上がり、二階の展示室へとむかう。当然のことながら、写真集とともに。  僕はため息をつきながらも、こうなったら写真集を回収するまでは地獄の底までだってついていってやると決意して、彼女を追って、というか正確には写真集を追って階段を駆け上がった。  二階の常設展示は一階の特別展とは違ってがらがらに空いていた。  人もまばらな広い展示室には縄文式土器や青銅の鏡、銅鐸、剣や勾玉といった古代の遺物から昭和の白黒テレビや洗濯機、冷蔵庫、オート三輪に至るまで日本の歴史をざっと概観することのできる展示物が年代順に所狭しと並べられていた。  それらを一つずつ見て回るだけでもかなりの時間が必要だった。たしかに最良の時間潰しの方法ではあった。  ポニーテールの女性のお気に入りは武士の活躍した鎌倉時代から江戸時代にかけての展示で、その展示物の一つひとつの前で足をとめては真剣そのものの強い眼差しで鑑賞する。  ただ眺めるというよりは目というレンズを通して脳内に像を焼き付けていくようにすら見える徹底振りだった。  笑みこそ浮かべないものの、彼女は実に楽しそうだった。深い喜びに心が満たされているという表情が見てとれた。どこか官能的とさえいえる眼差しだった。  歴史的遺物に宿る過去の人々の記憶と時空を超えて対話を続ける彼女の前では、僕という存在は完全に消え去り、忘れ去られてしまった。  彼女は僕を置いて展示室の奥へと進んでいく。  僕はなぜかそのことに一瞬、自分でも理解できない不思議な寂しさをおぼえた。
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