ice

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 クリスマスが終わったばかりの街を白い息を吐きながら帰ってきた。きらびやかなイルミネーションは、輝きはクリスマスの頃となんら変わらないはずなのに旬を過ぎた花のようでどこか切ない。  一人暮らしのアパートに入るとコンビニで買ってきたブロックアイスの袋を手荒に破る。袋からこぼれ落ちた不揃いの氷を掴んでグラスに落とした。そこに無色透明の水を注ぎ入れて持ち上げてみる。薄暗い室内が、家主に同調して息を潜めていた。暫し眺めていると氷はバランスを崩して小さくガシャと悲鳴をあげた。  グラスを左手にスマホを右手に持って、ベランダに向かう。  東京の夜、曇天で新月となると真っ黒な夜空。ネオンもイルミネーションも届かない、そんな夜。  窓ガラスを開けると待っていたように冷気が部屋へと駆け込んできた。時期に合わない薄着姿の私を夜風が笑う。  笑えばいい。私の感覚は既にどうにかなっている。  ベランダの欄干にグラスを置くと、スマホを点けた。  高校卒業と共に付き合いだして六年、一輝(いっき)とはこの間ずっと遠恋だった。  距離が一輝の愛情への燃料になったのは一年目だけだったのかもしれない。二年目はそれでも一ヶ月おきに会いに来ていた。三年目、四年目、会う回数は減る一方。五年目はクリスマスすら別々で、六年目の今年、一輝は私の誕生日を忘れていた。誕生日もクリスマスもなくなった二人。  一年目の誕生日、一輝は忙しい合間をぬって家庭教師のアルバイトをし、私に奮発してダイヤのネックレスをプレゼントしてくれた。プラチナのチェーンネックレス。ジュエリーに詳しくなくても、それが高価な品物だということは私にもわかった。小粒でもイミテーションとは違う輝きに私は激しく胸を揺さぶられ感動していた。  嬉しくて思わず涙が込み上げてきて、そんな私を一輝も嬉しそうに抱き締めてくれたっけ……。  思い出から醒め、スマホを見ると昼間に送ったLINEは既読のまま返事もない。ここ最近は既読がつけばいい方、数日開かれもしないこともあった。 『ごめんね、貰ったネックレスのチェーンが切れちゃった』  私の送った文章にきっと『だからなんだよ』と思っているのかもしれない。今日も既読は付くが返事はない。  どんどんつれなくなる会話。他愛もない会話を送れば返事は『で?』、これだけ。それだって返ってくればいい方だったのかも。返事すらないスマホにため息しか出ない。  会社帰り、切れてしまったプラチナのチェーンを直してもらおうとジュエリーショップに赴いた。若くて綺麗なお姉さんがにこやかに私の小さなダイヤを虫眼鏡みたいなもので見ていた。 「かなり使い込まれていますね。小さなキズがついてしまっています。こうなると輝きも鈍くなってしまうのですよ」  私はハアと適当に答えると、お姉さんは虫眼鏡を横に置いて微笑んだ。 「プレゼントですか?」 「ええ、まぁ……」 「じゃあ手放す訳ではなく直す方向で考えていらっしゃいますか?」  店に入ったときにただ見てほしいと打診したから、お姉さんの言葉には他意はない。それなのに、私には言葉の一つ一つが引っ掛かり妙な悲しみに襲われていた。  このダイヤのネックレスは私たちみたいだ。目には見えない小さなキズが無数に入り輝きを失ってしまった私たち。手放すのか直すのか、私の手に委ねられている。 「あの……ごめんなさい。決めかねていて」  会話にならない二人に修復できる可能性はあるのだろうか。 「全然構いませんよ。折角ですから洗浄機にかけていかれませんか? 新品の時のようにはなりませんが少しだけ曇りがとれると思いますし」  少しだけ曇りがとれて、それでどうなるのだろうか。そもそも直さなければ首から下げることもできないのだ。無意味過ぎる。 「今日は大丈夫です。考えてどうするか決まったらまた来ます」  自分で言っている言葉が小さな刃となって突き刺さるようだった。明日になれば答えは変わるのだろうか。輝きが取り戻せるというのだろうか。  グラスを掴むと、ジュエリーショップでのやりとりを消し去るかの如く氷水を一気に飲み干す。喉から体内に落ちていく冷たさに、全身の鳥肌が止まらない。それでなくても今夜はかなり冷え込んでいる。感覚は鈍くなる一方。肌は寒さを感じて痛み、次第に痛みすら消えて無感覚へと移っていく。 『一輝、もう終わりにしよう。別れるべきだとおもう』  震える指で打ち終えてから送信するまで、一輝とのあれこれが浮かんできて、こんなに冷えきっているのにまだ胸は痛みを感じギリギリと絞られているみたいだった。  ネックレスをくれた日、初めてキスした夕暮れ、喧嘩して早朝の街に飛び出したあの時。泣いたり、照れたり、笑ったり……。好きで溢れていた日々。 『わかった』  なんだ、見てるんじゃん。  直ぐにきた返事に思わず笑ってしまったが、凍えた身体じゃうまく笑えていなかったかもしれない。  見下ろしたスマホ、指が彷徨いやっとのことでブロックボタンを押した。  寝巻きにしているシャツワンピのポケットから壊れたダイヤのネックレスを取り出した。もう直らない、元に戻ることのないネックレス。氷だけになったグラスに落とした。  あの日の二人をこうして氷に落として固めてしまいたい。一輝の真っ直ぐな愛情や、恋しくて仕方なかった私の気持ち。なにもかも凍らせてとっておければいいのに。  持ち上げてみたグラス。確かにダイヤのネックレスがあるのに、それは漆黒の闇に馴染んで黒く染まる。  掲げてみていると、じわじわと滲んでいく景色。  終わっちゃったんだな。  もうあの笑顔は二度と見られない。  後悔している私も凍らせて欲しい。あんなに素っ気なくされて冷えきっていたのに、別れたくないなどとほざく愚かな私も凍らせて欲しい。  何もかも閉じ込めて凍ってくれたらいい。  いつか一輝の事が思い出になったら凍ったグラスの中を眺めてみよう。今とは違う色が見えるに違いないのだから。きっと時が経てば、輝きを取り戻すはずだ。傷だらけであろうともダイヤモンドなのだから。  頬を伝う涙は生温くて、冷え切って無感覚と思われた頬を伝っていった。こんなに肌は冷えているのに体の中は温かいらしい。そう思うと勇気がわいてきた。涙を拭って、空を見上げる。明日から月は再びゆっくりと満ちていく。  私はきっと大丈夫。  もう一度涙を拭って、グラスを片手に部屋に入って行った。グラスはこのまま冷凍庫にしまっておく。いつかちゃんと輝くその日まで。
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