第一章 シャリアスの入宮 2

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第一章 シャリアスの入宮 2

――数日後。 シャリアスは、目を見開いて固まっていた。 メイド長が抱えたものを見つめながら、一歩も動けずにいた。洗い場で働いていた者たちも一斉に手を止めて、メイド長の手元に視線を注いでいた。 「――シャリアス」 声をかけられて、びくっと体を揺らした。 「こちらにいらっしゃい」 呼びつけられるまま、そそくさとメイド長の前まで移動した。洗い場のみんなの視線が、背中に突き刺さるのがわかった。 メイド長が抱えているのは、金貨に宝石。髪留めや腕輪。そして高級な布地。 つまり、金銀財宝だった。 「皇妃様から褒美が届いています。染め直された侍女様のドレスが、お気に召されたようです」 元々あのドレスは皇妃が着ていたものを、侍女に下げ渡したものだったが、母国のドレスという思い出の品だったという。 侍女自身も皇妃の異母妹であり、かなりかわいがっていたようで、この褒賞につながったのだと、メイド長から説明された。 「そんな……。元々大変なご迷惑をおかけしておりますから、とても受け取れません」 シャリアスは頭を下げた。 この事件のことは、すでにアレンから皇妃へと報告がなされている。とはいえ見事なドレスになって戻ってきたので、大きな問題にはならなかった。 無事に解決したとはいえ、問題を起こしたのはシャリアス側だ。 「それに私だけの力ではなく、洗い場のみんなが協力して出来たものです。私ひとりで受け取れません……」 「私に持ち帰らせるつもりですか? あなたが返しに行っても良いですよ?」 メイド長の答えに、その場が凍りついた。厳しい返事をされて固まってしまったシャリアスに、メイド長はため息をついた。 「大丈夫です。皇妃様も配慮されていて、そこまで高価な物ではありません。受け取ったあと、みんなに配れば不満も出ないでしょう」 「……で、では、頂かせてもらいます」 そこまで言われて、まさか拒絶することは出来ない。シャリアスはおずおずと差し出された褒賞に手を伸ばした。 受け取った瞬間、両手にずっしりと重みを感じた。 (これが高価じゃないだなんて……。帝国は、富みすぎてる……) 大粒の宝石に、微細な細工が施された装飾品。もし母国なら貴族令嬢の持参金だと言っても、納得されるだろう。 嫌な汗を流しながら褒賞を見つめていると、更にメイド長が口を開いた。 「また別の皇妃様からも、お声掛けがありました。マーシャ様です」 「……え?」 メイド長は、シャリアスの近くに立った三人を手招いた。今回の件を主導した、ヴィネットたちである。 「あなた方は、他の染めもできますか?」 「や、やってみないとわかりませんが……」 メイド長はぴくりと眉を跳ねさせた。 「皇妃様からの質問ですよ?」 後宮は皇族と、その妃たちのために存在している。彼らの要望を叶えるのが、外国人奴隷の仕事である。 「…………誠心誠意、お仕えいたします」 シャリアスが頭を下げると、メイド長は満足気に頷いた。 「では手配しなさい。青いドレスを作っていただきます。先日のドレスを目にされたマーシャ様が色の鮮やかさを気にいりまして、同じように鮮やかなドレスをご所望です」 「青のドレスですか?」 シャリアスは一気に不安になった。 赤ならまだしも、青。 青は鮮やかさを出すのが極端に難しい色で、ドレスの中でも最も値段が張る。 それに今回は元々ワインで汚れていたため、多少質が悪くても許されたが、正当な後宮の側室が袖を通すとなると、求められる品質は桁違いだ。 「しかしここは洗い場で……。青となると、道具もなにも……」 すると、メイド長が頷いた。 「ええ。これから、あなた方は服飾の部門に移っていただきます」 その瞬間、後ろの三人が湧いた。 服飾部は、メイドの中でも上位のメイドたちが勤める部署。 元々皇妃たちのドレスを作るために設けられた部署だったが、その技術の高さと美しさは国内随一。 帝都内のドレス工房以上の人気を誇り、各国の王室もドレスを依頼してくるほどだ。 服飾部の仕事に憧れて、後宮入りを希望する帝国貴族の娘も多かった。 「服飾部って、きれいな宝石を触れるところでしょ!?」「建物もすごくきれいで、時々お妃様もいらっしゃる場所よね」「食事もおいしくて、早めに帰れるって聞いたけど……!」 「うわ〜〜〜水仕事から開放される〜〜!! もう手が荒れない〜〜!!」 ヴィネットたちは次々と思い思いのことを口にして、大喜びした。抱き合って、あかぎれだらけの両手に別れを告げた。 敗戦国とはいえ、母国では貴族だった身である。毎日働こうと、最下層の仕事には慣れない。 沸き立つ三人を眺めていると、メイド長がシャリアスに言った。 「シャリアス、別途話があります。後で私の部屋に来なさい」 シャリアスが頷いて頭を下げると、メイド長は手を叩いて「これで話は終わりです。仕事に戻ってください」と洗い場のメイドたちに呼びかけた。 *** ――夜。みんなが寝静まったころ、シャリアスはメイド長の部屋をノックした。 「入りなさい」 シャリアスは滑り込むようにメイド長の部屋に入り、彼女の前でかしずいた。 メイド長ともなれば、当然個室が与えられる。 洗い場を担当とするメイド長はまとめ役の中でも末席だが、それでもこのメイド長も、上位貴族の家柄出身の者だった。 「暮らしはいかがですか。使用人の身分は慣れましたか?」 「はい。メイド長様のご指導のおかげで、労働の価値を覚えつつあります」 後宮のメイドの中でも最下層に位置するヘロットメイドだが、大半が外国人貴族。労働したことのない者も多く、自分で着替えられない者や食事を作れない者もいる。 当然逃げ出す者もいて、捕まれば体罰を受けた。 女性には大抵ふくらはぎや背中への枝むちが課せられたが、それでも数が多ければ肌がただれるほどには傷を追う。 しかしシャリアスが来てからというもの、まだ洗い場で枝むちに処されたメイドは見ていなかった。 口ぶりは厳しいが、このメイド長は面倒見の良い方なのだろう。 「……あの、私は本当に服飾部へ向かわなくてはいけないのでしょうか」 「皇妃のご意向ですから、揺るぎないものだと思いますよ」 その回答にシャリアスはひざまずいた。 取り出すのは小さな箱である。 「これまで、大変お世話になりました。すべてをお渡しいたしますと、皇妃様のご意思に背きますので、一部だけになりますが……」 皇妃とのやりとりの中で、このメイド長の口添えがなかったとは思えない。今後、なにか起こった時に、今回の件が引き合いに出されることもあるだろう。 シャリアスは皇妃からもらった物の大半を、この小箱の中に入れていた。装飾品は足がついてしまうだろうが、宝石や金貨なら贈っても問題はないだろうと思えた。 部屋に残したものは、明日洗い場のみんなに配る予定だ。 「……抜け目のない子ね」 メイド長は、ひざまずいたシャリアスをじっと眺めた。 美しいブルーグレーの髪の毛に、それよりも更に鮮やかな青い目。受け答えはしっかりしていて、相手の意図を逃さない。 しかし目立つことは苦手なようで、何事も慎重にやる娘だった。 「必要ないわ。そんな小金、服飾部に行けばあっという間に使ってしまうわよ。取っておきなさい」 「……わかり、ました」 差し出した小箱を押し返されて、シャリアスはしぶしぶと立ち上がった。 「別にあなたの褒賞をせびるために部屋に呼んだわけではありません」 メイド長は、部屋の端にあるテーブルを指し示した。そこには両手で抱えられるくらいの箱が、置かれていた。 「アレン様から、あなたに別途褒賞が贈られています」 「……えっ?」 「開けて中身を確認しなさい」 メイド長に促され、シャリアスはおずおずと箱を開けた。 ふわりといい香りがした。 たくさんの金貨と、宝石のあしらわれた小さな容器が入っていた。 容器の蓋を箱に充滿していたものと同じ匂いがした。白いなにかが、容器いっぱいに入っている。 (ハンドクリームだわ……) シャリアスは驚いた。 香料を使う上に、貴重な動物の脂を使用する美容品は、非常に高価だ。 (石灰を使ったと言ったからかも……。媒染剤につかうと、手が荒れてしまうから……) 媒染剤とは、染料を生地に安定させる液体のことである。ミョウバンを使うことで色を出したかったが、どうにも品質が安定せず、更にアルカリ性に偏らせるために石灰を使った。 (みんなが喜ぶわね……) この騒動でかなり手荒れさせてしまったみんなのことを思い出した。 「獣の革手袋も届いてます。次の仕事では、こちらを使うようにとのことです」 「……ありがとうございます」 シャリアスは深々と頭を下げた一方で、困惑もしていた。 なぜ宮廷使用人の頂点である書記官長が、一介のヘロットメイドにこんな物を贈るのか。 まだ二度しか、会ったことがないのだ。 その疑問は、メイド長にも伝わったらしい。 「とても運のいい目にあっているということは、理解しているようですね?」 「は、はい」 「アレン様は時折このようなことをなさいます。しかし大半の使用人は、あまりこの意図を理解しません。自慢するばかりで、何を求められているのかわからないのです」 帝国ではヘロットメイドだろうと、身を立てることができたが、出口の見えない生活を送るヘロットメイドはあまりきちんと働かない。 彼らのやる気を起こすために、アレンは度々このような褒賞を出した。 しかし大半のヘロットメイドは一度の褒賞で満足してしまい、まともな使用人として育っていなかった。 「とにかく、アレン様から目をかけていただいていることは、大変貴重な機会だと思います」 「はい」 「ただ他のメイドには、このことは隠しておいたほうがいいでしょう。余計な嫉妬を買います」 シャリアスはこくこくと、メイド長の忠告に頷いた。 どうやら洗い場の人間から誤解されるのも気にせずに、シャリアスを部屋に呼びつけたのは、アレンからの褒賞を秘密裏に渡すためだったらしい。 今、洗い場の人間は、シャリアスがメイド長に部屋に呼びつけられたのは、褒賞の上前(・・)を受け取るためだと思っているはずだ。 原則として、ヘロットは財産を持てない。それを拡大解釈して、ヘロットに向けられた褒賞を、一般のメイドが奪い取ることはよくあった。 「洗い場全員が関わったのに、褒賞を頂いたのはあなただけでした。しかしこれで褒美はすべて私に渡したと思うでしょうから、洗い場の不満はおさえられるでしょう。明日、配ってもおかしくない金額を、洗い場のみんなに渡しなさい」 「はい」 「また、アレン様から受け取ったものは、人に知られないように使いなさい。ひけらかしてはいけません」 「はい。ご忠告ありがとうございます」 シャリアスが頭を下げると、メイド長は「話は終わりました。帰りなさい」とシャリアスに手を振った。 「ご指導ありがとうございました。おやすみなさいませ」 シャリアスはメイド長に挨拶し、アレンからの褒賞は隠すように脇に抱えながら部屋に戻った。 背筋の伸びる思いだった。 (……こうやって、色々なことに配慮しながらやっていくのが後宮なのね) (目立たないように、慎ましく。でも人に仕える気持ちはわすれてはいけない……。役に立つのが、本来のメイドの役割だから) 「……難しいわ」 後宮での生活は薄氷を踏む思いだと誰かが言っていたが、シャリアスはその意味を少しずつ理解し始めていた。 *** ――それからしばらく。 「う〜〜〜ん……」 服飾部に移ったシャリアスは、ぐつぐつと煮立った鍋をじっと見つめていた。 持ち上げるのは、シルクの端切れである。 「やっぱり、青色は段違いね……」 シャリアスはため息を付いて、シルクの端切れを見下ろした。いい色だったが薄い水色で、鮮やかさとは程遠い。 このくらいの色なら、それなりの地位にある令嬢でも持っている色だろう。 (赤色は簡単だけど、青はやっぱり難しい……) (やっぱり自然由来の染料じゃなくて、金属を化学反応させたものじゃないと、ちゃんと色が出ない……) 青色の植物は数が少ないし、どうしても色が落ち着いた色になってしまう。金属の顔料を使わないとどうにもならない。 そもそも生地の製造自体、帝国であまり活発ではない。 かつては帝国でも生地の生産は行われていたが、国交が活発化し、安定して様々な生地が輸入されるようになってからは、生産量は激減した。 今はウールやコットンから生地を作っているだけで、残りは輸入品がほとんどだ。 鮮やかな色彩を持つシルク生地は、上流階級で高い人気を誇り、多くの令嬢たちが赤や青といった目が覚めるような原色のドレスを求めていた。 特にオスマル国の生地は人気で、黄金よりも価値があるとされている。 (一番いいのは、そのオスマルから直接青の生地を輸入することだけど……) そうにもいかない理由があった。 現在、急激に力をつけた帝国を警戒して、オスマルを始め様々な国が帝国に輸出制限を行っているのである。 年々締め付けが厳しくなり、帝国内で人気だったシルク布も近年対象となった。 結果、高価だったオスマルのシルク生地はますます貴重になり、今では黄金よりも高い値段がつけられている。 かつて皇妃という高貴な方が、汚れたドレスのしみ抜きを頼んできたのは、そのような背景があった。 もちろん帝国の妃ともなれば、オスマルの布が手に入れられないわけもない。 わざわざ頼んできたということは、それ以外の意図があるのだろう。 (まあこのご時世オスマル産のシルク生地を着ていたら、敵国にお金を渡してでも、着飾る女だと思われてしまうものね……) ……となればやはり、中途半端な色味で仕上げるわけにはいかない。 (やっぱり、生地を染めるしか手がない……? っていっても、そもそも顔料もないし……) 布地の加工が活発ではない帝国では、そもそも着色用の顔料が出回らない。顔料が手に入っても、技術もなければ施設もない。 顔料の中には劇物もあるし、化学反応を起こさせる以上、場合によっては発火する。シャリアスのような素人が手を出すには、ハードルが高すぎた。 「う〜〜〜〜ん……」 シャリアスが額に手を当てて悩んでいると、背後の一室からガタガタと音がした。 扉が開くと同時に、埃っぽい匂いが一気に部屋に充満する。 ゴホゴホと咳き込みながら出てくるのは、ローラとミアだった。 「う〜……シャリアス、お水くれる?」 シャリアスは一旦手を止めると、急いで水をコップに注いで手渡した。二人はごくごくと一杯のコップを飲み干して、疲れ果てたため息をついた。 「だ、大丈夫?」 「本当にひどいの。埃で埋もれてしまいそう」 ミアはげほげほと咳をしながら、椅子に座った。 口元の布を首にずらすなり、はーっとため息を吐いた。 「先々帝のころから、使わなくなったものを全部収めているんですって。どれもこれも貴重だから捨てられないっていってるけっど、ずっとここにしまいっぱなしなのよ」 彼らは手に持っていた箒を、ぱたりと床に投げ出した。 使い出したときは新品だったのに、今はもう真っ黒に色が変わっている。部屋の中が、どれほど埃まみれなのか、察するに余りある。 「お菓子でも食べる? さっきヴィネットが持ってきてくれたの」 「食ベる!」 シャリアスが差し出すと、彼女たちはあっという間に全部食べてしまった。シャリアスの分だけは残していたようだったが、シャリアスが「私はいらないわ」と言えば、それもまた平らげた。 ふたりとも帝国に来たときは、口元を隠しながら食事をする、礼儀正しい貴族令嬢だったが、この生活を経て少しずつたくましさを見せている。箒の持ち方も、様になってきた。 「はあ……。服飾部に来たんなら、きれいな生地やミシンに触れられると思ったのになあ」 「ほんとよね。雑用ばっかり押し付けられて、まだ仕立ての部屋さえ見てないわよ」 ――そう。本当に辞令が下り、洗い場から服飾部に籍を移したシャリアスたちだったが、未だにミシンさえ目にしたことがなかった。 後宮のメイドは、教育やしつけの一環として働いている貴族令嬢ばかりだが、中でも服飾部は生粋の上位貴族のみ。 ヘロットメイドが同じ職場で働くことを快く思わないようで、シャリアスたちは作業場にさえ入れない有様だった。 「掃除が大変なら、私が代わろうか?」 飲み干されたコップを受け取りながらシャリアスがそう言えば、ミアは首を振った。 「やめとく。また鍋を割っちゃったら困るもの」 その横で、ローラが深々とため息を付いた。 「はあ……こんなお菓子で、どうやってお腹いっぱいになれって言うのよ」 シャリアスはちらりと窓に視線を送った。 「……少し早いけど、食事に戻る?」 服飾部の端に追いやられているシャリアスたちだったが、一方で利点も合った。 ほとんど放置されているような状況だったので、いつ休憩しても誰も文句を言わないのだ。 洗い場では食事返上で仕事をすることも多かったので、これだけでも服飾部に来た価値はある。 外で掃除していたヴィネットにも声をかけて、シャリアスたちは食事に向かおうとした。 「あっ」 しかし道中で、ミアが声を上げた。 きらびやかな服を着た男たちが、こちらに向かってきていた。慌てて回廊の端に移動して、一斉に頭を下げる。 この後宮で、あの白い衣装を来た兵士たちを知らないものはいない。皇帝直属の騎士たちで、よく後宮を出入りしていた。 (どこかの皇妃様のもとに、陛下がいらっしゃってるのかも……) 道を譲り、彼らが通り過ぎるのを待っていると、聞き覚えのある声がした。 「――ですから先日のお話は……」 どうやら彼らを率いているのは、皇帝の寵臣(テラポーン)らしい。 シャリアスはますます頭を下げて、彼らが通り過ぎるのを待った。……が、なぜか黒髪の男はシャリアスの前でぴたりと足を止めた。 「あ、シャリアスさん」 シャリアスはびくっ! と身を揺らした。 その瞬間、回廊で一斉に頭を下げていた使用人たちから、猛烈な視線が突き刺さった。 (め、目立つから、やめて〜〜……) しかし焦るシャリアスとは対象的に、アレンは全く気にしてないようだった。 「どなたですか?」 「シャリアスさんです。パトラ公国から来られたからで、とても博識なんですよ」 「へえ。きれいな方ですね」 騎士たちと不穏すぎる雑談を始めたアレンに、シャリアスの冷や汗は止まらない。 「シャリアスさん。先日パウリ効果のお話をしましたでしょう? もう一度物理学について悪くないと思いまして色々読み返したのですが、やはりマクスウェルの悪魔の難問は、かなり面白いなと思いまして……」 「そ、そうですね……」 (もしかして私……、完全に読書仲間だと思われてる?) いくら帝国が女も読書を認める国だと言っても、マクスウェルの悪魔は雑学の範囲。一般女性にあっさり振っていい話題ではない。 (これは目にかけてもらっていると言うよりは、同類を見つけたみたいな、話しかけ方では……) シャリアスはうつむいたまま、どうにかアレンの雑談に相槌を打った。背中に突き刺さる視線はもちろん、冷や汗もひどかったが、彼の言葉を止める手立てはない。 アレンの機嫌は、とても良いようだった。 (え、えぇい……。こっちから終わらせてみよう……っ) シャリアスは早めに終わりそうな話題を自分から振ってみることにした。 「あ、アレン様っ……!」 ぱっと顔をあげた。アレンは驚いたように目を見開き、しかしすぐににっこり笑った。 「はい。なんでしょう?」 「先日は、いろいろとありがとうございました。大変貴重なものを頂きました」 このようにお礼だけ言って、話題を終わらせるつもりだった。 「いえ。ミョウバンは高価ですからね。よく手に入ったと思いますよ」 ミョウバンは毛織物や布を染めるのに欠かせない材料な上、採掘できる山脈も限られるため、世界的にかなり高価な代物である。 染める際に石灰とミョウバンが必要だったのだが、農場では土の肥料に石灰を使う。農場に石灰を譲ってもらう際に、ミョウバンも無理を言って用意してもらったのだ。 農場の人間は、作物の納品の関係で厨房の人間と面識があり、その厨房の人間は帝都の商人たちと仲がいい。 だから不可能ではないのではと思っていたのが、目論見通りちゃんと用意してもらうことが出来た。 シャリアスが母国から持ってきたお金で、どうにか買い取らせてもらったが、それでも足りなかった。後々支払おうと思ってた矢先に、アレンの褒賞が届いたのだ。 おそらくアレンはこのあたりの事情を見透かした上で、シャリアスに褒賞を届けたのだろう。 「どれもこれもアレン様のおかげです。深くお礼申し上げます」 シャリアスは膝を折り、改めて感謝の態度を示した。 これで話題はまとまった。 きっとアレンも立ち去ってくれるだろうと期待したが―― 「ええはい。どういたしまして。ところで、最近読書はされてますか?」 あっさり違う話題を振られた。 「ど、読書ですか……」 シャリアスは軽く絶望した。 「宮廷に書庫があるのはご存知ですか」 「ぞ、存じません」 「それは残念です。仕事さえ終われば、使用人でも自由に使えます。行ってみたくはありませんか」 「そ、それは、思いますが……」 (新参ヘロットメイドが、そんなことできるわけないじゃない〜……っ!) シャリアスは心のなかで、思い切り叫んだ。 帝国の事情に詳しくはないが、ふるまいからしてアレンはかなりの出自を持っていそうだ。生まれたときから偉すぎて、下々の気苦労などわからないのかもしれない。 行きたいとも行かないとも言わず、やんわり言葉を濁したシャリアスの態度に、アレンはなにを思ったのか。 「……あ、なるほど」 少し考えるように、顎に手を上げた。 「そうですよね? まあ仕事が終わってから出歩くとなると、女性からすれば暗い時間ですね。ためらわれるのも当然です」 「……は?」 シャリアスは今更、この男がわりと強引な交渉を行う人間だと気がついた。 シャリアスが固まっている間に、話をまとめ上げていた。 「では今晩、私の従僕に迎えに行かせます。一度は行ったほうがいい場所ですし、あなたなら役立つものを見つけられるでしょう」 「し、しかしですね……っ」 シャリアスが顔を上げれば、アレンの笑顔があった。 「はい?なんでしょう?」と満面の笑みでシャリアスに微笑んでいた。 「…………なんでもありません」 シャリアスは黙り込むしかなかった。 「必ず迎えに行かせますので、部屋で待っていてくださいね」 「わ、わかりました……」 押し切られてしまった。 流されるまま、約束してしまった。 (書庫に行けるのはうれしいけど、こんな人目がある場所でいわなくてもっ……!) せっかくメイド長が気を回し、アレンから褒賞を受けたことを隠してくれたのに。 確実に今回のことで、水の泡になった。 「よろしい。では夜に従僕を行かせます。楽しんでくださいね」 「…………あ、ありがとうございます……」 読書仲間に本を与えられて嬉しかったのだろうか。 アレンは満足げな顔をして、その場から離れていった。騎士方に、色々と質問をされていた。主に、シャリアスのことについて。 (……あたまがいたい……) 思わず頭を抱えた。 そうしてアレンたちがいなくなった瞬間、シャリアスの手をローラが握りしめた。 他のみんなも、一斉にシャリアスを取り囲んだ。 「シャリアスってアレン様と知り合いだったの!?!?」 「し、知り合いってわけではなくてっ……」 「気安い方とは聞いていたけど、ほんとにそうなのね!? 私、初めてあんな近くで見たわ!」 「いつから知り合いなの!? なんで隠してたの?」 「きっとあれよ。シャリアスがかわいいから、つい声をかけちゃうのよ」「わかる。シャリアスってできるのに、いつも不安そうにしてるもの。ついつい心配になっちゃう」 次々と質問を投げかけてくるので、シャリアスは答えるヒマもない。ヴィネットたちは好き勝手なことを言っては、シャリアスを質問攻めにした。 「わ、私が本を読むのを知って、親切にしてくれてるだけなのよ。大したことではないの……」 (ど、どうしよう……) 書庫には行きたい。でも目立ちたくない。 しかしアレン様にお断りするのも、角が立つ。 結局結論は出ることなく、午後の仕事も手がつかなかった。 *** ――そうして夜。 シャリアスが悩んでいるうちに、気がつけば夜を迎えてしまった。約束通り従僕がやってきて、シャリアスの部屋をノックした。 シャリアスはそれでも迷っていたが、ヴィネットたちが「せっかくなんだから行ってきなよ!」と強く勧めた結果、従僕の案内に従わせてもらうことにした。 「シャリアス様、どうぞ」 リーデルと名乗った侍従は、扉を開きながらシャリアスに向かって頭を下げた。 肩のあたりで切りそろえられた金髪の美少年で、ヘロットであるシャリアスにもかなり丁寧な物腰だった。 シャリアスも頭を下げながら、書庫へと入って行き……、そして目を見開いた。 見たこともないような量の本たちが、広々とした書庫にびっしりと詰め込まれている。 遠い大陸の経典から、最先端の哲学まで。 「すごい……」 かねてから一度目を通したいと思っていた名著を見つけて、思わず手にとった。ぱらぱらと中身を確認し、印刷にかすれもなければ表紙にゆがみもないことみて、シャリアスはそれが本物だと確信した。 各大陸に散らばる古代宗教の共通点を一挙にまとめ、なぜそのような宗教が出来上がったのか、当時の背景を淡々と分析していく名著である。 ……つまり、ともすれば神を冒涜する危険思想とも言われるような内容だった。少なくともパトラ公国では、禁書中の禁書だ。 「……帝国に、禁書ってないんですか?」 書庫に入るなり、一気に本に飛びついたシャリアスだったが、それについてリーデルが気を悪くした様子はなかった。 リーデルは山のように手に取り出したシャリアスの代わりに、それらの本を運んでくれた上に、テーブルに座るように勧めてくれた。 「もちろんありますよ。犯罪の励行や、武器の作り方を詳細に記すような内容のものは、出版を禁じられています。また皇族や国を批判するようなものも駄目です」 「それと、民族や職業、性別間の蔑視を促すようなものも禁じられています。我が国は在留外国人が多く、働く女性も多いので、そのような対立を煽るものは国家の分断に繋がります。それ以外は検閲こそありますが、基本厳しくありません」 「そうなんだ……」 (やっぱり帝国ってすごいわ。誰でも学ぶことが許されてる国って、この大陸でどれくらいあるかしら……) シャリアスは感心しながら書庫を見回して、とある棚に目を留めた。 「これ、なあに?」 本棚のようで、本棚ではない。 一冊一冊の本の表紙が見えるように置かれていたし、その本も大判だ。マガジンラックと呼ばれるものだったが、新聞も雑誌もなかったパトラ公国出身のシャリアスにとって、それは初めて見るものだった。 「これは定期的に発行される雑誌や新聞を置くものです。今、手に取られているものは、貿易統計ですよ」 「……貿易統計?」 シャリアスは首を傾げて、手にとっていた本を開いた。まるで帳簿のように、びっしりとなにかの表が書き込まれている。 「我が国が毎年どのくらいの量を、どこの国と貿易しているのか、品目や取引先の国ごとにまとめているものです。昨今は貿易摩擦が激しいので、このような物が作られました。これを見れば商人たちはどこになにを持っていけばいいのかわかりますし、農民はなにを育てればいいのかわかります」 「こんなものまであるのね……」 (こんなものを一年ごとに発行して、その情報を国土全域に行き渡らせるなんて……。国民の識字率が高いことが大前提だし、物流のスピードが段違いだわ……) パトラ公国では、王都で流行した本が地方で流行るまで、一年ほど時間が必要だった。 それでもパトラ公国は国土が狭い上、馬車道も舗装されていたから比較的早い国だと思う。 (もしかして帝国には、物流専門の商人がいるのかしら? それってすごい画期的なことじゃない……?) シャリアスが黙り込んでいるとそれをどう思ったのか、リーデルがにこりと笑った。 「よろしければ、読んで差し上げましょうか?」 まだ帝国に来て間もない外国人奴隷だ。そもそも母国語さえ読み書きできな外国人は珍しくなく、帝国語ならなおさらだった。 「ありがとう。とりあえず、自分で読んでみるわ。わからない単語があったら教えてもらえる……?」 「わかりました」 リーデルもまた椅子に座った。「アレン様から個別に課題を課されておりますので」と書き物を始めてくれたので、シャリアスも読書に集中することができた。 さすがアレンの従僕を勤めるだけあって、とても頭のいい子のようだった。受け答えも手伝い方も絶妙で、決してシャリアスを煩わせない。 それからとりあえず、二十年分ほどざっと読み通した。 「……なるほど」 重たい本を閉じて、一旦休憩する。 「貿易は、ここ十年で随分変わっているのね」 するとリーデルは手を止めて、頷いた。 「そうですね。西アーランド連合とオスマルとは、著しく貿易量が減っています」 西アーランド連合といえば、シャリアスが住んでいたパトラ公国よりも西にある、連合国家のことである。 ヴァーシル帝国とは長らく争いを続けていて、二国間の関係は良くない。 帝国は近年著しく発展を遂げており、それを警戒した西アーランド連合はオスマルと同盟を結んだ。オスマルは帝国の東側に位置する、ここ百年で生まれた商人の国である。 現在連合はオスマルと申し合わせ、帝国に著しい輸出制限を掛けている。 食料や衣類、酒類といった生活必需品が主で、当初は人道的ではないと国際的批判を受けた。 輸出制限は、帝国の国力も損なわせることができるが、関係のない一般市民も飢えることになるからだ。 「それでも我が国の民が飢えていないのは、帝国が統治する地域を広げているからでしょう。統治下に置いた国を農地代わりにして、帝国に食料を収めさせています。とはいえ占領しているわけではなく、税を収めさえすれば、あとはその地の貴族や豪族に自治権を与えています。市民の生活は変わりませんし、むしろ帝国の支配下になったことで、他国から攻め入られる心配もありません」 「……そうね」 シャリアスはうつむいて、手を握り込んだ。 パトラ公国もまた、そのように帝国に帰順させられた国のひとつだ。シャリアスを帝国に贈ったことで、国王と父親は公国の統治を許され、特権階級としての地位を維持した。 黙り込んだシャリアスを、リーデルは見つめた。そして椅子から立ち上がると、シャリアスの前で膝をついた。 「申し訳ありません。帝国人の傲慢な考えだと、お聞き捨てください」 「あ、ううんごめんなさい。怒ったわけじゃないのよ」 シャリアスは慌てて、リーデルを立ち上がらせた。 「帝国からすれば、こうするしかなかったもの。この国は先代が徴兵制度を導入したせいで、人口が増えている。たくさんの食べ物を輸入しなければ、またたく間に国民が飢えてしまうわ」 先代皇帝が徴兵制度を導入したために、跡継ぎの戦死を恐れた国民は多くの子供を産んだ。 今こそ徴兵制度は撤廃されているが、だからと言って減るわけもなく、人口は増加の一途をたどっている。 「帝国は広いし、すべての地域に食べものに行き渡らせるのは至難の業よ。自国の耕作地から運ぶよりも、征服した国から運んだほうがずっと早いし供給が安定する」 帝国は広く、厳しい山脈や荒地がいくらかある。 それらを無理に通り抜けて、国内の耕作地から食べものを運ぶよりも、近場の国から食べ物を買い上げるほうが現実的だ。 そのようなことをシャリアスが述べれば、リーデルは驚いたように大きな目を瞬きさせた。 「……シャリアス様って、なんでも知ってらっしゃいますね」 「ごめんなさい。間違えていたら、教えてほしいわ」 「いいえ。正しいと思います。まだいらっしゃって間もないのに、帝国語をなんなく読み書きされる姿に驚きました。僕なんて、ようやく本を読めるようになったばかりですよ」 シャリアスは首を振った。 「リーデルはまだ若いじゃない。帝国の本は勉強になることが多くて、元々よく読んでたの」 追放されることがわかったあの日。 シャリアスが前向きになれたのは、行き先が帝国だったからだ。帝国は多くの文献や小説が発行されていて、比較的身近に感じていた。 「これほど博学な方なら、母国でもとても敬われたのでは? こちらの国に来るときまったときは、とても惜しまれたでしょう?」 シャリアスは目を伏せた。 そうして少し強く、自分の手を握り込んだ。 「……いいえ。パトラ公国では、女性が本を読むことはあまり褒められたことではないわ。だから私が帝国に行けるように、国王陛下が取り計らってくださったの」 「そうなんですか……」 リーデルは椅子に座り直すと、持ち込んだポットからお茶を入れてくれた。シャリアスはありがたく頂戴し、茶菓子をつまんだ。 「ではそちらの国では、女性はなにをされるのですか?」 「主に家の管理ね。社交に出ることも、大事な役割だったわ」 (……主に妹のレティーシャばかりが出ていたけど……) 国王に頻繁に話しかけられるようになってから、シャリアスは社交の場に出ることを止めた。 一方、レティーシャは明るくかわいらしい性格をしていて、どの屋敷のパーティーにもよく呼ばれていた。 「だから私は、あまり良い女性ではなかったの。……今は、帝国に来れてよかったと思ってるわ」 パトラ公国で求められる女性像と、シャリアスの気質があまりにも違いすぎたのだ。どちらが悪いというよりは、きっと相性が良くなかったのだろう。 うつむいたシャリアスに、リーデルはほほえんだ。 「僕は本を読む女性を、とても尊敬しますよ」 シャリアスもまた、笑った。 「……ありがとう」 ――それからもう少し本に目を通した。 そして定められた就寝の時間が近づいてきたころに、シャリアスたちは書庫を後にした。 「送ってくれてありがとうリーデル」 「はい。おやすみなさいませシャリアス様」 深々と頭を下げて見送ってくれるリーデルに会釈して、シャリアスは自分の部屋へ戻っていった。 服飾部に転属されて以来、シャリアスたちも個室が持てるようになっていた。ヘロットメイドのため、地下階の古い部屋をあてがわれていたが、それでも個室なのはうれしい。 シャリアスが廊下の角を曲がると、燭台の火が見えた。シャリアスはぴたりと足を止める。 服飾部のメイド長が、部屋の前に立っていた。 「待っていました。どこに行ってたんですか?」 「書庫に行っておりました」 服飾部のメイド長は厳しい人だったが、服飾部では、最もシャリアスたちに公平に接する人でもあった。 日中は雑用ばかりに追われているシャリアスたちだが、メイド長が見放しているわけではなく、個別に刺繍の課題を与えられていた。 「そうですか。明日は早いですが、起きられますね?」 「……なにかあるのですか?」 明日も、服飾部での仕事だ。 就寝時間までにはまだ余裕があり、改めて確認されるようなことはなにもないように思われた。 「青いドレスに関して、あまり進歩がないようですね」 その瞬間、ぴりっと空気が変わった。 「皇妃様からのお呼び出しです。明日は早く起きて、身なりを整えておきなさい」 *** 翌朝。 シャリアスは他の三人と並んで、深々と頭を下げていた。 「――それで、いつできるの?」 部屋の中央、豪華絢爛に飾られた椅子の上で紅茶を飲むのは、美しい少女だった。 見事な赤毛で、ウェーブのかかった毛先が華やかな印象にしている。美人というよりは可憐な印象を与える顔立ちで、華奢な体に小さな頭が乗っかっている。 しかしその大きな目は鋭く前を向いていて、口は不機嫌そうに尖っていた。 「何度も失敗してるらしいじゃない。私が若いからって、バカにして手抜きしてるわけじゃないわよね?」 ガチャンと紅茶カップが音を立て、かしずいた四人は首をすくめた。 「とにかく、青いドレスが必要なの! 次の観花会には間に間に合わせないと、陛下の前で失礼な格好はできないでしょう?」 シャリアスが「申し訳ございません」と謝ると、彼女はますます怒った。 「私の肌は青じゃないと似合わないのよ! 陛下だって、私が美しくなかったら、観花会でがっかりされるでしょ!?」 途中、割れたカップやら焼き菓子やらが転がってきて、周りのメイドたちが慣れた様子でそれをなだめていた。 シャリアスの背中で頭を下げているローラたちが、ボソボソと会話を交わしている。 (……かわいらしいかただけど、どういう方なの?) (トレイン伯爵のマーシャ姫よ。超名家。大臣のゴリ押しで入宮したらしいんだけど、陛下のお目に一度も止まってないんですって。話したこともないのだとか……) (なるほど……) こんな会話、聞かれたら枝むちどころじゃすまない……。シャリアスがヒヤヒヤしていると、ひときわ大きな音を立ててテーブルが叩かれた。 「で、いつになったらできるわけ!? 絶対に間に合うんでしょうね!?」 見上げれば、側仕えのメイドがシャリアスに向かって頷いた。「もっと詳しく説明しろ」とのことらしい。 シャリアスは一歩前に出て、おずおずと口を開いた。 「……実は顔料の調整が難しいのです。赤は様々な植物から取ることができますが、青となると植物では染めることはできません。金属を化学反応させる必要がありますが、青の染色となると主な生産国はオスマル国でして……。今は輸入制限を受けており、滅多に手にはいりません」 しかしシャリアスの弁明は、この皇妃をますます怒らせるだけだった。 「そんなこと知らないわよ。どうして格下の側室の侍女があんなドレスを着れて、私は着れないわけ? より貴重な青のドレスを来ていかなきゃ、格好がつかないじゃない!」 「とにかく先日の赤いドレスと同じように、鮮やかな青のドレスを作りなさい! でなければ、死罪にするから!!」 *** 四人はとぼとぼと、力なく歩いていた。 まだ日中だと言うのに、丸一日働いたときよりも疲れているように感じた。 さすがのシャリアスも疲労感は隠しきれず、その表情は曇り気味だ。 「投獄されるかと思った……」 「わたしも……」 「シャリアスが何度も説明してるのに、全然話聞いてくれないし……」 「すごい勢いでお怒りになられてたわね」 「話を聞け!」と言われたので必死に話を聞いていると、「なにか言ったらどうなの!?」と言われる。シャリアスがどうして苦戦しているのか理由を述べると、「言い訳しないで!」と言われた。 何も言わずにただ謝ることに徹すると、「謝ればいいと思ってるでしょう!? 私のことを馬鹿にしてるわね?」と言われるのである。 たくさんの貴族がいるこの国で、自由気ままな貴族令嬢など珍しいものではないが、あそこまではっきりと態度に出すのも珍しい。 「トレイン伯爵の一人娘で、相当大切に育てられたみたいよ。欲しいものは絶対手に入れる方なんですって」 ひざまずきすぎてすっかり痛くなった首を、ミアがぐりぐりともんでいる。 「……にしたってさあ。顔料もないのに、どうやって青色に染めろって言うのよ。シャリアスができないなら、誰にもできないわよ」 「ここまできたら、こっそりオスマルの布を輸入するしかなくない?」 「それ密輸って言うのよ」 ローラははあとため息を付きながら、お腹をなでた。 もはや昼どきは終わり、後少しすれば夕方という時間だ。完全に昼食を食べそこねた。 「ああいうタイプが、パンがないならお菓子を食べればいいじゃないって言うのよ……」 一度昼食を食べそこねたら、もう夕飯まで食べられないヘロットメイドの境遇を、あの皇妃は知らないに違いない。 「しっ! 不敬よ。誰かに聞かれたら捕まるわよ!」 すかさずヴィネットに注意されて、ローラは肩をすくめた。 しかしその瞬間、ずっと黙っていたシャリアスがぴたりと足を止めた。 「パンがないなら、お菓子を食べればいいじゃない……?」 パンがないなら、お菓子を食べれば……。 そこでシャリアスは、はっと気がついた。 「あ、あ、あ〜〜〜〜!!!!!!!」 あまりにシャリアスが大きな声を出したので、周りの四人も驚いて足を止めた。 「そうよ!!! ケーキを食べればいいじゃない!!!!」 「は?」 「パンがないなら、ケーキを食べればいいのよ!! 青い顔料がないなら、青い生地を作ればいいの!!!」 「はい???」 シャリアスは両手を握り込みながら、興奮したように喋っていたが、周囲の三人はちっとも理解ができなかった。 「シャリアス? ちょっと何いってるのかわかんな……」 「なんで思いつかなかったんだろう!!!」 なんとシャリアスはそのままドタバタと走り抜け、書庫へと向かってしまった。 手をのばす先は、マガジンラックだ。 昨日の夜、目を通したばかりの本をばさばさと開いた。見るのは過去何十年も取りまとめられた、輸入品目一覧である。 「やっぱり……!!!」 *** 一方、シャリアスに置いてけぼりにされた三人は服飾部に戻って、紅茶を片手に休憩していた。 マーシャ姫にこってり絞られてお腹が空いていたし、シャリアスが戻ってこない限り、青いドレスに関しても動きようがなかった。 「シャリアス、なに思いついたと思う?」 「わかるわけないわよ。あの子、思いついたらすぐどっかに行っちゃうし……」 サンドイッチを詰め込みながら、三人でぼそぼそと話し込む。 するとそのうち、どたどたと足音が聞こえてきた。 「あ、シャリアス」 バンッとドアが開き、みんな一斉に振り返る。そして固まった。 なぜかシャリアスは両手に水桶とブラシ、雑巾といった掃除道具を山ほど抱えていた。 「シャリアス?」 どたばたと早足で部屋を通り抜け、そして突き当たりの奥の扉を開いた。 服飾部に配属が決まったとき、初日早々に掃除を命じられたあの古ぼけた倉庫の扉だった。 「ねえみんな!」 シャリアスが、勢いよく振り返る。 そうしてみんなに向かって、ブラシを差し出した。 「この倉庫、一緒に掃除して!?!?」 ローラがぽかんと口を開けた。口元から、かじっていたクッキーのかけらがぽろりと落ちる。 「まーーたシャリアスが、意味分かんないこと言い出した……」 *** ――観花会当日。 後宮の庭園内。 年に数度、見事に開いた花々を愛でるために設けられた、皇家主催の恒例行事。 皇帝と皇妃たちが集まり、季節の訪れを祝う会だ。名家の夫人や令嬢たちも招かれて、皇帝や皇妃たちへ挨拶を交わす。 この会で見初められた女達が、皇帝の寵妃となることも珍しくなく、みなこれ以上ないほど美しく着飾って、この会に参加していた。 高級な生地がふんだんに使われたものに、見たこともないような異国の衣装を帝国風にアレンジしたドレス。 ありとあらゆる趣向を凝らしたドレスたちが並んでいたが、その中でもひときわ目を引くドレスがあった。 オスマル産の生地よりも、一層鮮やかな色をした青いドレスが、柔らかな風に裾を踊らせていた。 「――そこの」 これ以上ないほど誇らしげな顔で歩いていたマーシャ姫を、一人の男が呼び止める。 金髪に、透き通るような青い目。 数百年以上続くヴァシレウ家の統治の中でも、特に賢君だと称されている皇帝がわざわざ足を止めて声をかけた。 「こっちに来い。よく見せてみろ」 マーシャ姫は得意げに手元の扇を閉じると、すたすたと皇帝の前に出た。 そうしてこれ以上ないほど優雅に、皇帝の前でひざまずいた。 「ご挨拶申し上げます。マーシャ・キュレイル・トレインにございま……」 が、膝をおろうとした瞬間、皇帝がその手をつかんでしまう。 「違う。ドレスをよく見せろ」 マーシャ姫は一瞬固まり、しかしすぐに立ち上がって体を一周させた。皇帝はしげしげと眺めた後、ドレスを手にとった。 皇帝は誰よりも高貴な血統を持つ。混じりけのない金髪に、宝石のような青色の瞳に迫られて、マーシャ姫はわずかに顔を赤くした。 「……シルクだな。だが輸入されているものと明らかに色が違う。こちらのほうが艷やかだし、色に深みがある」 皇帝は顔を上げると、後ろに控えていたアレンに視線を送った。アレンは頷いて、奥に控えていた服飾部のメイド長を呼びつけた。 メイド長は皇帝の前にひざまずいた。 「シルク生地はオスマルの名産品。今は手に入りにくいはずだが、まさか密輸したわけではあるまい?」 「はい。こちらは糸から作っております」 「糸から?」 「はい。シルク糸は比較的安価で、需要も低いため、輸出制限の対象になっておりません。結果、多くの色を選ぶことが可能です」 西アーランドからもオスマル国からも、シルク生地の輸入制限を受けていたヴァーシル帝国だったが、一方でシルク糸は輸入制限の対象外だった。 そもそもの輸入量が、シルク生地に比べて著しく低いからである。 シルク糸の用途は、刺繍が主。つまり刺繍を嗜む女性貴族向けの商品ばかりで、輸出額としては制限をかけるほどのものではなかった。 用途が刺繍ということもあり、輸入されるシルク糸はあらゆる色味が揃っていた上、国内在庫もだぶついていたため、大量に入手することが可能だった。 「……つまり、糸から生地にしたのか?」 「はい。今でこそ我が国では機織りは活発ではありませんが、かつては行われておりました。また服飾部の倉庫を整理したところ、過去リョウ国から贈れた織機が、数機見つかりました」 リョウ国といえばオスマル国をはさみ、さらに東にある国である。ある程度貿易はしているが、それほど密接に交流しているわけではない。 「そちらを修復し、服飾部で機織りを行いました。リョウ国から直接贈られたものですので、出来上がる布はオスマル国のものより精巧で、織ムラがありません。一級の職人並みとは言いませんがメイドたちの努力もあり、品質が安定してまいりましたので、マーシャ姫に着ていただいております」 メイド長は「直前までお見せできるものに仕上がらず、ご報告が遅れましたことをお許し下さい」と、皇帝に頭を下げた。 「今回のものは縦糸に翡翠の糸を、横糸に青の糸を織り込んでおります。鮮やかで偏光のある組み合わせは、こちらが一番でした」 そうしてスカートから手を離すと、今度は後ろに控えていたメイドたちを手招いた。彼女らが抱えるトレイの上には、いくらかのシルク生地が乗せられている。 「皇妃様はお若いのでそのような色にしましたが、縦糸を紫や赤に変えれば更に深みのある青の生地になり、どんな年代の方でも似合うドレスが作れそうです。従来オスマルでは、派手な色合いのものが好まれますが、帝国では鮮やかながらも、気品ある色合わせが人気です。今回作ったものは、帝国人の好みに合わせて作りました」 陛下はメイドたちが持ってきた生地を手にとった。 ツヤ、色味、手触り。どれも目新しく、美しい。逸品といって差し支えなかった。 「……量産できるか?」 「リョウ国から織機を輸入し、職人を育てれば可能です。ただ手織りですので、かなりコストがかかります」 「手織りで結構。むしろ希少であるくらいが丁度いい。嗜好品にぴったりだからな」 皇帝は生地から手を離すと、改めてひざまずいたメイド長を見下ろした。 そして滅多に使わない言葉を、その頭に向かって述べた。 「よくやった」 「いえ、わたくしの成果ではありません。メイドたちがよく働いてくれました」 「なるほど。後で褒美を贈ろう。無事に量産できたら、さらに褒美を与えてやる」 「ありがとうございます」 メイド長は改めて深々と頭を下げると、そのまま下がっていった。 取り残された自らの妃に、皇帝は顔を向ける。 「マーシャと言ったか」 「……は、はい!」 まっすぐ見つめられて、マーシャ姫は顔を赤くした。 このように見つめられるのは、入内してから初めてのことだった。マーシャ姫は強力な後ろ盾によって皇妃の地位を手に入れたが、まだ部屋に呼ばれたこともなければ、ほとんど会話を交わしたこともなかった。 皇帝はふわりと柔らかく笑うと、マーシャ姫の手を取った。 そうして、彼女の手の甲にキスをした。 「よく似合っている。我が後宮の花として、穏やかに過ごしてくれ」 「は、はい!!!!」 つまりそれは、彼女の後ろ盾は利用させてもらうが、これからも特別寵愛することはなく、今までと同じように(特に余計な騒動(・・・・・)は起こさないように)、過ごしてほしいとの意味だったが、まだ幼いマーシャがそれに気づくことはなかった。 「こ、これからも、陛下の皇妃として精進してまいります……っ!」 「ああ。頼んだ」 皇帝の後ろを歩くアレンだけが、なんとも言えない苦笑いを浮かべていた。 *** 見上げた四角い窓からは、青い空が広がっていた。 本の劣化を避けるため、窓の数は少なく常にレースのカーテンが掛けられている。 真昼でも、手元の燭台が手放せないのはそのせいだ。 (同じような色違いのドレスを作れって言われたから、同じように染めるばっかり考えてしまったのよね……) シャリアスはそんな薄暗い書庫の中で、ぼんやりと窓を見上げていた。 頬杖をつき、ゆっくり空を移動していく雲を眺めていた。 (でも別に染めて作る必要はなかった。布を青く染められないなら、青い糸から、布を作ればよかったんだわ……) 差し出された紅茶を、すこしだけ口につける。あわせて焼き菓子もかじれば、とろりと舌の上でとろけていった。 紅茶も食事も、本には良くないと思いながらも、この空間で取る食事が心地よすぎてやめられないでいた。 そんな悪癖をシャリアスにつけたのは、目の前に座る金髪の美少年であった。 今だって空になったシャリアスのカップに、もう一杯芳しい香りのする紅茶を注いでいる。 「にしても、よく後宮にリョウ国の織機があると思われましたね」 シャリアスはかちゃりとカップを置いて、リーデルに向き直った。 「……今でこそ疎遠だけど、オスマル国が台頭する前は絹織物はリョウ国から輸入していたわ。機織りは、リョウ国の象徴だから、なにかしらの記念に贈られてると思ったの」 かつての皇帝が、リョウ国から妃を娶ったこともある。文化交流の一環で、織機が贈られたとしてもなんら不思議なことではない。 実際シャリアスの予想通り、服飾部の倉庫の中にはいくつもの織機が眠っていた。調べてみたところ、きちんと記念品の目録にも残っていた。 二国間の交流を願って贈られたものだったようだが、リョウ国の職人が帰国してからは、使いこなせる者がいなくなり、倉庫の中で眠っていたようだ。 「実際に織ろうと思ったのもすごいですよ。この国では、機織りなんて見たことない者が大半ですから」 「母国では、織ってる人がそれなりにいたの。とはいっても素材は麻や木綿で、使ってる道具も違ったけど……」 最初は遠慮がちにリーデルに接していたシャリアスだったが、今回の事件を経て、それなりに打ち解けていた。 「織機の使い方を知りたい」とのシャリアスの要望を聞いて、実際に書庫から資料を探し出してくれたのはリーデルだった。 シャリアスの身分では、書庫を管理する役人に話しかけることができない。つまり本が探せないのだ。 そのあたりの調整をしてくれたのは、リーデルだった。 シャリアスは椅子に座り直すと、改めてお礼を述べた。 「本当にありがとう。なんの名誉にもならないのに、丁寧に付き合ってくれて」 「いえ、僕はアレン様にお仕えしています。アレン様からは、シャリアス様のお手伝いをするようにとのお言葉を頂いておりますので、今回のことも仕事の一環に過ぎません」 リーデルはにこりと笑った。 「多分青のドレスの件で、シャリアス様が書庫をお使いになられるだろうと予想されていたんでしょう。僕を遣わしたのは、そのせいです」 シャリアスはぱちぱちとまばたきした。 「……アレン様って不思議な方よね」 書記官長という高い地位にいるにも関わらず、自分のようなヘロットメイドにまで、声をかける。 するとリーデルが、意外なことを教えてくれた。 「最初からシャリアス様を気にされてたみたいですよ」 「……えっ」 「入宮の儀で、とても質素な格好をされていたでしょう? 貢物である娘が着飾ってこないなんて、どんな事情なのかとお調べになっていたようで」 思わずシャリアスは顔を赤くした。 父親が自分のためにドレスを用意してくれるはずもなく、手持ちのドレスを身に着けて、帝国行きの馬車に乗り込んだ。 装飾品もなかったし、靴も長旅に耐えられるような地味な革靴だった。まさかそのせいで、逆に目立っていたとは……。 「きっとわざと妙な格好をして、皇帝に気に入られようとする女に見えたでしょうね……」 「陛下がお声を掛けた際、シャリアス様がきちんと受け答えをなされたので、入宮を受け入れたそうです」 今更ながら、どきどきしはじめた心臓を手でおさえる。 リーデルははっきり言わなかったが、つまり皇帝を害する者かどうか、疑われていたということだ。 皇帝を誘惑するなんて、重罪どころの話ではない。反逆罪にされてもおかしくない話だ。 (まさかあのやりとりに、自分の命がかかっていたなんて……) あのとき、皇族と同じ名前で入宮させてしまうという文官の不手際がなかったら、帝国のしきたりに従順に従うシャリアスの態度を見せられず、そのまま切り捨てられていたかもしれない。 (さすが皇帝の寵臣(テラポーン)。後宮のすみずみまで神経を張り巡らしているのね……) 突然明らかにされた事情に、シャリアスが冷や汗をかいていると、書庫の扉がノックされた。 使用人に開放されているとはいえ、置かれているものは専門書ばかり。利用する使用人は多くなく、この時間帯はリーデルとシャリアスの借り切りのようになっている。 リーデルが返事をすれば、書庫の警備を担当する兵士が入ってきた。なんと服飾部のメイド長が、外でシャリアスを待っているらしい。 シャリアスはリーデルに声をかけると、慌てて書庫の外に出た。 建物の影、人気のない中庭にメイド長が立っていた。 「わざわざ足を運んでいただいたようで、申し訳ありません」 「いえ。人目のないところで話したかったので、好都合でした」 メイド長の顔を見るのは、数日ぶりだった。 「私が手柄を奪ったと考えているでしょうね」 観花会以降、メイド長はあらゆる貴族から面会を求められ、忙しそうにしていた。あの美しい生地による、ドレスの依頼が止まらないのだ。 「陛下の前では、あえて名前を出しませんでした。まだこの国に来て間もないあなたが、陛下にお声掛けいただくのはよくないと思ったのです」 「もちろんです。むしろご配慮に感謝しております」 シャリアスは世辞でもなんでもなく、心の底からメイド長に感謝していた。 「たかがヘロットメイドが生み出したものに、誰が袖を通すでしょうか。かねてからのメイド長の名声や信頼があったからこそ、このように取りざたにされたのだと思います」 いくら生地の質がよかったとしても、手掛けたのが外国人奴隷だと知れば、彼らは手放しに称賛しなかっただろう。 着るのは生粋の帝国貴族であり、この国の文化を作ってきた自負がある。外国人が作ったと知れば、シャリアスに下心がなくても拒否感を示すだろう。 その点メイド長は生粋の帝国貴族だった。それも上位貴族出身で、つまり各皇族貴族とのつながりが深く、事情に詳しい。 皇帝の意向は、このシルク生地が上流層で広まること。 それはシャリアスの身分では、どうあっても実現できないものだ。メイド長は陛下の意向に沿って、行動したに過ぎない。 その大義に比べれば、シャリアス自身の名声など些事に過ぎなかった。 「それにシルク生地を織ったのは、私だけではありません。みなさんの協力がなければできませんでした」 最初はヘロットメイドの四人だけで取り組んでいたが、どうにも人手が足りずメイド長に相談した。結果、服飾部の手を借りることができ、あの大量のドレス生地を織ることができた。 シャリアス一人だけの功績ではなく、正真正銘服飾部の功績だろうと思う。 「織機を見つけ出したのはあなたです。それに使い方をイチから調べるのも、大変なことだったと思います」 メイド長は裾からなにか紙のようなものを取り出すと、シャリアスに差し出した。 「陛下から頂いたものです。頂いておきなさい」 それは、褒賞の目録だった。 金や宝石。異国の皿に、高価な生地。様々な珍品がずらずらと書き連ねられていた。 「しかし検証も、人に手伝ってもらったものなのです。どれもこれも、私ひとりの功績ではなく……」 「では今すぐ受け取って、手伝わせた人間に配りなさい。周囲の人間へ感謝したいのなら、それが筋では?」 シャリアスはしばらく黙り込み、そのまま目録を受け取った。 「……ありがとうございます」 メイド長の言い分が、正しいと思われたからだ。 「陛下は産業化をご希望です」 目録を受け取ろうとしたシャリアスの手が、ぴくりと揺れた。 「リョウ国の職人も呼び寄せますが、今のところ最も織機に詳しいのはあなたです」 メイド長は、シャリアスをじっと見つめた。 「……できますか?」 シャリアスは、はっと目を見開いた。 「もちろん、問題があれば私が矢面に立ちます。あなたの身分に対して、心無い言葉を投げかける者も出てくるでしょう。……その上で、やれますか?」 シャリアスは、ぎゅっと手を握りしめた。 「……やります」 「よろしい」 メイド長は頷くと、シャリアスを立ち上がらせた。 「目録のものは、後で部屋に運ばせます。……とはいえこの目録では、貴重すぎてあなたの役には立ちませんね。現金化したいなら、私に言いなさい。手立てを考えましょう」 「はい。ありがとうございます」 その後、メイド長はいくつかシャリアスに事務的な連絡を行うと、服飾部に戻っていった。 メイド長は面会を求める貴族たちの対応に、朝から晩まで追われている。 シャリアスは彼女の背中を見送りながら、どきどきと心臓を跳ねさせていた。 ぎゅうっと強く、メイド服のスカートを握りしめていた。 (うれしい……) 顔が、わずかに熱い。 (うれしい。……うれしい) なにかをして、人に褒められる。人の役に立ち、それを認めてもらえる。人に感謝され、褒美を受け取る。 シャリアスは母国では経験したことのない喜びを、感じていた。 (本当ね、お母様。人の役に立つって、嬉しいことなのね……) *** ――ここ数日、サラはずっと苛立っていた。 美しく生まれ変わった赤いドレスを見て、羨ましがるマーシャ姫に「なら青いドレスを作らせたらいい」と入れ知恵したまでは良かった。 すっかり青いドレスに固執したマーシャ姫に、「ヘロットメイドがまともに働いていない」と吹聴し、死罪をとりつけた。 同時に、オスマル産のドレスも手配していた。裕福なサラの実家には、オスマル産の生地などいくらでも残っていて、青いドレスを用意するのも簡単だった。 ただ鮮やかな生地が手に入りにくい昨今、批判を浴びないように新たなドレスを作ってなかっただけだ。 ヘロットたちが失敗した後に、マーシャ姫にオスマル産の青いドレスを着せて、「敵国に金を贈りながら着飾る女」として、非難を浴びせさせる予定だった。 それがまさか。 「……本当に、青いドレスができるなんて」 それも染めたわけではなく、糸から作り上げてしまった。どこの誰が、リョウ国なんて田舎の国の技術を改良して、布を作ろうと思うのか。 あのヘロットメイドたちがなにか企んでると気づいてからは、どうにか邪魔してやろうとしたが、メイド長の目が厳しく、ほとんどなにも出来なかった。 サラはがりっと親指の爪をかじった。 「どうせ、うまくいきませんよ」 サラの従姉妹が、紅茶を注ぎながらつぶやいた。 サラの入宮に合わせて、父親が侍女代わりにねじ込んだメイドである。サラは一般のメイドだったが、その後ろ盾によってほとんど皇妃のような生活を送っている。 つまり個室を持ち、使用人を抱えていた。 「オスマルから刺繍糸の輸入を止めさせるのはいかがですか? サラ様のお父様なら、そのようなことも可能では?」 「そんなことをしたら、うちがやってるって丸わかりじゃない! オスマルのほとんどの輸入品は、うちの領地を通るのよ!?」 差し出された紅茶を、手で打ち払う。 カップが割れ、紅茶ポットも床にこぼれたが、サラは気に留めない。 「マーシャを失脚させたら、皇妃の席が空くわ。そうすれば、皇妃の話は私に回ってくる」 マーシャとサラは幼い頃から、一緒に育った。 同じ伯爵家。家格はマーシャのほうが高かったが、財力はサラの実家のほうが上。 同じ貴族派の代表として、どちらが皇妃にふさわしいか。何度も議論がなされたが、結局家格が高いマーシャの方で話がまとまってしまった。 サラはただのメイドとして後宮に入る羽目になり、彼女に頭を下げる日々が続いている。 「シルク事業を成功させてはだめよ。マーシャが最初に袖を通した女として、功績を残してしまう……」 陛下は人前でマーシャ姫に声をかけた。 つまりこれまでと同様、皇妃の座においてトレイン伯爵家とそれに組する貴族たちに、一定の重用を行うと宣言したのである。 このまま後宮の皇妃として居座り続け、万一寵愛を受けるような事があれば、付け入るスキがなくなってしまう。 「早く掃除しなさいよ!」 ひっくり返ったポットのせいで、部屋中紅茶の匂いが充満していた。従姉妹が慌てて掃除を始めたが、その遅さに舌打ちした。 結局紅茶の匂いが耐えられなくなって、サラは部屋から飛び出した。 通常、メイドたちはそれぞれの所属に応じて、住まいが決められている。服飾部は服飾部で固まって休むし、別の部署なら部署ごとに部屋が割り振られる。 サラは父が手を回したおかげで、一介のメイドにしては広々とした個室を割り当てられていたが、所詮メイドの個室。 実家に比べれば粗末な内装だったし、冬は寒い夏は暑い。なによりも卑しいヘロットメイドたちも、この建物に住んでいることが信じられなかった。 誇り高い帝国貴族として育てられたサラにとって、外国人奴隷と同じ建物で寝泊まりすることなど、考えられないことだった。 サラは苛立ちながら、階段を降りていき……、そして足を止めた。 この建物の地下……、つまり奴隷たちが住まう最も卑しい部屋に続く階段から、誰かの声が聞こえてきた。 「――毎回部屋まで送らなくてもいいのよ?」 「いえ、ご命令ですから」 ひとりの少年とひとりのメイドが、階段の上で話し込んでいた。 「今回の件であなたにお礼をしたいと思ってるの。でもあなたは良家の生まれだから、普通の品は見慣れてるでしょう? なにをあげればいいのかわからなくて……」 「そんな気にしないでください。僕も勉強になりましたから、余計な気遣いは不要ですよ」 「そんなこと言わないで。お礼をさせてほしいの」 サラが息を殺して眺めていると、従姉妹が走って後を追いかけてきた。はあはあと小うるさく息を荒げているので、「静かにして」とにらみ付ければ、彼女はつばを飲み込んで呼吸を整えた。 「あれは誰?」 片方は例のメイドだろう。確か名前を、シャリアスと言ったはずだ。 ヘロットメイドのくせに織機がどうとか口にして、服飾部のメイドたちの顰蹙を買っていた女だ。 ただもうひとりの少年を、サラは見たことがなかった。 「私も詳しくは知りません。身なりからして、身分ある子息のような気がしますが……」 「何をしているの?」 「わかりません。あの少年と出かけているところは見たことがあります。今回の件で、織機やシルク糸のことを一緒に調べていたそうで」 「なら今回の件は、あの女だけの功績じゃないってことね」 サラはふんと鼻を鳴らして、二人を見下ろした。彼らは親密な様子で、未だに会話を続けている。 「……ではシルクのハンカチを頂けますか。母に贈りたいのです」 「わかったわ」 彼らがお互いに頭を下げ、別れを告げたところで、サラも階段から離れた。 その表情に、従姉妹もなにを目論んでいるか察したらしい。 「……難しいのでは?」 「ただのヘロットメイドよ。こじつけでもなんでも、誰も気にしないわ。噂があれば十分よ」 サラはにやりと笑った。 苛立ちのまま部屋の外に出たが、予想外の収穫だった。 *** 「わあ……っ!」 シャリアスは声を上げた。 陛下のご意向に沿い、機織りの技術を更に向上させるため、首都に滞在していたリョウ国の職人を後宮に招いた。 手取り足取り教えてもらいながら、一週間ほど学んだところ、以前よりもさらに品質が良くなった生地が織れるようになっていた。 「見様見真似でやっていたのが恥ずかしいわ。本来なら、これほどきれいに仕上がるのね……」 ため息をついてシャリアスが感心していると、職人が首を振った。そうしてさらさらと紙に「独学でここまでされてたのは、すばらしいです」と書いてくれた。 「ありがとう」 リョウ国の職人は、そこまで帝国語が堪能なわけではない。シャリアスはある程度リョウ国の言葉を知っていたので、筆談によってコミュニケーションを図っていた。 本格的な産業化を目指し、毎日服飾部は嵐のような忙しさだ。シャリアス自身、一日でも早く機織を習得しなくてはいけなかった。 書庫に行く機会もめっきり減り、服飾部と自室を往復する日々が続いている。 (ハンカチも用意したし……、今日は会えるかな) テーブルに置いた小箱に、そっと触れる。 連日の作業を経て、うまく織れたものの端切れから、ハンカチを用意させてもらった。 ドレスは複雑な型紙を組み合わせて作るため、どうしても大量の端切れが出る。 その端切れさえ十分な価値があったが、メイド長に頼み込み一片譲ってもらった。不器用ながら刺繍をして、今日の約束に間に合うように仕上げたのだ。 リーデルは母思いの子で、話していてもよく母親の話題がでる。お茶菓子は、母親が持たせてくれるものらしい。 (そういえば、リーデルの実家についての、お話は聞いたことないのよね……) 家族の性格や好みの話をされたことはあっても、どういう家柄なのかは聞いたことがない。そもそもそういう話題にはならない。 基本的に宮廷の使用人は、自分たちの家柄について語ることはしない。宮廷で与えられた役職や階級が全てであり、そこに身分は関係ないからだ。 男爵家出身のメイド長の命令に、侯爵家出身のメイドが従うように、一般の社交界とはまた別の戒律が宮廷の中には流れている。 とはいえ帝国で生まれ育った者たちなら、名乗らずとも自然に把握していて、一定の配慮をし合っているだろうが、あいにくシャリアスは外国人奴隷。 自然に耳に入るような環境にはなく、立ち振る舞いや身ごなしからなんとなく把握しているだけだ。 「シャリアス」 そんなことを考えながら、機織に勤しんでいるとおずおずとミアが近づいてきた。 シャリアスは一旦手を止めて、顔をあげた。 「どこかの兵士がいらっしゃってるの。今すぐに会わせろって……。なんだか怖くて」 「わかったわ」 もしかしたら、リーデルの予定が変わってしまったのかもしれない。もしくはメイド長の呼び出しの可能性もある。 シャリアスはすたすたと部屋の外へ移動して――、思わず足を止めた。 見えた男の制服は、皇帝直属の騎士を示す白でも、警備兵を示す紺色でもなく、青。 明らかに、兵士ではなかった。 (監察官(ケンソル)……!) 監察官(ケンソル)は、宮廷で最も恐れられている役職のひとつである。貴族の不正、素行、規定違反などを監視し、場合によっては糾察を行う。 監察業務を行う第三者として各領地や政府に配置されており、宮廷では使用人や宮廷貴族たちに、監視の目を光らせていた。 そんな重要な役目を担う役人が、どうして一介のメイドに声をかけるのか。 「シャリアス・オスハリアで間違いないか?」 「は、はい」 シャリアスが頷くと、監察官(ケンソル)は両手を差し出すように言った。 「捕縛させてもらう。話したいことがあれば、聴取の中で話せ」 「は?」 そうしてシャリアスの手をつかみ、後ろにねじ上げた。シャリアスが驚くよりも先に、周囲から悲鳴が上がった。 「ど、どういうことですか!?」 「後で話す。今はおとなしく連れて行かれろ」 ――そうしてシャリアスは、地下牢に連れて行かれた。 *** ラフテルは、緩やかに目を覚ました。 窓の日差しを見る限り、どうやら穏やかな朝のようだ。 ラフテル・ディ・ヴァシレウは、ヴァーシル帝国の第六代皇帝であり、ラフテル二世でもあった。ヴァシレウ家の当主であり、稀代の賢君とも静かな咆哮を持つ獅子とも称されている。 ラフテルはその金髪をかきあげながら、寵臣を呼んだ。 「アレン、水」 「私は水ではありませんよ」 しかし寵臣はすぐさまやってきて、水の入った器を差し出した。 ラフテルは無造作にそれを受け取り、飲み干した。 「そもそも私は陛下の書記官であって、従者ではないのですが……」 「同じようなものだろう」 「でしたら、ご側室をお側に置くのはどうでしょう。ラシャーナ皇妃がいらっしゃってますよ」 「話がつまらん」 すげない返事に、寵臣は肩をすくめた。 身の回りの世話をする人間が少ないのは、ラフテルが追い払っているからだ。 国政に苛立っている時に使用人に不手際をされたら、首を飛ばさない自信がなかった。 自分の名声と使用人の命を守るためには、この書記官長にあくせく働いてもらうしかない。 「飯」 「……お目覚めが遅かったので、冷めてますが」 「かまわん。出せ」 手足を洗い、冷え切ったまずいスープを口に流し込んでいると、すぐに着替えが差し出された。 まだ食事も終わってないというのに、さっさと着替えろと言いたいらしい。 「少し時間に遅れております。大臣たちがお待ちです」 「待たせておけ。どうせ同じ話を繰り返すだけだ」 少しの遅れどころか、いつもより数時間ほど目覚めが遅い。 大臣たちは何時間も空いた玉座の前でひざまずいているだろうが、彼らの膝と引き合えに、皇帝が休めたと思えば、十分な国益だろう。 ラフテルはちらりと窓を見た。 空は少し白んでいて、数ヶ月前の青々しい空とは明らかに質が違った。 「……長くやりすぎたな」 「ええ。また冬が来ますね」 長年ヴァーシル帝国とオスマル国は小競り合いを続けている。 その理由が、この冬だ。帝国とオスマルの前線は、秋から冬にかけて大地が凍りつく。 野営もままならない有様で、帝国は冬になる前に兵を撤退させる必要があった。 オスマルは冬になるまで、のらりくらりと攻撃を交わすだけ。 帝国は毎年の出兵に戦費がかさみ、積もりに積もった金額は座視できないほどの額になってきた。 耄碌してきた大臣たちは、先の見えない戦争に及び腰だ。 「紅茶をいれろ」 「……ですが」 「早くしろ」 寵臣の文句有りげな視線を無視しながら、ラフテルはなるべくゆっくりと朝食を取り、食後の甘味と紅茶を楽しんでいた。 すると遠くから、ぱたぱたと何者かが走ってくる音が聞こえた。 例によって、この宮殿には人がいない。 突然の訪問者を取り次ぐ者はおらず、足音はまっすぐ皇帝の部屋の前で止まった。 護衛の騎士たちと、一言二言会話を交わし、程なく扉が開いた。 「アレン様ッ……!」 騎士たちを押しのけながら入ってきたのは、年端の行かない少年だった。 「アレン様はいらっしゃいますか!?」 リーデルは取り乱した様子で部屋に入り、アレンを見つけてほっと息を吐いた。 「……あっ」 続けて寝台に腰を下ろした皇帝を見つけ、慌てて足を止めた。 「リーデル、陛下の御前です。控えなさい」 「申し訳ございません……っ!」 もはや昼に近い時刻。とっくに皇帝は会議に向かっていると思っていたのだろう。 「今すぐに出ていきなさい」 「はいっ! 大変失礼いたしました」 一方のラフテルは勢いよく飛び込んできた少年を、じっと眺めていた。 彼の足元は泥で汚れていて、額には汗がにじんでいる。 「アレン、話を聞いてやれ。急ぎのようだ」 主の言葉に、アレンは一瞬戸惑いを見せた。 「……失礼いたします」 しかし結局は皇帝に向かって頭を下げると、リーデルを部屋の端へ連れて行った。 リーデルがぼそぼそと、アレンに耳打ちする。 直後アレンは目を見開き、声を上げた。 「シャリアスが?」 寵臣から放たれた聞き慣れない名前に、ラフテルはぴくりと眉を上げた。 「陛下、すこし席を外してもよろしいでしょうか」 頭を下げた寵臣に、皇帝はにやりと笑った。 「ダメだ」 ぎくりと体を揺らした寵臣に、ラフテルの機嫌はすこし上向きになった。 この男が、取り乱すのは珍しい。 「お前が最近目をかけているメイドのことだな?」 「…………目をかけているという程のものでは」 「話せ」 脅すように言えば、アレンは沈黙した。頭を下げたまま、なかなか顔を見せない。 それでも頬杖をつき、しつこくその黒髪を眺めていると、アレンはとうとう折れた。 「――監察官(ケンソル)に捕縛されたそうです」 「ほう?」 「事情はわかりませんが、間諜、もしくは密通の容疑で拘束されました。深夜、度々見知らぬ男と話していると密告されたようで――」 「それ、僕なんです」 すると間に入るように、リーデルが顔を上げた。 「彼女と話していたのは、僕なんです。ですので監察官に事情を説明しようかと思いまして……。その前にアレン様にご報告差し上げようと」「バカを言うな」 かぶせて言えば、リーデルはその小さな顔を強張らせて黙り込んだ。 「毎晩男と話していただけで、監察官に捕まるわけあるか」 ただの使用人となる宮廷のメイドに、なぜ帝国貴族の娘が志願するのか。宮廷で教養を学ぶためなのはもちろん、宮廷に集まる有望な子息たちと出会うためだ。 親に取り決められた婚約者たちが、宮廷で顔を合わせることも珍しくなく、彼らの交流は特に禁じられていない。 皇帝のための後宮と言えども、兵士や官吏といった男たちも山ほど行き来するし、シルク生地の一件のように外部から職人を招くこともある。 男と話していた程度で、監察官に処罰されるわけがない。 つまり男と話していた事自体はどうでもよく、誰かしらの意図(・・)によって女は捕まったとしか考えられない。 「お前が監察官(ケンソル)の前に出てどうする? 女との会話を事細かに話したとして、あの女が間諜ではないとどうやって証明するんだ?」 「……それは」 「お前はたかがアレンの従僕(・・・・・・)だろう?」 「……陛下」 少年をかばうように声を上げた寵臣を、ラフテルはじっと見つめる。 「本当に、間諜ではないんだな?」 「……リーデルに様子を見させていましたが、今のところそのような傾向はありません」 その返事を聞いて、ラフテルは勢いよく立ち上がった。 「出かけるぞ」 「は?」 ラフテルは鈴を鳴らした。 すかさずやってきた使用人に、着替えを手伝うように命じた。ラフテルは立ち上がり、羽織っていた寝間着を床に落とした。 「なにをされるおつもりですか?」 戸惑いの目を向ける寵臣に、ラフテルはニヤリと笑う。 「後宮は私のものだろう?」 ラフテルはばさりと上衣を羽織ると、早足で部屋から出ていった。背中で寵臣のため息が聞こえたが、気が付かないふりをしてやった。 *** ――シャリアスは意識を朦朧とさせていた。 かれこれ三日ほど、この地下牢に閉じ込められていた。 「これはなんだ?」 そうして、ずっと同じ質問を繰り返されていた。 「ハンカチです。お世話になった方へ、お礼としてお送りするものでした」 「毎日会っていた少年か?」 「はい。しかし毎日ではなく、週に一度か、二度ほどです」 ほとんど眠ることは許されず、狭苦しく薄暗い部屋の中、ひたすら同じ質問を繰り返し答えさせられていた。 「その少年は今、どこにいる?」 「存じません。ただ書庫に行くときに、ご厚意で送り迎えしていただいておりました」 「服飾部のメイドは、その少年のことは知らないそうだ。どんな立場なのか、わかってるんじゃないのか?」 「とある方の、従僕です……」 シャリアスは何度も何度も、彼らの質問に答えた。監察官の聴取は、とにかくしつこい。 ときにシャリアスを怒らせようとしたり、励ましたり、脅してみたり。情報を小出しにしては、シャリアスを揺さぶった。 この三日で、シャリアスは疲れ切っていた。 「とある方とは?」 「……言えません」 それでもシャリアスは、アレンたちの名前を挙げなかった。 今シャリアスは、密通の容疑がかけられている。 密通の容疑がかけられたヘロットメイドから、皇帝の寵臣の名前が出るのは、あまりに心証が悪すぎた。 「なぜ書庫に行った? なぜ女の身で戦争のことを調べる? 服飾部に勤めているのに、歴史や地図まで調べていたし、関税まで書き留めてあるじゃないか」 「シルク糸が安定して輸入できるか、調べていたのです。オスマルだけでは輸入量に不安があり、他に取引できる国を探していました。地図を調べていたのは陸路や海路から、最も安定しそうな輸入先を見つけるためです」 「パトラ公国では、女は書物を読んではならないだろう。なぜお前は読めるんだ?」 「褒められた行為ではないと言うだけで、読むことは可能です。多くの女性は、人目のつかないところで本を読みます」 シャリアスが毅然として答えたが、それも徐々に限界が近づいていた。 「……今はまだ聴取だけだが、もう少し経てば拷問に切り替わる。その前に、なにかひとつでも言ったほうがいいんじゃないか」 「言えないのです。お察しください」 頭を下げたシャリアスに、監察官は舌打ちした。 そうしてテーブルから立ち上がった。 地下牢から出ていく監察官の足音を聞きながら、フラフラとベッドへ移動する。 (これで、すこしは休める……) シャリアスを尋問する監察官は、数人いた。彼らが交代までの数時間が、シャリアスに与えられた唯一の休憩時間だった。 シャリアスはベッドの上で丸くなり、両手を握り込んだ。 「……寒い」 地下牢は恐ろしく寒かった。 食事こそ与えられていたが、それも冷え切っていて、口にすると逆に体が冷えてしまった。 熱が出ている気がしたが、腕を拘束されている以上確かめる術はない。 (もう、だめかも……) すぐに次の監察官が来る。水を掛けて起こされたくなければ、起きておく他ない。 そう思うのに、体が動かない。 熱く、重く、そして冷たかった。 ――シャリアスはそのまま、目を閉じてしまった。 *** 服飾部は大騒ぎだった。 なにせドレスの一件で立て続けに手柄を立てたシャリアスが、監察官に捕らえられたのだ。 一度監察官に捕らえられれば、ほとんどの使用人たちは無事に戻っては来れない。 シャリアスは元々怪しかったとか、知らない言語で男と話しているところを見ただとか、噂は次々に尾ひれがついて、みんな無責任なうわさ話ばかりしていた。 シルク生地についての計画も、当然中止している。最も詳しいメイドが捕まって、誰も織機を扱えないのだ。 メイド長も事態の収拾に奔走しており、仕事場にも顔を見せない。 「……さすがに、やりすぎでは?」 服飾部の一角、涼しげな顔で紅茶を飲んでいたサラに囁くのは、彼女の取り巻きのひとりだ。 「私はなにもやってないわよ」 「でも、監察官に言ったのは確かだし」 「見ただけよ。調べたのはあちらでしょう」 ただサラがやったことは、ヘロットメイドが見知らぬ少年と話していると報告しただけだ。 毎日書庫で調べ物をして、なにかを書き留めており、少年となにか情報を共有していると、監察官に話しただけ。 サラは二年ほどメイドとして働いていたが、実際あの少年を一度だって目にしたことはなかったし、書庫に入り浸るヘロットメイドだって見たことはなかった。 (ヘロットの分際で、紛らわしいことばかりするのが悪いのよ) 元々ヘロットメイドというのは、外国からやってきた貴族奴隷という特性上、間諜として疑われやすい。 実際今まで何人も告発され、処罰されるところを見てきた。 ヘロットは本来、愚かで、醜く、教養がなく使用人である。床を掃除するのが精々で、尊い皇妃たちが身につけるドレスに触れてはならないのだ。 「とにかく、このままシルクの事業が潰れてくれれば、マーシャもどうにかなるわ」 ドレスを手掛けたメイドが反逆罪で捕まったとなれば、そのドレスに袖を通したマーシャも無傷ではいられない。 マーシャ自体、人望を集めるような性格ではなく、取り柄は家柄の名声だけ だ。その名声に傷をつければ、確実に引き摺り下ろせる。 サラは紅茶カップを、固く握った。 (……私には、時間がないのよ) まもなく、二十を迎えてしまう。そうなれば新たな皇妃としては鼻につく年齢となり、今のつまらない婚約者と結婚しなくてはならない。 従姉妹のメイドが、背中からサラにそっと囁いた。 「改めてお話を聞くため、監察官様がお会いしたいそうです」 「……わかったわ」 あともうひと押しだろうか。 サラは立ち上がると、服飾部を後にした。 *** 「ちょっとだけでもいいから、会わせてよ!」 ミアは守衛に向かって、大声で叫んだ。 地下牢に閉じ込められて、もう三日。 狭苦しい牢の中、満足な食事も与えられずに尋問を受けていることを考えると、もう限界が近づいているはずだ。 「シャリアスがスパイなわけないじゃない。さっさと出して……!」 ミアたちは毎日地下牢に押しかけて、面会を希望していた。 しかし兵士たちは間諜の容疑がある人間は、人に会わせられないと言って、すこしも取り合ってくれなかった。 しかし本当は違う。我々が外国人奴隷だから、どう扱ってもいいと思っているのだ。 「ねえ、シャリアスはシルク生地を作らないといけないのよ? このまま死なせたら、陛下のご意思に背くじゃないっ!」 再び守衛に掴みかかるが、相手は男。あっけなく突き飛ばされて、ミアは地面に尻餅をついた。 「大丈夫?」 ヴィネットの手を借りながら、立ち上がろうとして……目を見開いた。 「監察官様はどちら?」 この騒動を起こした張本人が、目の前に現れた。 「ちょっとアンタ!」 ミアは勢いよく立ち上がり、彼女に詰め寄った。しかし周囲の侍女たちに阻まれて、腕をつかむことすらかなわない。 「なによ急に。だからヘロットメイドって嫌だわ。乱暴なんだもの」 「あなたのせいでこんな騒ぎになっているじゃない! うその報告をして、なにが楽しいわけ!?」 「うその報告なんてしてないわよ」 「したでしょ! シャリアスは別に、変なものなんて調べてなかったわ!」 伯爵家のサラは、いつもミアたちを毛嫌いしていた。 服飾部に来た当初、雑用を押し付けられたのは、彼女が周りのメイドを先導したせいだ。 服飾部で働くメイドたちは、彼女の機嫌を損ねないようにいつもビクビクしていた。 「本当に間違いじゃないって言える!? あなたのせいでシャリアスが死ぬかもしれないのよ!?」 すると、サラはふっと笑った。 「……死ぬって何? ヘロットメイドの命ひとつで、間諜の可能性が潰せるのなら、そちらのほうがよろしいのではなくて?」 「なっ……」 あまりに傲慢な態度に、思わず言葉を失ってしまう。 ミアはぐっと歯を食いしばった。 「私、アレン様に会ってくる……っ!」 こうなったら罰せられるのを覚悟して、書記官長の元へ行くしかない。 ミアは勢いよく後ろを向いて、書記官長がいるだろう陛下の住まいと向かおうとして……その瞬間、足を止めた。 (……なに?) 今いるのは地下牢へ続く、門の前。 罪人たちの脱走を阻むため、たくさんの兵士たちが建物を取り囲んでいる。 その兵士が、なぜか次々とひざまずいていた。それぞれ驚いたように身を固め、すぐさま地面に向かって頭を下げた。 ミアは目を凝らし、そして同様に固まった。 「えっ……?」 見たこともないような美しい男が、そこに歩いていた。 いや、一度見たことがある。 入宮の折、この男に挨拶した。麗しく、そして恐ろしく、とても顔は見られなかったが、その輝く衣は見たことがある。 ミアはひざまずくのも忘れて、立ちすくんだ。隣のヴィネットもローラも、同じだった。 「陛下、私が行きます」 「ダメだ」 「陛下が行くようなところでは……」 「そこで待っていろ」 男は金の髪をかき上げながら、まるで神殿に入るかのような優雅な動きで、地下牢に入っていった。 ミアも周囲も、ただただ立ちすくんでいた。 かろうじて理性の残っていた者だけはひざまずくことができたが、その者たちも今なにが起こったのかは、理解できていないだろう。 ――そうしてしばらくして、その美しい男は何かを抱きかかえて戻ってきた。 長椅子に、その塊を下ろしている。 「シャリアス!」 ヴィネットの悲鳴に、ミアはハッと我に返った。 「……シャリアスッ!」 そして自分も叫び、彼女の元へ駆け寄った。とっさに手を取り、そしてゾッとする。 シャリアスの細い手は、あまりにも冷たかった。 「メイド長、宮廷医でも呼んでやれ」 「はい」 「私は戻る」 美しい男はメイド長から礼を受けると、その場から立ち去っていった。 嵐のような出来事に、誰もが目を見開いて言葉を失っていた。 沈黙を破ったのは、この後宮を治める書記官長だった。 「この騒動を、最初に報告したのは誰ですか」 しん、とその場が静まり返った。 「監察官。誰に報告されましたか」 「……それは」 突然の皇帝の来臨に、地下牢の前でひざまずいていた監察官は顔を上げて、言いよどんだ。 しかし書記官長にじっと見つめられ、結局は口に出した。 「サラです。服飾部にいるメイド、サラから報告を受けました」 書記官長は頷いた。そして引き連れていた兵士たちに、手を振った。 「では、捕らえてください」 「なっ……!?」 サラが驚いたその一瞬、兵士たちは彼女の腕をつかみ、拘束した。周囲のメイドたちは押しのけられ、サラは地面にひざまずかされる。 「アレン様!? 突然なにをされてるのですか、私が何者かご存知ないでしょう!?」 「伯爵家の次女、サラですね? 父はヴィアーレ家の領主で、姉はロッド侯爵家の夫人でしょう?」 間髪を入れずに言い当てられて、思わずサラは黙り込む。 「……私はないものをあるように見せかける人間が、最も信用できないと思っています」 その低い声に、その場にいる誰しもが身をすくめた。 この寵臣は常に使用人に寄り添い、目を配ってくれる。身分低い者にも優しく、話を聞くことを厭わない。 しかし一度逆鱗に触れた者には、容赦のない決断が下すことを、古いメイドほどよく知っていた。 「わ、私は……、ただ、報告しただけで……っ!」 「忠信に基づく行動であるならば、きちんと取り調べに応じなさい」 「誤解よ!!!」 兵士に連れて行かれそうになり、サラは雷のような大きな声を上げた。どこから出たのかと思うほど、強い力で兵士を振りほどき、書記官長に必死に弁明した。 「そもそも、あの女が不審な男と会っていたのが問題で……っ!」 そこでサラは、ハッと気づいた。 書記官長の後ろ、長椅子に横たわった女の顔を覗き込み、熱を確かめている少年が目に入った。 「あの少年です!!」 必死に指差した。 「あの少年と会っていました。あの少年に贈るためのハンカチを持っているでしょう!? スパイじゃなかったとしても、密通の証拠になるわ!」 サラは必死に言い募った。 ここで折れれば、いままでの努力全てが無に帰すことを、本能的に理解していた。 「私は後宮で、あの少年を見たことがありません! 突然新入りのヘロットメイドと、見知らぬ少年が定期的に顔を合わせるなど、不審すぎるわ!」 金切り声に、さすがの少年も自分が話題に出ていることに気づいたらしい。 少年は立ち上がると、ひざまずいたままの監察官に近づいた。 「監察官様でしょうか」 「あ、ああ……」 監察官は戸惑った様子で頷き、立ち上がった。 「見知らぬ少年と言われましたので、ご報告させて頂きます」 少年は監察官に向かって、緩やかに頭を下げた。 「第十七皇子のリーデル・ディ・ヴァシレウです。まだ幼く、爵位もないため、陛下から書記官長の従僕を担うように言いつけられております」 「ハンカチの件につきましては、シャリアス様が私の母に……、つまり先帝皇妃であるシャリナ太妃にお贈りするために作られました」 経験が少なく教養もないために、書記官長に師事して日々励んでいること。 シャリアスと会っていたのは、書記官長の指示であること。 「私自身はシャリアス様の言動を監視するために、書記官長がお送りになりました。日々シャリアス様と接しておりますが、二心ある振る舞いは見受けられません」 書記官長とともにシャリアスを調べ、間諜ではないという結論に至っていること。 少年は淡々と理由を述べ、監察官に返した。 「――以上になります。他になにかございましたら、皇帝陛下(兄上)にお聞きになってください」 監察は政治機関とは切り離された、別個の機関だ。そこに聖域はなく、時として皇族も糾弾の対象になるために、どんな地位にあろうとも監察官には一定の敬意を払う。 リーデルはその礼儀に則って、丁寧に接した。 監察官は突然皇子に頭を下げられて、驚きのあまり固まっていた。次に監察官が動いたのは、サラのつんざくような悲鳴が聞こえてからだった。 「だから、私は怪しいメイドがいたから、報告しただけよ! ヘロットメイドのくせに毎日書庫に行くし、毎日人と会ってる! 文字も読めるし、外国語も喋れるわ! そんなの、おかしいじゃない!」 「そもそも陛下は、どんな身分でも書庫の出入りはお許しになられています。ヘロットメイドが出入りしたとしても、それが問題になることはありません」 「でも、おかしいわ! あの女が紛らわしいことをしただけなのに、どうして私が捕まるわけ!?」 すると書記官長が、サラを見つめた。 憐れむような、呆れるような、ため息交じりの声だった。 「サラ、あなたは反逆罪に問われているのですよ?」 「……は?」 「シルク生地の産業化は、陛下のご命令です。シャリアスはシルク生地を主導しており、この事業には欠かせない人材であることくらいは、理解していたでしょう?」 「それを排除しようとしたことは、陛下のご意思に背きます。あなたが誤解したにせよ、元から悪意があったにせよ、シャリアスが重要な役目を持っていることを理解しているのなら、慎重に行動すべきでした。たかがヘロットメイドだと軽視したのは、紛れもなくあなたの罪です」 「でも……、あの女が、怪しいから……っ!」 それでもなお言い募るサラに、罵声が飛んだ。涙目でシャリアスを抱きかかえたミアが、大声で叫んだ。 「怪しいことなんて何もしてないわよ! 書庫に行くのは、織機のためだったってみんな知ってたわ!」 「本当に知らなかったとしたら、あなたが仕事をしてなかったからじゃない! 陛下の命令に背き、職務も全うせず、服飾部の仕事を放棄してたから!!!」 その悲鳴とも言えるような訴えによって、サラはとうとう言葉を失った。 地下牢はしんと静まり返り、そのうちミアたちのすすり泣く声が聞こえてきた。この騒ぎの中、シャリアスはぴくりとも動かなかった。 アレンはその青白い横顔を見て、ため息を吐いた。 「――とにかく、シャリアスは連れて帰ります」 そうして未だなにも言えない監察官に、軽く会釈をした。 「なにかあれば、私のもとに来てください。シャリアスについては私が責任を取ります」 「……は」 立ち去っていく彼らを、監察官は呆然と見送った。
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