8人が本棚に入れています
本棚に追加
5 頬を手で拭うとなぜか涙が流れていた
「ちょっと、しっかりしてください」
タクシーの中で何度か頬をたたいて目を覚まさせようとしたものの、鈴木優介と名乗ったその見るからに草食系というか植物系の男性はすぐにまた眠り込んでしまう。
その場に置いたまま帰ってしまおうかとも思ったが、お店の人に迷惑をかけるわけにもいかず、かといって道端に放っていくわけにもいかない。
何度か頬を叩くと、「植物男子」はうわ言のように「家へ、家へ帰らせて」としか言わない。
何とか住所を聞き出して驚いたのは、彼が私の家の近くに住んでいることだった。電車の駅なら二駅ほどしか離れていない。
住所を聞いた後はまったく反応が返ってこなくなって、空気が抜けた人形のように眠りこけてしまっている。まったく、これほどお酒に弱い人だとは思わなかった。これだから現代の男は嫌いなのだ。
別にお酒が飲めないことを悪く言っているのではない。弱いなら弱いと事前にはっきり言えばいいのに、変に格好つけて無理に男らしく振る舞おうとするからそれがむしろ格好が悪い。
グラスの持ち方からしておそらくお酒を飲まない人なんだろうと察しはついていたけれど、まさかワインをいっき飲みするなんて思わなかった。
水をがぶ飲みするときに音をたてて揺れる喉仏を呆気にとられて見てしまったことを誤魔化そうとお世辞を言ったら、それを真に受けたのかしら?
だとしたら、ちょっと単純すぎる。
鈴木さんの途切れ途切れの寝言をなんとか繋ぎ合わせて超訳して、タクシーの運転手さんに行き先を告げると、彼は「その辺りならわかりますよ」と朗らかに言って、迷うことなく駅から少し遠い住宅街にある五階建てのアパートの前で車を停めた。
「ありがとうございました。助かりました」
料金を払って車の外に出ようとすると、運転手さんが「手伝いましょうか?」と言ってくれた。
私は笑顔で断ると、反対側のドアを開けてもらい、体術の「投げ」の要領で鈴木さんの脇に腕を差し入れて抱きかかえるようにして車の外に出た。
タクシーが走り去っていくと私は鈴木さんを背負おうとした。そのとき、肩に掛けていたトートバッグを路上に落としてしまった。龍馬様のフィギュアが入った箱がバッグから転がり出て、アイドルの写真集が顔を覗かせた。
私は鈴木さんをとりあえずアパートの入口にある階段に寄りかからせると駆け出してトートバッグを拾い、龍馬様のフィギュアが入った箱を拾い上げた。
街灯の下で確認すると、箱は落とした衝撃で角がへこんではいたが、龍馬様にはダメージはないようだった。ほっとして、それをバッグの奥に入れると肩にしっかり抱えなおした。
写真集は重かったし、アパートの入口脇のゴミ捨て場に積まれた雑誌の上に置いてきてもいい気がしたけれど、またバッグから取り出して捨てにいくのも面倒だったからやめた。
こんなアイドルの写真集なんて鈴木さんも欲しがっていないし、フィギュアと交換してくれたのは彼の親切心からだ。どうせゴミになるものを彼に押し付けるわけにもいかない。家に持って帰って処分しよう。それが人の親切に対する礼儀というものだ。
部屋には上がらず鈴木さんをここに置いて帰ろうかとも思ったが、いくら今日が暖かい日だったとはいえ、さすがにまだ日が沈むと肌寒い。このままここに放置したら風邪をひいてしまうに違いない。
最初のコメントを投稿しよう!