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4 今日は朝から嘘をつきっぱなしだ
どこかで耳障りなベルが鳴っている。
「うるさいな。いいかげん誰か止めてくれ」と心の中でつぶやきながら朦朧とした意識の海を浮かんだり沈んだりしていると、その音が自分の枕元に置いたスマートフォンが発するアラームだと気づいた。
手探りで何とか止めると再び意識の底へと沈み込む。
はっと気がついて目を開けると朝の八時を過ぎていた。
しまった。完全に寝坊した。
遅刻だと反射的に焦ったが、今日は「休み」だったことを思い出してほっとした。
なっちのあの笑顔とダンスをする引き締まった太ももや足首がまぶたの内側で一晩中リプレイされ、興奮してほとんど眠れず、なっちの等身大抱き枕を抱きしめてベッドの上で悶々として寝返りを何度か打つと、そうだ、明日ファンレターを渡そうと思いつき、何度も書き直しているうちに夜が明けてしまい、朝方にベッドに入ったのがまずかった。
でも、ほとんど眠っていないにもかかわらず『ミッション:インポッシブル』のイーサン・ハント並みに体は軽やかで力がみなぎり、意識は冴え渡っていた。
今なら通信販売で買ったままベッドの下に放置して埃まみれになっている10キロの鉄アレイを三回くらいは続けて挙げられそうな気がした。
もちろん「気がした」だけで疲れるのでそんなことはしないけど。
いつもは天井に貼った最高の笑顔を浮かべるなっちのポスターに何とか励まされて「ラザロの復活」よろしく重い体をベッドからようやく引き剥がすように起き上がるのだけど、今日は『ドラゴンボール』の孫悟空が跳ね起きるようなイメージ(あくまでイメージ)で爽快に布団を出て、床に下り立った。
トイレをすませてCutyCoolの曲を少し早いピッチで口ずさみながら急いでシャワーを浴び、鏡の前で入念にヒゲを剃り、鼻毛カッターでできるだけ丁寧に鼻毛を処理した。
なっちの前に立ったときに自分の顎の下にヒゲの剃り残しがあったり、鼻からカールした黒い毛がてろりと覗いているという取り返しのつかない失態は絶対に避けなくてはならない。絶対に。
ヒゲの剃り残しは致命的とまではいえないが、ちょび鼻毛は即ち死を意味する。
鏡の前で架空のなっちにむけて握手の手を極めて紳士的に差しのべると、さわやかな感じのよい自然な笑顔を何度かシミュレートした。
それから、なっちがかつて雑誌のインタヴューで愛用していると語っていた香水をベッドの下に置いた通販の箱から取り出すと二三度プッシュして胸元に振りかけ、さらにいつものように黒縁メガネを装着した。
ファンクラブ会報のインタヴューで、なっちが好きな男性のファッションについて「黒縁メガネの似合う男子って素敵だと思いますね。メガネをかけたシャープな目元にキュンとします」と答えていたから、それ以来、ライブや握手会でなっちと逢うときはいつもこの伊達メガネをかけていくようにしている。
似合うとか似合わないとか、「シャープな目元」とか、そういうことはなるべく考えないようにしている。
ちなみに僕の視力は左右とも裸眼で1,5だ。
完全装備を終えて鏡の前を離れると、いつもは食べない朝食をとるべきか少しの間考えた。
なっちは朝はしっかり食べるとテレビのトーク番組で言っていたっけ。朝ごはんは元気のもとですから。
なっちは今日は何を食べるのだろう?
好きな食べ物はオムライスと言っていたけれど、まさか朝からオムライスではあるまい。
そんなことを考えながら自分の冷蔵庫を開けると中には納豆とらっきょう、生卵が三つにオレンジが二個、CutyCoolがCMに出演している果汁入りサイダーのペットボトルが入っていた。
相変わらずの殺風景さだ。
生卵はいつ買ったか記憶が曖昧だから当然避けるとして、納豆も口臭を発する恐れがあるのでパス。だいいち飯を炊いていない。
コンビニ弁当で済ましてしまうことがほとんどで、米すらここしばらく買っていない。
らっきょうはもはや考える必要もないほどの口臭源だ。
母親が大のらっきょう好きで「美味しく漬かったから」と言っては瓶詰めを送ってくる。
僕はそれほどらっきょうが好きではないので、当然のことながらなかなか減らず、瓶詰めは膝を抱えたまま冬眠した小さなイエティのごとく長期にわたって冷蔵庫の特定のポジションで冷え続けることになる。
結局オレンジを一つ剥いて食べ、半ば気が抜けてただの砂糖水になりつつあるサイダーを一口飲んだ。
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