4 今日は朝から嘘をつきっぱなしだ

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 予定通り開館の五分前に大江戸東京博物館に到着すると、自分の考えが甘すぎたことを思い知った。 まだ開館前だというのにすでに博物館の外には行列ができていた。 遊園地のアトラクションの入場のようにロープで即席の通路が幾重にもつくられ、列の最後尾には「龍馬展」と書かれたプラカードを掲げた係員が立って整理券らしきものを配っている。 僕は反射的にその列の最後尾にむかって走り出していた。前を走っていたCutyCoolファンクラブの公式グッズである黄色いTシャツを着た小太りの男を追い抜くと、係員から整理券を受け取る。 番号は100番ジャスト。危なかった。 青空にむかって拳を突き上げ快哉を叫びたかったが、背後からぜいぜいという今にも呼吸困難で倒れるんじゃないかというくらいの息切れが聞こえて思わず振り返った。 髪を振り乱し、黄色いTシャツを汗まみれにした小太りの男にものすごい形相でにらまれた。  男の顔中からは止め処なく汗がふきだし、かけていた黒縁メガネのガラスは蒸気で曇っていたが、そのガラスの奥からあからさまな殺意をこめた三白眼が僕をじっと見据えてくる。  こ、怖すぎる。  僕はストレッチをするふりをして体を前に戻し、なっちと握手を終えるまで二度と振り返らないことに決めた。  負けられない戦いがそこにあるのだ。  前をむくと行列の大半が男で、どの顔も僕と同じくどう見ても坂本龍馬にも幕末にも興味があるようには見えなかった。  首をのばして列の前の方を眺めると先頭付近に黄色いTシャツを着た男たちが固まっていた。徹夜組かもしれない。  肩に背負っているバックパックの中には寝袋が入っているのだろう。上には上がいるものだ。  彼らは皆やはり黒縁のメガネをかけていて、何事かについて実に楽しそうに談笑している。  この光のどけき春の日にしず心なく博物館の開館を待つなっちファンたちの幸福そうな姿を目の当たりにしていると、この世界もそれほどひどいところではないのではないかと思えてくる。  僕の背中にいまだレーザービームのように照射され続ける憎悪に満ちた殺意は例外として。  僕の目の前には若い女性が並んでいた。  僕は今年で28歳になるのだが、それよりは確実に五歳以上は若く見える。大学生かもしれない。  彼女の穿く膝丈くらいの薄い水色のスカートの裾が日向のにおいがする少し冷たいそよ風にゆれている。羽化したばかりの空色の翅をそっとはばたかせる蝶を思わせた。  ポニーテールにして結っている栗色のまっすぐな髪が春の白い光をうけて艶やかな光沢を放っている。  小さな頭は芸術的ともいえるきれいな円を描き、淡い藤色のカーディガンから覗く白くほっそりとした首筋へと続いていた。  どんな顔をしているのだろうと少し興味がわいたけれど、別に好意を抱いたとかそういうことではない。  なっちのファンになってからというもの、街を歩くいわゆる一般の女性にはすっかり興味を失ってしまった。  ただ、怖いもの見たさというか、純粋な好奇心だ。  最近、CutyCoolも女性のファンが増えてきたとはいえ、ライブ会場でもオフ会でもちょっと見かけたことのないタイプの女性だった。
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