4 今日は朝から嘘をつきっぱなしだ

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 それから、冷蔵庫の上に置いてある「スイーツ・ザウルス」の額に開けられた硬貨投入口に百円を入れると腹の引き出しを引いて小さな袋入りのマーブルチョコを出して口に放り込んだ。  このスイーツ・ザウルスという名の眠たそうな目をした太っちょのピンク色をしたプラスティック製の恐竜は僕が勤めている会社の製品である。  卓上型の簡易自販機で、額に開けられた硬貨投入口から百円を入れると丸く膨らんだ腹にある引き出しのロックが解除されて、中に入っている数種類の菓子を取り出せる仕組みになっている。  僕はこれを大小様々な企業を回って売り込む営業の仕事をしている。 「売り込む」とは言っても、正確にはこのザウルス本体をオフィスの片隅に設置する許可をもらい、その中にある菓子を販売している。  ザウルスの腹の引き出しに入っている数種類の菓子はどれも百円で、売り切れればそれぞれのエリアを担当する営業社員が菓子を補充して回る。  菓子のラインアップは基本的にそのときの業者との取引で最も原価が安く大量に仕入れられるものを納品するのだが、ある程度は個々の営業の自由裁量となっていて、自分の好きな菓子やお客さんのリクエストを反映した商品を仕入れてザウルスの腹に補充することもできる。  そのかわり自分の読みがはずれて仕入れた菓子が全然売れない場合は自腹で買い取らなくてはならないこともある。  そのおかげでこうして僕の部屋の冷蔵庫にまでザウルスはやってきて、その膨らんだ丸い腹を突き出して惰眠をむさぼっている。  いい気なものだ。  僕はこいつのおかげで何度となく冷や汗をかき、週末になると虫歯の治療のために歯医者へと足繁く通うはめになったというのに。  歯をいつもより時間をかけて磨き、口臭予防のマウス・ウォッシュでうがいをした。  なっちがお気に入りといっていたブランドのメンズ服に身を包み、スマートフォンで今日の天気をチェックした。  天気は晴れで、雨の心配はなかった。  三月の半ばをすぎたばかりだが、今日の気温は四月後半くらいの暖かさになると予報が出ていた。  さらに路線案内のサイトで大江戸東京博物館までの電車の乗換えと所要時間を調べた。  博物館の開館は十時からだったから電車の乗り換え時間や徒歩も含めてその五分前には現地に着くつもりでいた。  腕時計を見るとまもなく九時になるところだった。  社長はとっくに出勤している頃だろう。  何度か咳払いをしてできるだけシリアスな声の練習をすると会社に電話をかけた。 「おはようございます、ドリーム企画でございます」  いつものように藤沢さん(僕に猫缶をくれた女の子だ)がワンコールで朝方だというのにひどく澄んだ声で電話に出た。声だけだとすごくほっそりして色の白い可愛い女の子を想像してしまう。  でも、僕は彼女の実際の姿をいつも会社で目にしている。  美しい想像の余地を残すことができる電話というのは実に素敵な器械だと、受話器越しに彼女の声を聞く度に思う。  僕は小さく咳払いをすると声のモードを「悲しみをこらえて」に切り替える。 「すみません。季節の変わり目でここのところ暖かくなったり急にまた寒くなったりという陽気のせいなのか、母の心臓の具合が良くないようなんです……それで……」  皆まで言うことなく、藤沢さんは察してくれる。 「お母様の具合が悪いのね。うん、わかった。社長に伝えとくね。お大事に」 「すみません。お願いします」  最後はちょっと泣きそうな声で電話を切った。我ながらなかなか良い演技だったのではないだろうか。  藤沢さんの思いやりに満ちた温かい声が小さな棘のように胸に刺さるけれど仕方がない。許せ、藤沢さん。なっちのためには手段は選べない。  昨夜、博物館のホームページ上で購入した「坂本龍馬と幕末展」の電子チケットをスマホを開いて確認すると、徹夜でしたためたファンレターをジャケットの内ポケットに入れて自宅を後にした。
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