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プロローグ
プロローグ
――ふわりと裾が揺れた。
長い旅を経て、決して人前に出られるようなドレスではなかったが、それでもシャリアスは懸命に美しくあろうとした。
それが唯一の、矜持であった。
シャリアスは玉座に座る男に向かって、深く頭を下げた。
「――皇帝陛下に、ご挨拶申し上げます。シャリアス・テレーズ・ディ・オスハリアと申します」
――この美しい後宮の中で、一生を過ごす。
それがシャリアスに定められた、人生だった。
シャリアスはこの顔も声も知らない一人の男のために、一生を費やさなくてはならなかった。
次にこの男と顔を合わせるのは、果たしていつになるだろうか。これが最後の会話になることも、大いにありえた。
しかし逃げることは、許されなかった。
「――顔を上げろ」
シャリアスは長いまつげをわずかにあげ、前髪の合間から玉座を見上げた。
美しい男だった。
今日からシャリアスは、この男の妻となる。
――無数の女を持つ、この皇帝の妻になるのだ。
***
――母はふしぎな人だった。
横顔は凛として美しく、どんなにやせ細っていても、どこか気品があった。
一体どこから得たのだろうと思うほど膨大な知識を持っていて、なにを聞いても、スラスラと答えを教えてくれた。
「どうして母上は、何でも知っているの?」
「……私は頭がいいわけではないの。たくさんの先人たちが人生をかけて得た知見や知識を、学ばせてもらっただけなの」
母親は、シャリアスによく本を差し出した。
この国では女が学ぶことは罪にも近しいこととされていたが、母はいつも本を開いていた。
「学びなさい」
「あらゆることを学び、覚え、自分のために使いなさい。他人のためにも、使いなさい。そうすればあなたの人生はきっと豊かなものになる」
「私は誰の役にも立てなかったから、せめてあなたは役に立って。誰かの役に立つ喜びを、知ってほしい」
父はそんな母親を、厭わしく思っているようだった。病気になった途端、母を小さな部屋に追いやって、ほとんど顔を見せなかった。
シャリアスは使用人の目を盗み、度々母に会いに行った。
母の部屋は埃と、本、そして病人の匂いがした。
「本は誰かが研究し、学び得たものを、詳細に記してくれている。実際に経験するよりも多くのことが、詰まってるわ。それを学べば、きっと生きる力になる」
「――この世界は、女がひとり生き抜くのが難しい世界だから」
――シャリアスはゆっくりと目を覚ました。
すでに日は明るくなっていて、何羽ものコマドリが木々でさえずっていた。
机の上には燃えたロウソクがどろどろに溶けて、燭台の皿に溜まっている。
どうやら真夜中に書庫に入ったきり、そのまま一夜を明かしてしまったらしい。
(久しぶりに、母上の夢を見たわ……)
(幼すぎて、ほとんど覚えていないけれど…)
シャリアスは目元をこすりながら、ゆっくり椅子から立ち上がった。少し空腹を感じていた。
しかしこの時間では、もう朝食も用意されていないだろう。厨房に顔を出して、余り物のパンでももらうのがいいかもしれない。
シャリアスは厨房に向かおうとして……、すぐに足を止めた。
書庫に出たと同時に、父親の顔があった。
「ごきげんようお父様」
シャリアスは深々と頭を下げて、貴族の娘らしい挨拶に努めた。父親はオスハリア家の当主であり、侯爵の位を持つ生粋の貴族だった。
シャリアスの父親は長い間、シャリアスの美しいブルーグレーの髪の毛を見下ろし続けた。シャリアスの膝は震え始めても、気にする様子はなかった。
そうしていよいよシャリアスが崩れ落ちそうになったころ、父親は口を開いた。
「外で馬車が待っている。乗りなさい」
シャリアスは首を傾げた。
外出の予定など、あっただろうか。ただでさえ父親は、シャリアスの外出を嫌がった。出来の悪い娘を、人前に出したくないのだろう。
「……どこに行けばよろしいのですか?」
すでに父親は、シャリアスに背を向けて歩き出していた。シャリアスの言葉に父親は足を止め、ゆっくりと振り返った。
無表情だった。
「お前に何かを命じる度に、私は説明をしないといけないのか?」
シャリアスの指先が、ぴくりと揺れた。
一瞬シャリアスの顔はゆがみ、しかしすぐに真顔に戻った。そして再び、父親の前で膝を折った。
「……かしこまりました。出かけてまいります」
シャリアスの返事よりも先に、父親は歩き始めていた。
頭を下げたシャリアスだけが、廊下の真ん中に残されていた。
***
シャリアスは着替え、靴を履き、屋敷の外で待っていた馬車に乗り込んだ。
そうしてどこに行くかもわからないまま、馬車に揺られた。なにせ御者も護衛も父親の使用人で、シャリアスが質問しても答えてくれなかったのだ。
驚くべきことに、馬車がたどり着いたのは王宮だった。
広々とした謁見の間で、シャリアスはかしずいた。
「――シャリアス・テレーズ・ディ・オスハリアがご挨拶申し上げます」
目の前に座るのは、この国……パレス公国を収める国王である。
小太りな男で、シャリアスが社交場に出る度に、玉座に呼びつけては隣に座るように命じてきた。シャリアスが社交に出るのを止めてしばらく経つが、未だに招待状は送られてくる。
「いくつになった?」
「17になりました」
シャリアスの美しいブルーグレーの髪の毛を、国王は舐めるように眺めた。シャリアスは母親から、美しい髪と鮮やかな青い目を譲り受けていた。
「相変わらず、本を読んでいるのか?」
「……申し訳ございません。品性を欠く行為だと思っております」
「いいや、私は気にしていない。女どもはうるさいがな」
この国において、女が本を読むことはあまり褒められた行為ではないとされている。
この男は「シャリアスは本を読んでも良い」と社交場で突然公言し、問題を起こした。この男が批判されたわけではない。
シャリアスが、猛烈に非難された。それ以来、シャリアスは社交場には出ないようにしている。
「我が国が、ヴァーシル帝国と講和を結んだことは知っているな」
男は玉座から立ち上がると、ゆっくりとシャリアスに近づいてきた。
シャリアスは少し体をこわばらせたが、まさか国王から逃げるわけにも行かない。
国王の手のひらがシャリアスの肩に乗ったが、シャリアスは顔を伏せたまま、耐えた。
「……はい」
勢い収まらないヴァーシル帝国は、次々と西アーランドの連合軍を打ち砕いた。前線はみるみるうちに押し下げられ、気がつけば我が国近くまで到達していた。
このままでは、我が国も戦場になる。
圧倒的な武力を前に、小国パトラ公国は成すすべもなく降伏した。
講和である限り、国民が虐げられることはない。
既存の支配階級が入れ替わることもなく、代わることと言えば帝国軍が国内に常駐するだけ。
大抵の国民が、この講和を支持していた。万一戦場になれば、その苛烈な帝国軍に、再起不能なほど国を荒らされることを理解していたからだ。
「近々、講和の証として貢品をもたせた使節を贈る」
……しかし帝国からそのような譲歩を引き出すには、我が国がそれなりの姿勢を見せなくてはならなかった。
決して反旗を翻すことはなく、帝国に忠実に従い、西アーランドには徹底的に抗うだと、帝国に信じさせなくてはならなかった。
「そこには当然、女も含まれる。帰順の証として、正統な血筋を持つ娘を皇帝に献上しなければならない」
国王の分厚い手のひらが、シャリアスの髪を撫でた。シャリアスが身をこわばらせると、国王は小さく笑った。
「知っての通り、我が国の貴族はそう多くはない。見目もよく、最低限の教養を備え、身分も年齢もそれなりの娘となれば、さらに絞られる」
シャリアスはひたすら、目を合わせないようにした。
早く国王の話が終わることを願っていた。
「――さてシャリアス」
国王はぐるりとシャリアスの周りを一周し、再び正面まで戻ってきた。そして抱えていた杖で、シャリアスの顎を撫でた。
シャリアスは顔を上げざるを得なかった。
「帝国は、女でも書店に入れるらしい」
シャリアスは、短く息を呑んだ。
「少々惜しいが、まあ侯爵の要望だ。お前の父親が言うのなら認めてやろう」
鮮やかな目を見開いて、目の前の国王を見つめた。
しかし国王はにやにやと笑うだけで、今シャリアスが感じている恐怖や不安、嫌悪と言った感情に寄り添う様子はない。
「……しかし王様、私には……」
シャリアスが喋り出した瞬間、国王はそれを遮った。
「妹がいるだろう? かわいい妹の幸せも、考えるべきではないのか?」
シャリアスは愕然とした。
「一体何を、おっしゃっているのですか……?」
今、なにが起こっているのか少しも理解できなかった。
ただ心臓だけが、バクバクと不安げにシャリアスの胸を鳴らしていた。
「最後に顔を見れてよかったシャリアス」
国王はにやりと笑うと、再びシャリアスの肩を叩いて玉座に戻っていった。
「褒美を取って屋敷に戻れ。元婚約者と、最後の別れでもするといい」
***
父親に向かって声を荒げたのは、初めてのことだった。シャリアスは父親につかみかかる勢いで詰め寄った。
「最初から決めてらしたんですね!? ローリー様と婚約を決めたときから、こうするつもりだったんでしょう!?」
「……触れるな」
が、シャリアスがつかんだ腕はまたたく間に振り払われた。シャリアスはよろめき、尻餅をついたが手助けしてくれるものはいなかった。
「お前は私の子供ではないのだから、外に出すのは当たり前のことだろう?」
シャリアスの青い目が、はっと見開かれた。
「このまま結婚すれば、お前の夫は私の爵位を継ぎ、お前は侯爵家の妻になる。なぜ血も引いていないお前に、私の財産を渡さなくてはいけないんだ?」
父親……、いやもはや父親ではないのかもしれないが、とにかくシャリアスが今まで父親と呼んできた男は、恐ろしいほど淡々とした顔で、残酷な言葉を口にしていた。
「ですが私は、母上の……、子供で……」
「あの女は拾った後すぐに子供を産んだ。お前が私の子供である保証はない。お前は母親に似るばかりで、侯爵家の誰にも似ないしな」
呆然と父親を見上げていると、一人の使用人が部屋に入ってきた。
「旦那様、ローリー様がいらっしゃっています」
「通せ」
彼らの会話を聞いた瞬間、シャリアスは立ち上がった。使用人を押しのけて部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。
「ローリー様!!!」
そうして屋敷についたばかりの男に飛びついた。
「シャリアス、走っては危ないよ」
半年前に婚約が決まってから、それなりに上手くやってきた。
伯爵家の一人息子のローリーは優しく穏やかで、恋するとまでは行かなかったが、それなりに尊敬しあっていた。
なによりシャリアスが本を読んでいても、ローリーは顔をしかめなかった。
「ローリー様、私……、わたし……!」
シャリアスは、ぽろぽろと涙をこぼした。
ローリーは少し悲しげに、シャリアスを見下ろした。
「……とても残念だよ」
その言葉に、びくりとシャリアスの指が震えた。
「シャリアスとは仲良くできると思っていた。君は頭が良くて、人に優しいからね」
ローリーは自分の腕をつかむシャリアスの手をそっと外した。そして、一歩後ろに離れた。
「ごめん」
シャリアスはローリーに向かって手を伸ばしたまま、固まってしまった。なにが起こっているのか、よくわからなかった。
「僕には、力も権力もない。伯爵家という爵位しか持ってないんだ」
「君の家との婚姻は、僕にとっての責務だ。でなければ、僕の屋敷中の人間が飢えることになる」
――たった数分でも、抱きしめてくれたら良かったのに。
そうすれば、見知らぬ異国へ向かう勇気が湧いたのに。
貴族の責務として婚約者との別れを告げ、「自分がこの国を守るのだ」と、誇りを持って馬車に乗り込めたのに。
「……すまない」
そんな目で、私を見ないでほしい。
哀れな女を見るような目で、見ないでほしい。
***
「シャリアスはどうした?」
「ローリー様とお会いしたあと、お部屋で過ごされております。……かなり取り乱されているかと」
「決して外に出すな。逃さないように常に監視しろ」
――そんな会話がドア越しに聞こえてきたが、もうシャリアスには傷つく心は残っていなかった。
ただひたすらに泣き続け、次第に涙する体力もなくなって、ベッドに横たわっていた。
窓から見える真っ黒な空を、ぼんやり見上げているシャリアスに、そっと食べ物が差し出された。
「……まだ私に優しくしてくれるのね」
シャリアスに食べ物を差し出したのは、シャリアスの世話を担当するメイドだった。
今日のオスハリア家当主とシャリアスの会話はすでに屋敷中を駆け回っていて、使用人の態度はもはや口にできるものではなかった。
シャリアスは、この家の娘ではなかったのだ。
「……シャリアス様が、わたしにお優しかったからです。どうか遠い地でも、お元気でお過ごしください」
メイドは深々と頭を下げると、シャリアスの部屋から出ていった。
シャリアスは泣きはらした目で、ぼうっとテーブルの上のパンを眺めた。ドライフルーツとナッツを混ぜた、固く乾いたパンだった。
シャリアスは涙を拭い、ゆっくりと体を起こした。
「……返って、いいかもしれないわ」
うすうすと感づいていたが、はっきりわかってよかった。
元々、この国はひどく居心地が悪かった。
父親とは折り合いが悪く、国王には何度もけしかけられていて、友人からも遠巻きにされていた。
すでにシャリアスが帝国に献呈されることは、国内に知れ渡っている。
ならばもう、あがいても意味がない。
(……女が学んでも良い国なんて、素敵じゃない)
(この国で耐えながら生きるより、一からやり直したほうがきっと楽しいことが多いわ)
「がんばろう……」
シャリアスの手は震えていた。
前向きになれる理由を考えることで、自分を励ましていた。
「帝国に行って、やりなおそう」
シャリアスは窓を見上げた。
この国で最後に見る、夜空だった。
***
――こうして、シャリアスは多くの貢物とともに帝国行きの馬車に乗り込んだ。
非常に長い旅で、道中同じように貢物になった他国の令嬢たちも合流し、ひたすら馬車に揺られ続けた。
多くの人が気が沈んだ様子でふさぎ込んでいたが、シャリアスだけが気丈にも顔を上げていた。
延々とも思えるような時間、馬車を走らせ続け……、ようやく帝国の首都は姿を表した。
「――すごい」
シャリアスは驚いた。
理路整然と整備された、狂いのない町並み。広大な土地と、無数の人。その中央にそびえるのは、この大陸で最も著名な皇帝の住まい……、宮殿であった。
ヴァーシル帝国を語ったどんな文献よりも、実際の都は美しく、活力にあふれ、洗練されていた。
――この新しく美しい世界で、自分は生きていくのだと思った。
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