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3 私には好きな人がいます
会社から帰宅すると道着に袴姿の父が玄関に立っていて、道場にくるようにと言った。
今日は夜稽古の日じゃなかったから、かなり嫌な予感がした。
自分の部屋へあがって着替えを済ませると、一階にある道場の戸を開けた。剣道場の奥にある畳のスペースで父が座禅を組んで私を待っていた。
私が父の前に座ると、父はゆっくりと目を開け、私の前に和紙で作られた白い角二封筒を置いた。
ますます嫌な予感がしておもむろに中を開けると、豪華な装丁を施された二つ折りの写真台紙が現れ、さらにそれを開くと男性のバストアップ写真が出てきた。
写真の隣には生年月日と簡単なプロフィールが記されていた。
男性は紺のスーツを着て、斜め四十五度からこちらにむかって気障に笑いかけている。
きっと彼の一番自信のある顔の角度であり、表情なのだろう。ネクタイの趣味が悪かった。勘違いした表情も鳥肌がたつほど気持ち悪い。
「お父さん」
私が口を開いたが早いか、父は私がそれ以上何かを発するのをすばやく手をかかげて制した。
「約束したはずだぞ」
「でも」
「おまえが居合を習いたいというから私は教えた。本当は剣術よりも花嫁修業に必要な料理の方を習いに行ってもらいたかったにもかかわらずだ。それは朱音、おまえが私とここで約束したからだ。必ず見合いはする、と。忘れたとは言わせないぞ」
「忘れてません」
「では、でも、とは何だ? 父さんの決めた相手が不満か?」
「では、お父さんにお訊きします」
そう言いながら、私は見合い相手の写真を父の方へとかかげて見せる。
「この人に、お母さんが死んじゃった後、お父さんが大切に、たいっっっせつに育てたたったひとりの可愛い娘を差し出せますか?」
「差し出すなどとは下品な!」
そう声を荒げた父だったが、私が掲げた写真を眺めると納得したように黙ってしまった。
写真を閉じて父に差し出すと、父は少し腹をたてたように私の手からそれをひったくり、封筒に戻して自分の脇に置いた。
「だが、朱音、おまえの年齢だとそれほど贅沢も言っていられないだろう」
「えっ、私まだ25だよ? お父さん、いつの時代の話をしているの?」
「結婚したとき、母さんは二十歳だった」
「今は三十過ぎても結婚しないのなんて普通だよ。それに、結婚して奥さんになって子供を持つことが女の幸せな生き方とはかぎらないし」
「三十過ぎて独り身でいるなど絶対に許さん」
「どうして?」
「ならぬものはならんのだ!」
でた、形勢が不利になったときの父の十八番。この三葉虫やアンモナイトがめいっぱい詰まっているんじゃないかっていうくらいの化石頭には現代女性の多様化したライフスタイルなんて言葉はまったく通じないのだ。
私は正座を整えると畳に手をついて頭を下げる。
「何の真似だ?」
「お見合いはしません」
さらりと言って顔を上げた。
「なんだと! 約束を破棄するのか? おまえはそれでも武家の娘か?」
「元武家ですよね。もう日本に武士はいません。この道場だって、今は入会者から月謝をとって運営しているただのしがないお稽古場です」
「なんだと! そんな屁理屈、私は許さんぞ!」
「それに、私には好きな人がいます。だから、お見合いはできません」
「なんだと……?」
父が怒りと嬉しさのごちゃ混ぜになった複雑な表情をして私を見る。やがて、父は再び冷静さを取り戻し、剣術家としての顔になる。常に一糸乱れぬ剣技を披露する父がこれほどに取り乱している姿をお弟子さん達が見たら、さぞ驚くことだろう。
「その男を近いうちにここに連れてきなさい」
私は曖昧に微笑むだけで首を縦にはふらない。それは絶対に無理だから。
その「好きな人」が既に死んだ過去の人であり、坂本龍馬という名の歴史上の偉人だなんて、口が裂けても言えない。
明日はいつもどおり会社に出社するふりをして、大江戸東京博物館に行かなくては。そこで最愛のあの人に逢うために。
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