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第一章 シャリアスの入宮
第一章 シャリアスの入宮
「――シャリアス・テレーズ・ディ・オスハリアと申します」
かしずいたたくさんの女達と、その中央に座した男。美しい妃たちが彼を取り囲み、新たにやってきた女達に視線を注いでいた。
彼女らはひとりひとり宮殿の主に挨拶し、この美しい後宮に住まう許しを得なくてはいけなかった。
しかしいつまで待っても、皇帝の許しの声は聞こえてこなかった。
本来なら形式的に皇帝がうなずいて、新たにやってきた女達の入宮を許可するだけのはずだ。
にもかかわらず、皇帝は伏せたシャリアスの頭を見下ろし続け、なにも言わない。シャリアスの足が、スカートの下で震え始めていた。
「……陛下」
そばに控えた側近が、そっと皇帝に声をかける。
「もう一度名前を言え」
「シャリアス・テレーズ・ディ・オスハリアと申します」
再び広間がしんと静まり返った。
シャリアスはひたすら頭を下げ続け、無数の視線に耐えた。
「テレーズは叔母上の名前だ。またこの国においてヘロットがディを冠することは許されない」
すると女達を管理していた文官が、ハッとしたように顔を上げた。どうやら手違いがあったらしい。
シャリアスは表情を変えず、改めて深くかしずいた。
「はい。シャリアス・オスハリアと申します」
つまり自らの名前を、「オスハリア家がテレーズの娘、シャリアス」という名前から、ただの「シャリアス・オスハリア」に改めた。
名簿を持っていた秘書官が、サラサラとシャリアスの名前を書き換えた。
結果皇帝は頷き、シャリアスはずらりと並んだ女達の列に戻ることが許された。
(び、びっくりした……)
列に戻るなり、シャリアスはほっと胸をなでおろした。
(珍しいわね、陛下が直接声をかけるなんて……)
(心臓に悪いわ……)
話しかけてきたのは、ヴィネットという女性だ。
長かった帝国行きの道中で知り合いになった女性である。出身の国は違うが、シャリアスと同じように帰順の証として、帝国に送り込まれた。
二人が会話を交わしている間にも、粛々と儀式は進んでいく。
後宮の女官長と皇妃たちが名簿を確認し、皇帝に差し出し、それぞれの許諾を示す調印が施された。
「――以上、54名がこの度入宮いたします」
「許す」
こうしてシャリアスは、後宮に入ることとなった。
***
儀式が終わると、一斉に散会となった。
女達が各々の場所へ散らばっていく様子を眺めていると、ヴィネットが手招いた。
「私達はヘロットだからこっちよ」
ヴィネットの手をつかみ、指示を仰ぐため女官長の元へと共に移動していく。
――ヘロットとは、外国人奴隷を意味する言葉である。
帰順を示すため国々が皇帝へ送った女達を、帝国ではそのように呼んだ。皇妃が妻ならば、ヘロットメイドは家財であり、皇帝の私物である。
後宮は皇妃たちの住まいであり、その全てが皇帝と皇妃を中心に回っているが、彼らを世話するのはメイドたちだ。
多くのメイドは帝国貴族出身で、彼らは美しく教養深い。
一般のメイドたちよりも、より卑しい仕事を行う労働力として存在するのがヘロットだった。ヘロットには男も女もいたが、後宮で働けるのは他国から貢物として送られてきたヘロットメイドだけだ。
ヘロットは宮廷の様々な場所で、非常に使い勝手のいい労働力として使用されていた。
同じような外国人メイドに、メイトコイメイドというものもあったが、在留外国人として帝国に暮らしている外国人貴族の娘たちをそのように呼び、ヘロットメイドとは明確に差があった。
つまりヘロットメイドとは、広い宮廷ならびに後宮の中でも、最下層の使用人であった。
強い力を持つ国や、帝国に重要視されている国の娘たちは、同じように帰順の証として送られても、メイトコイメイドと扱われたり、皇妃として迎えられることもあったが、シャリアスの母国であるパトラ公国は弱小国家と言ってよかったために、ヘロットメイドとして引き取られることとなった。
「はぁ…」
シャリアスはため息を付いて、ゆっくりベッドに腰を下ろした。そうしてぐるりと見回すのは、メイド長に割り当てられた自室である。
(四人部屋だけど、想像よりもずっときれいね……)
ベッドに本棚、そして四人用のテーブル。
テーブルにはパンが置かれており、ポットの中にはスープが入っているようだった。
(想像よりも、ずっと暮らしぶりは良さそうだわ)
埃のついていないチェストを眺めていると、隣で荷解きしていた少女と目があった。
茶色っぽい髪を三つ編みにした、人当たりの良さそうな笑顔と緑の目が特徴的な少女だった。
「こんにちは。ヘートランドからきたミアよ」
にっこりとほほえまれて、シャリアスも笑顔で返した。
「こちらこそ。私は」「シャリアスでしょ? あたし、陛下とのやり取りを聞いてたもの」
シャリアスが名乗ろうとすると、別のベッドで荷解きをしていた黒髪の少女が口を出した。彼女はローラと名乗り、シャリアスに向かって軽くドレスを広げた。
「あっ、陛下の前で改名した子ねっ! わたしすごくびっくりしちゃった。陛下が直接声をかけるなんて初めて事だったから」
ミアは大きな目を丸くして、シャリアスをまっすぐ見つめた。
「わたしだったら、絶対頭が真っ白になってたわ。なのに声をかけられた子がすごく落ち着いてて、それにもびっくりしちゃったの」
「運が良かったわ。本来なら不敬だと言われて罰せられていたかも……」
するとポットから皿へ、スープを注いでいたヴィネットが顔を上げた。
「担当の文官がいけないのよ。皇族の恩名なんて私達は知らないから、気が付きようがないもの。私だって帝国の公爵家と同じ名前だったから、改名するように言われたもの。あとで文官に文句を言っておくといいわよ」
「……まあ、もう終わったことだし」
シャリアスの返事に、ヴィネットは顔をしかめた。そうして持っていたポットを、どんっとテーブルに置いた。
「今からそんなへりくだった態度を取っていたら、メイドたちに馬鹿にされるわよ! ただでさえ扱いが悪いんだから、強気で行かなきゃ!」
「わ、わかったわ……」
シャリアスは苦笑いしながら、ヴィネットをなだめる。
彼女は率直な物言いをする女性で、受け見がちなシャリアスになんでも発破をかけてくれた。
旅の中、休ませてくれない帝国軍の兵士に文句を言ったり、もっと食べ物を分けてほしいと交渉したり……、彼女に何度助けられたかわからない。
シャリアスの困った笑顔と、ヴィネットの不満げな顔。ミアとローラは交互に二人を見つめた。
「……ごめんなさい。今なんて言ったの? 二人は帝国語ができるのね?」
この国の公用語は、無論帝国語である。ヘロットメイドは、外国から集められた娘たちだ。当然、まだ帝国語がおぼつかない者もいた。
「えっと、私を励ましてくれたの。私は悪くないから、謝る必要はないって」
ミアは目を丸くした。
シャリアスが今、ミアの出身地域である、ヘートランドで使われている言葉を喋ったからである。
「あなたギリーク語喋れるの!?」
「少しだけね。本当に少しだけ」
「もしわからないことがあったら、これからも教えてくれる?」
「ええ、もちろん」
「ありがとう!!」
よっぽど嬉しかったのか、ミアはシャリアスの両手を強くつかんだ。まさか遠い異国で、母国の言葉が聞けるとは思わなかったのだろう。
パトラ公国は、本が少ない。公国語で翻訳された本はなおさら数が少なく、教養や知識を得るには、周辺国家の言語の習得が必須だった。
シャリアスは時折彼女らの会話を通訳しながら、後宮での初めての夕食を楽しんだ。パンとスープという決して豪華な食事ではなかったが、久々に建物の中でとる食事はおいしかった。
彼女らは、思い思いの言葉をかわした。
「これから、どんなことをするのかしら」
「きっとたくさんの雑用を任されるのよ。私、皿洗いをしたことないのだけど、水が冷たくて大変なんでしょ?」
「メイド長はそのうち慣れると言っていたけど……。やっぱりどう考えたって、ちゃんとできるか不安よね」
「……皇帝陛下に見初められたら、私も側室になれるのかしら」
「ヘロットメイドなんて、陛下は相手にもしないわよ」
「それに皇妃は皇妃でも、ヘロット出身の皇妃なんて位さえ頂けないんじゃない? 一番下の側室が精々よ」
そうして夜も更けたころ、四人はそれぞれのベッドに潜り込んだ。明日からは貴族の娘ではなくヘロットメイドとして、働かなくてはいけなかった。
(よかった。みんないい子たちだわ……)
シャリアスは枕に顔を埋めながら、ほっと息を吐いた。侯爵家のベッドよりは狭く硬かったが、それでも一人一つのベッドだ。清潔だし、手足は十分に伸ばすことができる。
(思ったよりも、うまくやっていけそう……)
実質勘当されているシャリアスだが、一応パトラ公国では侯爵令嬢だ。
国の代表として、後宮にやってきている。ゆえにシャリアスは、決して後宮で問題を起こしてはならなかったし、勝手に母国に戻ることも許されていなかった。
(どんな人でも、人生を思い通りに生きていける人なんていないわ)
(大丈夫。みんな優しいもの。ちゃんと生きていける……)
シャリアスは自分を励ますと、ゆっくりと両目を閉じた。
***
――それからしばらく。
晴れ晴れとした空だった。
たくさんのムクドリが、生い茂った木々の中で、ぴちぴちとさえずっていた。
「ふーー……」
シャリアスは額の汗を、手の甲で拭った。
足元に置いているのはカゴで、手に握っているのはシッケルだ。
「あ、薬草……」
(これは毒があるし、これは食べられるし……)
シャリアスはせっせと地面を掘り起こし、雑草の中から使えるものとそうでないものを取り分けていく。
(天下の帝国後宮と言えども、結構野放しなのね……。使用人の数が少ないからだろうけど)
「このあたりの掃除をしろ」とメイド長に命じられてから三日……。刈れども刈れども、雑草が見えなくなる気配はない。
というのも皇帝が即位する際に、大規模な人事の改革が行われたからだ。
まだ即位して間もないため、人の補充が終わっていない部門が山ほどあり、ヘロットメイドが携わるような末端の部署はなおのこと人手不足だった。
(まさかお屋敷でやらされていたことが、こんな役立つなんて……)
シャリアスは侯爵令嬢だったが、その暮らしは決して豊かなものではなかった。時に自分で着替え、時に自分で料理した。
他の貴族令嬢よりは、家事の経験がある。貴族としてはとても他人には話せない、恥じるべき経験だが、まさかこんなところで役に立つ日が来るとは思わなかった。
シャリアスたちは、洗い場に配属されていた。食器や衣類を洗ったり、建物の掃除といったような雑事が担当である。
後宮の中でも特に力が必要な仕事であり、部門ごとの扱いとしては一番下だ。洗い場のメイド長以外は、全員ヘロットメイドだった。
シャリアスは手元のシッケルを見下ろした。
切れ味がよく、小ぶりでシャリアスの小さな手でも、使い勝手が良かった。
(……でもまあ、思ったよりは楽よね)
(私の国よりかなり技術が進んでるもの。洗濯物だって、石鹸を使えるから汚れもきれいに落ちるし……)
母国では、草を潰して塊にしただけの石鹸とも言えないような石鹸を使っていた。
それもかなり高価な上、汚れも落ちにくかったから、何度も洗わなくてはいけなかった。
しかし帝国の石鹸は精製技術が高いのか、かなり洗剤の純度が高い。埃が簡単に落ちるので、シャリアスからすれば洗濯も楽に感じた。
(みんな親切だし、夜になったらベッドで眠れるし……)
なによりも、毎日食事が出る。
当初こそ使用人という慣れない立場に不安を覚えていたシャリアスだったが、徐々に後宮の生活に慣れ始めていた。
うまくいきそうなメイド生活に安堵しながら、シャリアスは草むしりを続けた。
――その時だった。
「シャリアス!!!」
どたばたと、少女が音を立てて走ってきた。左右の三つ編みが揺れていて、シャリアスはすぐにミアだと気がついた。
「ミア……? その手……っ!」
そして目を見開いた。
彼女の右手が、真っ赤に腫れていたからだ。
しかしミアは、自分の手になどかまっていられないようだった。ひどく焦った顔で、シャリアスの手をつかんだ。
「ねえシャリアス! 普通の服は、煮洗いしたらシミが取れるって言ったわよね!?」
「え、ええ」
ミアは大声を上げた。
「大変なことになっちゃったの!!!」
***
「――これで大丈夫だと思うわ」
シャリアスは包帯の巻かれたミアの手を、軽く撫でた。草むしりをしていたおかげで、ちょうど手元に薬草があったのが幸いだった。
「こっちのほうは、どうにかしないといけないけど……」
「ごめんなさい……」
シャリアスが視線を落とすのは、床に落ちた衣類と大量の割れた土釜だった。
「わたし、この間も部屋の燭台を壊したでしょう? わたしが触るとどんなものでもすぐ壊れちゃうのよ。実家でもそうだったの……」
ミアの申し訳なさそうな顔に、シャリアスは笑った。
「ふふ。まるで、パウリ効果みたいね」
「……?」
ミアが怪訝な顔をしていると、物陰から数人の男たちが現れた。
「――著名な学者のお話ですよ。彼がよく実験道具を壊したことから、パウリ効果と呼ばれるようになったんです」
その先頭を歩く人物に、シャリアスは目を見開いた。
長い黒髪に、黒い目。
後宮で初めて挨拶したあの日、玉座の後ろで皇帝に話しかけていた彼の姿を、覚えていない者はいない。
――アレン・ジークハルド。
彼の姓名すべてを知っているわけではないが、通名ではそのように知られている。
この後宮に住まう者の中で、最も高貴な人物の一人であり、現皇帝の唯一の、寵臣である。
テラポーンとは、皇帝の側近でもより親しく、より信頼を置くものに与えられる称号であった。その地位や身分に関係なく、皇帝の私室を出入りすることが許され、昼夜問わず皇帝と顔を合わせることができた。
つまり、皇帝の意思決定に関わるという観点に置いては、宰相や大臣以上に影響のある人物である。
(自らおでましになるなんて……!)
洗い場にいた使用人たちが、一斉に頭を下げる。当然シャリアスも頭を下げて、深々とひざまずいた。
「丁度通りかかったので、様子を見に来ました。事故があったようですが、みんな無事ですね?」
アレンはぐるりと洗い場を見回し、シャリアスの前で足を止めた。
「物理学がお好きなのですか?」
周囲の使用人から、一斉に視線が注がれるのを感じた。
「いえ、そこまで詳しいわけでは……。ただの雑談に過ぎず……っ」
シャリアスは慌てて首を振った。
「……今年は博識な方が入られたようですね」
幸いなことにアレンはにこりと微笑むと、すぐにシャリアスから離れていった。
ほっとため息を付いて、隣でかしずいたミアの手を握った。当事者であるミアは突然の寵臣の来訪に、ふるえていた。
「とはいえどうしましょうか。私から皇妃方に報告してもいいですが……」
アレンが見下ろすのは、地面に落ちたドレスである。
それは美しい赤色のドレスだったが、土釜の破片で破れていた上に、まだら模様に変色していた。
元々このドレスは、皇妃から依頼を受けたものだった。皇妃の侍女が着ているドレスで、飼い猫がこぼしてしまったワインのしみ抜きを、依頼されたのだ。
「ほ、報告したら、だ、だめです……っ!」
顔を上げて叫んだミアに、アレンが視線を送る。ミアは一瞬たじろいだが、そのまま言葉を続けた。
「“このドレスはシルクで作られているから、煮洗いしてはいけない”ってシャリアスから言われてたんです。それをわたしが間違えて窯に入れてしまって……。慌ててお水を入れて取り出そうとしたら、窯が割れて……」
(なるほど。急激な温度変化に耐えられずに、窯が割れたのね……)
洗い場で使用していた土釜は、粘土質の土をこねて焼いただけの代物だったから、丈夫とは言い難い。急激に冷水を注ぎ込まれたのだとしたら、一気に割れてしまうだろう。
「なのでもし皇妃様にご報告されたら、わたしのミスが知られてしまいます。ヘロットだから、どんな罪になるかわからなくて……」
ミアの弁解はどんどん声が小さくなり、そのうち聞こえなくなった。
うつむいて喋らなくなったミアを、アレンがじっと見下ろす。幸いなことに、表情は穏やかだった。
「……ではこうしましょう。私がお妃方にご報告し、三日ほど時間を稼ぎます。事故で業務が滞っていることにすれば、嘘ではありませんからね」
アレンは宮廷の書記官長であり、使用人たちを管理する立場にあったが、優しく、話を聞いてくれる使用人の長として有名だった。
どうやらその噂は、間違いではなかったらしい。
「その間に、衣装を直すのはどうでしょうか」
「あ、ありがとうございます……!」
泣きそうな目でミアが頭を下げると、アレンは注意をうながすように人差し指を突き出した。
「いいですか、三日ですよ。三日の間に破れ、色が斑になってしまったドレスを直してください。以前のものよりもずっと美しく、傷は決して残してはいけません」
「はい! がんばりますっ……!」
ミアは何度も頭を下げて、泣きそうになりながら礼を述べた。
その後、アレンは怪我人を確認し、引き連れてきた兵士たちに手当させると、この場を去っていった。
頭を下げてこの国一番の寵臣を見送ったシャリアスたちは、その男の背中が見えなくなると一斉に顔を上げた。
「ミア! あなたのミスなのに、みんなを巻き込むなんてひどいわ!!!」
ローラが大声で、ミアを責め立てた。
今日起こったことを正直に報告していれば、ミアひとりが罰を受けるだけで済むが、この三日間でうまくドレスを修復できなければ、洗い場全体の責任になると言いたいのだろう。
「ううん。軽率に煮洗いを提案した私の責任でもあるわ。煮洗いはコツがいるし、洗える生地も限られる。……それなのにミアから目をはなしてしまったもの」
シャリアスはミアを立ち上がらせた。
「私の責任でもあるから、私もやるわ」
「ありがとう……」
「幸いにもアレン様のご協力が得られたわ。一緒に考えれば、どうにかきれいにドレスを直せるはずよ」
シャリアスは唇に手を当てて、破れたドレスを見下ろした。
(破れた箇所は、刺繍で直すのが定石だけど。でもこっちは……)
まだら模様になってしまったスカート部分にそっと触れる。
「シルクが熱で変色しているから、もうしみ抜きどころの話ではないわね……」
これはもう洗濯して、直せるようなものではない。
シャリアスは、しばらく黙り込んだ。
洗い場にいた全員が、この困難の解決方法を考えたが、だれも声を上げるものはいなかった。
そのうち、シャリアスが顔をあげた。
「……ちょっと私、仕事の続きをしてきていいかしら」
「は?」
「雑草のお掃除を放り出してきちゃったの」
「シャリアス? 今はそれどころじゃ……」
ヴィネットたちが首を傾げている間に、シャリアスはすたすたと元の仕事場に戻っていった。
つまり雑草が山程生えた、後宮裏手の空き地である。
「ちょ、ちょっとっ……!」
ミアは焦って、シャリアスを追いかけた。
しかしシャリアスは足を止めない。
鬱蒼と生い茂った草木をかき分けながら、どんどん奥へと入っていく。
「……数は足りそうだし、水もあるし……。あとは農場に顔を出せば……。さすがに高価だけど、買い取れなくはないと思うし……」
「シャ、シャリアス……? 助けてくれるんじゃないの?」
そう、確か本に書いてあったはずだ。
やってみたことはないが、理屈はわかっているので多分うまくいくと思う。
シャリアスはくるりと振り返った。
そうして、ミアに笑いかけた。
「ごめんなさい。今から私の仕事を手伝ってもらえる?」
「え? でも、シャリアスの仕事って……」
シャリアスはにこりと笑って、自分の真下に手のひらを向けた。
「――そう。草むしり」
その足元には、もはや雑草と言っていいのかもわからないほどの雑草が、山のように生い茂っていた。
***
――それから、洗い場は一気ににぎやかになった。
最初はミアだけの責任だと言って渋っていた洗い場だったが、シャリアスの説得によって、徐々に手伝ってくれるようになった。
「破れたところはどうするの?」
「刺繍したいのだけど……。誰か刺繍できる人はいる?」
「少しならできるけど、こんな大きな傷は直したことないわ」
「あて布をすれば、ある程度は隠せると思うの。目立つところだけ刺繍で直してしまえば、そういうデザインにみえるだろうし……」
「ミア、まだ熱いってば!!」
他の部署でも噂になるくらいの騒ぎようで、しかし一体なにをしているのか、様子を見ても誰もわからない。
そんな大騒ぎの部署に、服飾部のメイドたちが入ってきた。
洗い場のメイドは慌てて、彼らに頭を下げた。
「な、なにか御用でしょうか……?」
というのも、服飾部というのは数ある部署の中でも、一線を画する場所だからだ。
貴著な生地で作られたドレスや、高価な装飾品を扱うため、それなりに身分高い令嬢しか働けない様になっていいる。
外国人奴隷で構成された洗い場の者たちとは、同じメイドでも全く身分が違うのである。
服飾部のメイドたちは、頭を下げた洗い場のメイドに返事をしなかった。
代わりに自分たちが持ってきた衣類を、どさどさとそのメイドの足元に置いた。
「三日後までに洗って」
「わ、わかりました……」
洗い場のメイドは怯えたように頭を下げると、両手いっぱいに服を抱えて去っていった。
「なにがあったの?」
服飾部のうちの一人のメイドが、隣を歩いていたメイドに聞いた。
「ヘロットメイドが問題を起こしたそうなんです。皇妃の侍女のドレスを汚してしまったのだとか……。無事に直しさえすれば、お許しになるとアレン様がおっしゃったらしく」
「ふうん……」
メイドは目を細め、顎に手を当てた。
このメイドは、侯爵家令嬢のサラである。名家出身で、服飾部の中でも特に家柄が良く、後宮の中ではほとんど皇妃に準じるような生活を贈っていた。
後ろのメイドもまた服飾部のメイドだったが、サラの従姉妹にあたる人間で、侯爵家から実質的にサラに仕える侍女として、後宮に送り込まれた人間だった。
サラの視線の先には大きな釜があった。
ドレス生地がぐつぐつと煮込まれている。周囲には雑草と灰のようなものが散乱していて、とても洗い場には見えない。
「ひどい色に、ひどい匂いですね……。ドレスに匂いが移りそう」
後ろにいる服飾部のメイドたちは、思わずハンカチで鼻を覆った。
「大方、汚したところを染め直して色をごまかそうって魂胆なんでしょうけど、草木染めでは、きれいな色は出ないでしょうね」
「いくら染料がないからって、雑草を使うだなんて……」
「色の定着が悪いし酸化も早いから、赤は赤でも、黒っぽい色にしかならないわよ」
ドレスに使用するシルク生地は、ほとんどがオスマル国からの輸入品だ。鮮やかな色味を出すのは難しく、国内で加工した話はまず聞かない。
シルクを草で染めるなど、聞いたこともなかった。
サラはため息を吐いた。
「ヘロットも大変ね。失敗するのがわかっていても、やらなきゃいけないんだから……」
手を止めた瞬間、厳しい罰が待っている。
後ろ盾がある帝国貴族の娘たちにとって、後宮は職場というよりは社交や結婚相手探しの場という意味合いが強い。
後宮で働きながら、数々の名家の子息たちとの出会いを楽しむのだ。
しかしヘロットにとって、後宮は死を待つだけの場所。単なる労働力として働かされ、給金さえ出ない。
なにか失敗をすれば、命さえ簡単に奪われてしまう。
「かわいそうね」
サラは肩をすくめて同情すると、踵を返して洗い場から出ていった。
***
――三日後。
しかしサラの予想は、大きく外れた。
無理やり三日で洗わせたドレスを取りに行ったとき、なぜか洗い場のメイドたちは喜びの声を上げていた。
サラの前を通り過ぎるのは、皇妃付きのメイドである。彼女たちは誇らしげに手元のトレイを抱え、洗い場を出た。
そのトレイには、見事な赤色に染め上げられたドレスが乗せられていた。目が覚めるような鮮やかな赤と、きらびやかな刺繍。
これ以上なく美しい品であることは、明らかだった。
「よかった〜〜〜!! 間に合った〜〜!!」
洗い場の中央、抱きしめあっているヘロットメイドが四人いた。
「シャリアスがいなかったらどうなってたことか……!」
「そんなことないわよ。ヴィネットが刺繍で上手く破れたところを直してくれたから……!」
「それでもシャリアスもすごかったわ。やり方を思いついて実行してくれたのはあなただもの……っ!!!」
人目もはばからず、みっともなく大声を出して喜び合っている。
眠っていないのか髪の毛も乱れていたし、染料で服もきたない色になっていた。しかしそれらを気にする様子もなく、彼女たちは抱き合っていた。
サラは思わず、顔をしかめた。
「でもどうやって、色を定着させたの?」
「草木染めなのは私にもわかったけど、あんなにきれいな色の染まり方ははじめて見たわ。草木染めって、洗うとすごい色が落ちない……?」
「それは……、少し面倒なやり方なんだけど……」
すると不意に、洗い場のメイドがサラになにかを差し出した。
三日前に頼んだ、自分のドレスだった。
「こ、こちらになります……」
「ほんと、洗い場って汚いわ。少しは掃除しなさいよ」
サラは奪うようにドレスを受け取ると、早足で洗い場から去っていった。
***
「シャリアス、ありがとう。あなたのおかげで、罰を受けずに済みそうだわ」
「ううん。私だけの力じゃないわ。みんなが協力してくれたおかげよ」
シャリアスは、ミアに何度も何度もお礼を言われていた。
ドレスは無事に出来上がり、皇妃付きのメイドたちの表情を見た限りでは、おそらく満足してもらえただろう。
「今日はみんなで美味しいものを食べましょうよ。本当に無事に終わってよかったわ」
「うん」
そうしてミアたちと喜び合っていると、不意に名前を呼ばれた。
「――シャリアスさん、こちらに来て頂けますか?」
聞き慣れない声にシャリアスは顔を上げ……、そして目を見開いた。
長い黒髪が見えた。
書記官長である。
付添もなく、一人で物陰に立っていたため、喜びに沸き立つ洗い場は誰も気づいていなかった。
「は、はいっ……!」
シャリアスは慌てて立ち上がり、アレンの元へ駆け寄った。
そうして地面に膝をつき、かしずいた。
そこでシャリアスは気づいた。
アレンの足元で、赤い生地が揺れていた。なぜかアレンは、赤いドレスを手に携えていた。
「万一のために、代わりになるドレスを持ってきたんですが、不要だったみたいですね」
「……えっ!?」
まさか書記官長直々に、手を回してくれているとは思わず、シャリアスは大きな声で驚いてしまった。
しかしすぐに我に返り、慌てて頭を下げ直した。
「あ、ありがとうございます……!」
「いえ、同じビブリオフィリアとして、これは助けなければと思いまして」
「ビ……?」
「愛書家のことですよ」
シャリアスは再び、顔を上げてしまった。にこにこと微笑んでいるアレンがいて、慌てて顔をそらした。
「……それで、染めには、植物を使ったんですか?」
「は、はい……。庭掃除をしているときに、染料で使われるツタ植物を見つけました。それで、ドレスを染め直せないかと思いまして……」
「なるほど」
シャリアスの心臓は、ばくばくと跳ねていた。
高貴な人間が着るドレスに卑しい雑草を使ったと思われれば、罰せられるかもしれないからだ。
しかしシャリアスが使った染料は、昔から使われていたものだ。
扱いが難しく、帝国では他の染料に取って代わられているが、他国では高級染料として使っているところもある。
使い方さえ正しければ鮮やかな色味になるし、匂いだって他の植物と混ぜれば軽減できる。
(い、言い訳したほうがいいかな……)
しかしアレンはにこにこと微笑むだけで、何を考えているのかわからない。
シャリアスがどきどきしながらうつむいていると、アレンはにこやかに口を開いた。
「――ところでパトラ公国では、科学分野の書物は禁書ではありませんか?」
縮こまった細い体が、ぴたりと固まった。
「パウリ効果なんて、よくご存知ですね?」
「……」
シャリアスは、ますます黙り込んだ。
父親の目を盗み、母の書物を読み漁っていた。
「公国では、あまり異国の書籍を読めるイメージはないのですが。……それに女人の読書も禁じられていますよね?」
「その……、えっと……」
その上、外国人用の教会にも出入りして、珍しい書物に目を通していた。外国人用の教会では、男女関わらず、本を読めたからである。
シャリアスが周辺国家の言語に通じているのはそのせいだ。外国語がわからなければ、まず勉強ができない。
パトラ公国では、家庭教師は男につけるもので、女は教養を身につけてはいけないとされていた。
うろたえるシャリアスに、アレンは笑った。
「いえすみません。なにも責めようなんてつもりはないんです。どのように知識を身につけられたのか、気になっただけで」
シャリアスの視線が泳ぐ。
正直に答えるか。それともごまかすか。
しかし適当なことを言って、書記官長を騙したと思われれば、それこそ大罪である。
「その…………、母親が読書好きで……。家に色々と書物がありまして……」
「なるほど」
アレンは相変わらず、笑顔だった。
(な、なにを考えているのかわからない……っ)
一応シャリアスも貴族出身。
回りくどい宮廷貴族たちの言葉や振る舞いは知っていたが、ここまで読めない人はいなかった。
「そ、そろそろ失礼いたします……」
あまり長話をして、書記官長と話しているところを他の人間に見られても困る。シャリアスは自分から退席を言い出すことにした。
「あ、最後にひとつだけ」
が、アレンに呼び止められてしまった。
「媒染剤はなにを使ったんですか?」
「……石灰とミョウバンを。農場で融通してもらいまして」
終始笑顔だったアレンがその時ばかりは、すっと目を細めた。
しかしシャリアスは頭を下げていたので、彼の表情には気が付かなかった。
「……なるほど。もう行っていいですよ」
「はい。失礼致します」
シャリアスは深々と頭を下げると、急ぎ足で洗い場に戻った。
(び、びっくりした。罰せられるかと思った……)
心臓が、バクバクしている。
ヘロットメイドにも分け隔てなく接してくれる方だとは聞いていたが、まさか直接話しかけられるとは思わなかった。
しかも名前まで覚えられていた。
(なにもなければいいけど……)
シャリアスは跳ねる胸をおさえながら、仕事に戻った。
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