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僕らは博物館の近くにある赤いレンガの壁の小さな洋食屋に入った。
ちょうど夕食時だったからファミレスやチェーン展開の安い飲食店はどこもいっぱいで、ゆっくりと落ち着いて食事をして物々交換ができるような店がそこしか見当たらなかったのだ。
レトロで洒落た外観の店を前にして、財布の中身がちゃんと入っていたか心配だったけど、確認するわけにもいかない。
染みひとつない白いシャツに黒いエプロンをしたちょっと神経質そうなウェイターが僕らをカップルと勘違いしたのか、気をきかせて店の奥にある窓際の席へと案内した。
店内には品のよい年配の夫婦らしき男女が二人で静かに食事をしている他は誰もおらず、ほとんど貸し切り状態だった。
テーブルの中央には赤いバラの花がガラスの一輪挿しにさしてあり、天井からの照明を受けて白いクロスの上に淡い影を落としている。
この状況と雰囲気になじめない僕らはそれぞれ、ぎこちない笑みを交わしながらテーブルの差し向かいに腰を下ろした。
母親以外の女性と二人きりで食事をするなんて何年ぶりだろう。はっきりとは思い出せなかった。とにかく、さっさと写真集を手に入れて家に帰らなくては。
先ほどのウェイターがやってきて、僕と朱音さんの前にワイングラスに入った水とメニューを静かに置いて去っていった。
改めてこうして二人きりで向き合うと、僕らには共通する話題なんて何もないことに今さらながら気づいた。
第一僕らは今日はじめて遇ったばかりなのだし、それに、僕はこれまで女性と向かい合って食事をしたことなどほとんどないのだ。
こういうシチュエーションに慣れた男だったら、こんなときはどんな会話をさらりとして緊張をほぐし、和やかなムードをつくりだすのだろう。僕にはまるでわからなかった。
だから、僕はメニューをとって開き、ひたすら読むふりをしながら上目づかいで朱音さんの様子を盗み見ることしかできなかった。
なぜか朱音さんもメニューを開いたまま上目づかいで僕を見ていた。
僕たちはしばしそのまま固まって、互いの様子をうかがっていた。これではまるで警戒しあう野生動物のようだ。
先に動いたのは、朱音さんだった。彼女はメニューを閉じてテーブルの上にのせると、丁寧に頭を下げた。
「今日はなんだか付き合わせてしまって、すみませんでした」
僕もメニューをテーブルに置くと反射的に首を左右に振って「僕の方こそ」と言おうとしたけれど、その言葉が返事としておかしいことに気づいて「いえ」とだけ言った。そして、「楽しかったです」という言葉が自然と口から出た。
「私も」と朱音さんは静かな微笑みを浮かべて頷く。
よかった。ここまでは間違った返答をしていないようだ。
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