4 今日は朝から嘘をつきっぱなしだ

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 昼時を過ぎると、僕はいいかげん足が痺れ、ひどく空腹だったけれど、彼女はまったく疲れた様子を見せなかった。むしろどんどん元気になっていくようにさえ見えた。  気の弱い僕は、楽しそうな彼女を前にして、「疲れたからどこかに座って何か食べようよ」とは言えなかった。  彼女のバッグからのぞく写真集を指さして「お楽しみのところ申し訳ないんだけど、俺も色々用事があるんで、そろそろ失礼します。写真集、交換してもらってもいいっすかね?」とも言えなかった。  そして、聖地を巡礼する修行僧のように何も飲まず食わず、立ちっぱなしで館内を歩き回り、ようやく閉館時間である六時十分前となった。  彼女はこのときを待っていたとばかりに獲物を狙う豹のようにしなやかに階下へとおりると、特別展示室へと足早に歩いて行った。僕はもはや執念でその後を追った。  特別展示室の前にやってくると、先ほどまで詰めかけていた人々が幻であったかのように姿を消していた。龍馬の写真が展示されている部屋に入ると、ガラスケースの前には誰一人立ってはいなかった。  ポニーテールの女性は僕の顔を見ると、「ほらね。言ったとおりでしょ」というように瞳で笑ってガラスケースへと歩き出した。  僕らは館内に閉館を知らせる女性のアナウンスと『蛍の光』が流れ終わる寸前までガラスケースに張り付いて坂本龍馬の写真を眺めた。「龍馬に逢いにきた」なんて言っちゃった手前、彼女の熱意に付き合わざるを得なかった。  警備員に促されるように博物館の外に出ると、既に陽が暮れかけようとしていた。風は暖かく、黄色と群青を混ぜた淡い闇が街を染める春の美しい夕暮れだった。  すみれ色の空に残るオレンジ色の光を見上げていた彼女が僕へと笑顔をむけた。彼女の白い頬が薄い紅に染まっている。 「私の名前、朱色に音って書いて朱音っていうんです。私が生まれた日、病院の窓からきれいな夕陽が見えたんですって。それで、父が名づけてくれたんですけど」 「へえ」と間の抜けた声を出しながら僕も夕空を見上げた。夕陽の音か……。 「きれいな名前ですね」  いつのまにか、素直に思ったことを口に出していた。  朱音さんはちょっと驚いたようにその黒い瞳で僕を見たけれど、すぐにうつむくと照れ笑いを浮かべた。 「ありがとう、ございます……ええと……?」  そう言いながら、朱音さんは僕にむかって掌を差し出した。「じゃあ、あなたの名前は?」と言うように。 「あ、ええと、僕はそんな名乗るほどの素敵な名前じゃないですよ。がっかりすると思う。平凡すぎて」 「教えてください」 「優介です。鈴木優介」 「ほんと、フツーだね」 「ほらね……」 「でも、なんか、うん、あってると思いますよ。雰囲気に」 「それって、褒められてるんですかね?」  僕がちょっと傷つきながら言う。  すると、朱音さんはくすくすと笑う。そして、歩き出し、僕へとふり返る。 「おなか空きません?」
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