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第一章 シャリアスの入宮 3
アレンは眉間にシワを寄せながら、早足で回廊を歩いていた。
誰もが書記官長の不機嫌さを察したようで、いつもはにこやかに接してくる使用人たちも、回廊の端により、頭を下げるだけだ。
「――失礼します」
アレンは二度ほど扉を叩くと、そのまま部屋の中に、そのスラリとした体を滑り込ませた。
その部屋の真ん中には、ひとりの男が座っていた。退屈そうに奏上に目を通している。
「外で大臣たちが嘆いてましたよ」
「放っておけ」
ちらりと奏上の束を見下ろせば、そこにはオスマルのことばかりが書かれていた。
「不服そうだな?」
じっと奏上をにらみつける寵臣に、皇帝はにやりと笑った。
「……いえ」
ぽつりと答えたが、その返事を皇帝は信じていなさそうだ。にやにやと面白そうに、アレンの顔を見上げ続けている。
実際皇帝が連れ出さなければ、問題になっていたのだろう。
不当な拘束だと明らかになっていたとしても、監察官の裁定を軽んじれば寵愛を盾にしたと言われただろうし、リーデルのような皇族ならより大きな問題になる。
その点皇帝は、監察官唯一の聖域。皇帝が無罪と言えば、どんな死刑囚も無罪になる。
だが皇帝が自らの手で、女を地下牢から出すというのは……。
アレンの眉間にさらにシワがよった。
「珍しいな。お前が女を目にかけるのは」
皇帝は椅子を座り直し、頬杖をついた。
「ヘロットはダメだ。せめてメイトコイの女にしろ。その身分なら、側女に与えてやれる」
「陛下」
「ヘロットメイドは皇帝の女奴隷。どうなろうと私の女であり続ける。私が戦で手に入れた、戦利品だからな」
同じメイドでも、ヘロットとメイトコイは身分が違う。
ヘロットは皇帝の家財で、メイトコイは使用人だ。人ではないヘロットは、帝国人と結婚ができない。
「にしても、お前が気に入るほどの女なら、一度部屋に呼んでみるのも面白そうだな。……そこまで見てないが、それなりに顔も美しかった」
「陛下」
アレンは珍しく、大きな声を出した。
「陛下には些末なことでも、人ひとりの人生です。ヘロットとはいえ、ここで骨を埋める人間。陛下が想いを注がれている民と同じように、扱われてください」
どうやら本気で言っているらしい。
めったにない寵臣の叱責に、皇帝は目を見開いて驚いていた。そうしてしげしげと、アレンを見つめた。
「……本当に気に入ったんだな」
アレンは頭を下げた。
「いえ。ただの身分低い娘です。会話を楽しまれるならともかく、陛下の役には立てないでしょう」
「アレン」
「……皇妃様たちがお待ちですよ。陛下が後宮にいらっしゃるのを、楽しみにされています」
皇帝が反論しようとすると、どたばたと足音が聞こえてきた。リーデルの足音とは違う、体重の重たそうな足音だった。
「陛下! 陛下はいらっしゃいますか!」
その声に、皇帝は顔をしかめた。
長年聞き飽きてきた、無能な臣下たちの声だ。
「陛下はどのようにお考えですか!? オスマルに対し、このまま戦争を続けられるおつもりですか!?!?」
「陛下! 早くご決断をっ!!
「お考えをお聞かせください!」
入室こそ兵士たちが阻んだようだが、臣下たちの大声は、皇帝と寵臣の雑談を遮るのに十分だった。
いくら冬が近いとはいえ、不躾が過ぎる。
「……追い払って参りましょうか?」
「いや」
皇帝はさらりと金髪をかき上げて、窓に視線を送った。冷たくなった風が、かたかたと窓のガラスを揺らしていた。
「私は白狐の毛皮を好むんだが」
「……は?」
「オスマルの毛皮は上質で、なかなか着心地がいいらしい」
皇帝は立ち上がり、窓を開けた。
予想通り冷たい風が入ってきて、皇帝の美しい金髪がふわりと踊る。
「毛皮を大量に買い込もうか」
「は?」
「今年は厳冬らしい。国民に毛皮の上衣を奨励しろ。関税を撤廃し、オスマルから毛皮を大量に輸入する」
「……敵国に金を与えるようなものでは?」
「なに、民間に金を流すだけだ。問題はない」
アレンはしばらく黙り込み……、そしてなにかに気づいたように顔を上げた。
「そろそろオスマルを攻めるのも飽きただろう?」
見上げれば、皇帝が笑っていた。
「――終わらせよう」
***
シャリアスは、よたよたよろけそうになりながら、カゴいっぱいに入ったシルク糸を運んでいた。
かごに入っているシルク糸は、そのどれもが美しい艶と色を持ち、眺めているだけでもうっとりするほどだった。
(結局オスマルじゃなくて、シルク糸はリョウ国で輸入することになったのよね……)
(リョウ国のほうが、シルク糸の質はいいものね。値段が張るから大衆化はできないけど、上流階級用にするならこっちのほうがふさわしいし……)
そのあたりは、皇帝の鶴の一声で決定したらしい。
リョウ国の外交官と直接交渉して、あっさりシルク糸の輸出を取り付けてしまったのだとか。
「陛下って、商才もあるのね……」
シャリアスはぽつりとつぶやいて、建物の角を曲がった。
大量のシルク糸はシャリアスの細腕には重たく、なかなか身軽には歩けない。
「あっ」
すると角を曲がった瞬間、ばったりとメイドたちと鉢合わせした。
いわゆる貴族の子女である、一般の宮廷メイドである。
「あなたヘロットメイドよね? 早く道を空けなさ……」
と、一人のメイドが言い掛け、それを後ろのメイドたちが阻止した。
ガシッと腕を強くつかみ、違う道へ引きずり込んでいく。
(ばか! あれはシャリアスよ! ヘロットメイドのシャリアス! 顔を知らないの!?)
(シャリアス?)
(知らないのっ!? 皇帝陛下直々に助けられたっていうメイド!!)
(彼女を罰しようとしたサラが、逆にアレン様に罰せられたのよ! 伯爵令嬢なのに、宮廷を追い出され、領地にまで帰らされたんですって……っ!)
(アレン様と陛下が後ろ盾だなんて、私達みたいな弱小貴族のメイドは頭あげられないわよ!!!)
彼女たちなりに小さな声で話しているつもりだったようだが、シャリアスには丸聞こえだった。
すでに道は空いたが、すれ違った先輩メイドに挨拶しないわけにもいかない。
シャリアスは彼女たちにぺこりと頭を下げると、再びよたよたと歩き出した。
思わずため息が出てしまう。
(…………なんか最近、ずっとこの調子なのよね)
きれいな部屋に自室を変更させられたり、食べ物がいいものになったり。
書庫に行くときなど、なんと案内役がつくようになってしまった。
「はぁ……」
どうやら自分は、皇帝陛下に助けられたらしい。
リーデルの訴えを聞き、不当な捕縛だと判断した陛下が、自ら地下牢に入ったのだとか。
たとえ不当な捕縛であっても、監察官の裁断が下らなければ、地下牢からは出せない。
しかしシャリアスは、体力の限界を迎えていた。緊急性が高いと判断した陛下が、無理やり出したという経緯のようだ。
後々シャリアスを診察した宮廷医から、あと半日遅ければどうなっていたかわからないと言われたので、陛下の判断は間違っていなかったのだろう。
(ぜんっぜん、覚えてないけど……)
……そう、シャリアスはその一連の出来事を全く覚えていなかった。
地下牢で意識を落とし、次に目を覚ましたときは自室だった。宮廷医が自分を診察していたので、とても驚いただけ覚えている。
シャリアスは一週間ほど高熱におかされ、立ち上がられるようになってからはもう全てが終わっていた。
つまり自分を告発したらしいサラは服飾部からいなくなっていて、シャリアスに掛けられた容疑はすべて撤回されていた。
療養中、リーデルやアレンが何度かシャリアスの様子を見に来たようなのだが、それも知らない。
……つまりシャリアスは、陛下から助け出されたのだと言われても、いまいち信じきれていなかった。
(さすがに、突拍子もなさすぎる……)
理屈はわかるが、皇帝陛下がたかがヘロットメイドを助けるなんて、ちょっと考えられない。
(多分アレン様たちが、手を回してくださったんだとは思うんだけど……)
「はああ……」
シャリアスはため息を吐いて、首を左右に振った。
(……うん。もう考えるのはやめよう)
陛下に助けられたからと言って、シャリアスの仕事が減るわけではない。現在のシャリアスの使命は、シルク事業を成功させること。
自分が捕縛されたせいで、すっかり止まってしまったシルク事業を一日でも早く立ち上げなくてはいけないのだ。
シャリアスはつま先に力を入れて、歩くスピードを早めた。
そうして曲がり角に差し掛かり……、再び誰かと鉢合わせした。
「あっ……」
急に足を止めたせいで、いくつかのシルク糸が床に転がり落ちる。
「おっとすみま……、シャリアスさん?」
曲がり角に現れた黒髪に、シャリアスは目を見開いた。
相手もまた驚いたようで、目を見開いている。
「も、申し訳ありませんっ……!」
シャリアスは慌てて端によって、書記官長に道を譲った。
「もう動いても大丈夫なんですか?」
「おかげさまで、すっかりよくなりまして……っ」
「なら良かったです。かなりの熱でしたからね」
「は、はい……。この度は、本当にいろいろとありがとうございました」
シャリアスは深々と謝罪した。しかしそれ以上、会話は見つからない。
「……」「……」
二人の間に、気まずい沈黙が落ちた。
(どうしよう……。なにか喋らないと……)
とりあえず、お見舞いのお礼だけでもしなければ……と、シャリアスが顔を上げた瞬間、今度はアレンが口を開いた。
「とりあえず謝罪させていただいてもよろしいですか?」
「……は?」
シャリアスが固まっているうちに、アレンは小さく頭を下げた。
「不当な密告によるものだったとはいえ、監察官に捕縛させました。申し訳なかったです」
「と、とんでもないですっ……!」
シャリアスは慌てて首を振った。
「聴取で、我々の名前を出さなかったことにも、感謝を申し上げたく……」
「いえそれは、お名前を出したら余計に私を助けづらくなるだろうと思っただけで……っ!」
あのときは間諜だけでなく、密通の容疑もあった。
その状態で二人の名前を出せば、それによって助けてもらえたとしても、後々禍根を残すだろう。
たかがヘロットメイドのせいで、皇帝陛下にお仕えする二人の名誉が傷つくのは避けたい。
「リーデル殿下にもよろしくお伝えできますか? 私のせいでご迷惑をおかけしていたら、申し訳なく……」
そうなのだ。
なんとリーデルはヴァシレウ家の血を継ぐ、正統な皇子様だった。
実力主義の帝国では、必ずしも長子が皇位を継ぐわけではない。血を血で洗うような後継者争いを経て、生き残った皇子が玉座に着く。
リーデルはそういった後継者争いのあとに生まれた皇子で、それも身分低い母親から生まれたため、宮廷内の扱いとしてはかなり低いところにあるらしい。
まだ公式の場に出たことがなく、皇子としてかなり無名なため、宮廷の人間もほとんど目にしたことのないのだとか。
(でもまさか、皇子様がアレン様の従僕をしてるなんて思わないよ〜〜っ……!)
確かにアレンの元なら、多くのことを経験できるだろうが、まさか皇子様が使用人をやってるだなんて、さすがに予想外すぎる。
「殿下なんて呼ばれたら、リーデルが落ち込みますよ。今までのように、接してあげてください」
「で、ですが……」
「今回のことも、自分のせいだと気にしてるようです。ここでシャリアスさんから距離を取られたら、余計に悲しむでしょう?」
「……わ、わかりました」
書記官長にここまで言われて、突っぱねるわけにも行かない。
「はい。よろしくお願いします」
シャリアスが頷いたのを見て、アレンも満足げに頷いた。
そうして、アレンは床に転がったシルク糸を拾い上げた。その美しい色合いのシルク糸を、まじまじと眺めた。
「……メイド長にもお伝えしましたが、服飾部はしばらく忙しくなると思います」
シャリアスは顔を上げた。
「……事業化の件でしょうか?」
「いえ。それもあるのですが、毛皮の加工を依頼したいのです。上衣に加工して、シルクの裏地をつけていただきたい。毛皮のコートを一般市民にまで普及させたいとのことで」
「け、毛皮ですか……?」
怪訝な顔をするシャリアスの一方で、アレンはしっかりと頷いた。
「ええ。陛下肝いりの政策です。毛皮の関税を撤廃しますので、それなりに安価な値段でコートが手に入るようになります。加工手順を簡易化して、一気に広めます」
そうして、「今年は厳冬になるため、陛下がそのようにされました」とにこやかに補足してくれる。
「オスマルから輸入されるのですか?」
「ええ。オスマルは毛皮も名産ですからね。戦争と国民の苦労は、別物だとお考えなのでしょう」
「……そう、ですか」
シャリアスはうつむいて、なにかを考え込んだ。その様子に、アレンはにやりと唇を歪めた。
「やはり、わかります?」
「あ、いえ。そんなことは……」
シャリアスが抱えたカゴにぽとりと落とされるのは、アレンが拾ったシルク糸だ。
アレンは急に身をかがめた。シャリアスの背丈に合わせて腰を曲げ、シャリアスに顔を近づけた。
そうして長い人差し指を、自分の唇に押し当てた。
「――他言してはダメですよ?」
シャリアスはこくこくと頷いた。
***
――それから、数ヶ月後。
本格的な冬を迎え、誰も家に閉じこもり、じりじりと春の訪れを待っているときだった。
「勝ちました!!!」
宮廷に、早馬の声が響き渡った。
「オスマルの前線は崩壊!!! 城壁を占拠し、辺境伯は捕縛し、支配下に起きました!!」
「現在帝国軍は、地方都市イスケルンまで到達し、講和を迫っています!!!」
皇帝旗が掲げられ、首都の隅々まで鐘が鳴らされた。
「大勝です!!! オスマルに大勝いたしました!!!!」
――若き皇帝は、喜びに湧き上がる帝都を見下ろしていた。
冷たい風が吹き上がり、白狐のコートが踊っている。
「喜べ。来年の冬からは、民が飢えないで済みそうだ」
その傍らで、ひざまずくのは幼い頃より皇帝に仕えてきた、若き寵臣である。
「陛下と同じ時代に生まれ、このようにお仕えできることを、これ以上なく光栄に思っております」
――ヴァーシル帝国は、オスマルに大勝した。
***
「食べる?」
「ううん。でもありがとう」
ミアにクッキーを差し出されて、シャリアスは首を振った。
シャリアスが座るテーブルの上に、どさりと荷物をおいたのは、ローラとヴィネットだ。
「もうすごいよ。どこもかしこも大騒ぎ。なんでも安いし、なんでもあったわよ」
「へぇ……、後で私も見てみようかな?」
ローラたちが買ってきた物を眺めながら、シャリアスは手元の飲み物を一口のんだ。芳醇な香りが、ふわりと鼻を抜けていく。
温かなホットワインは、冬場の代名詞と言っても過言ではない。
――オスマル戦の大勝を祝うため、帝都は三日三晩の祭りが行われていた。
宮廷もほとんどの機関が休みとなり、使用人たちはヘロットメイドも含めて休日を与えられた。
シャリアスたちは休日を利用して、都に繰り出していた。一日限りの外出許可だったが、外に出るのはこの国に来てから初めてのこと。
シャリアスたちは何日も前から楽しみにしていて、どこに行き、なにを買うか、ずっと考えていた。
「……にしてもほんとにたくさんの人が、毛皮のコートを着てるのね」
シャリアスがみんなにホットワインを配っていると、ミアがきょろきょろと周囲を見回しながら言った。
実際今見ても、道端にはちらほらと毛皮のコートを羽織っている人たちがいた。
去年までは、ウールのコートを着る者がほとんどだったらしいのだが、国主導の奨励により、ここまで普及した。
「わたしが縫ったものもあるかなあ……」
「もちろんあるんじゃない? たくさん作ったものね」
去年の秋、毛皮をコートにするようにと命じられてから、服飾部はずっとコートを作ってきた。
毛皮は扱いが難しい。最初はかなり苦戦した服飾部のメイドたちだったが、メイド長の指導もあって、今では服飾部の誰しもがコートを作ることができるようになっていた。
それらを皇帝や皇妃たちが率先して身につけ、市民たちに奨励した。関税を撤廃し、元値がかなり引き下げられた上、冬支度のためにコートを買う者には、国から一部資金が援助された。
暖かく丈夫な毛皮のコートは、またたく間に一般市民の間にも浸透し、今では多くの人達が身につけるようになっている。
「最初はオスマルに金を渡してどうするんだって、すごい批判されてたけど……」
「なーんか知らないうちに、勝っちゃったのよね……」
三人は熱いホットワインに息を吹きかけながら、首をひねった。今年の冬は一際寒く、オスマルへの遠征の道は雪に閉ざされたはずだ。
それなのに、勝った。
シャリアスは彼女たちの会話に耳を傾けながら、くるくるとホットワインをかき混ぜていた。
ホットワインの中にはオレンジとレモンが入っていて、潰すとより香りが良くなるのだ。
「――でも、シャリアスだけ全然驚いてないのよね?」
三人が、ずいっとシャリアスに顔を向ける。
急に話題を向けられて、シャリアスは目を見開いた。
「お、驚いてるけど……?」
「ううん。全然驚いてるようには見えない」
じーっとミアに見つめられ、シャリアスは慌てて首を左右に振った。
「ほ、本当に驚いてるわよ? まさか一年で勝ってしまうなんて思わなかったもの」
「じゃ、何年も掛ければ勝てるって思ってたの?」
「……うーん。そう、なるのかな……?」
そのなんとも歯切れの悪いシャリアスの答えに、みんな一斉に目を細めた。
そうしてじーっと、シャリアスを見つめた。
「教えてよ」
ミアが、どさっとシャリアスの隣に座る。ピタッと体をくっつけて、シャリアスのきれいな顔を覗き込んだ。
「自分ばっかりわかってるの、ずるくない? 私達が気づくまでもったいぶるつもりなの?」
「そ、そんなつもりじゃないのよ? ただ、私の推測になってしまうから、口にするものじゃないかなって……」
「シャリアスの推測なら正しいわよ。教えて」
ミアが迫ると同時に、他の二人も頷いた。
シャリアスはテーブルに視線を落とすと、少し考え込んでから、おずおずと説明を始めた。
「……まず前提なんだけど、オスマルっていう国はあらゆる身分の人が、あらゆる職業につくことができる国なの。国民に経済的自由権を与えるっていう、画期的な発想」
「経済的、じ……?」
「経済的自由権。今までの国は、農民の息子は農民にしかなれなかったし、他の街に引っ越すことも禁じられていた。一般市民がお店を開業することはできなかったし、国民の財産はいつでも国が徴収できるようになっていた。でもオスマルでは、誰がどんな仕事をしても、どこに住んでもいい。税金さえ払えば、儲けた分の財産はその人のものだって保証する法律があるの」
もともとオスマルは商人が作った国だ。
既存の封建社会に反発した民族が、結託して経済特区として独立したのが始まりだった。
ゆえに国民の生活や商売を優先する制度が、数多くある。
「ありとあらゆる人が商機に挑むことができるから、みんな必死に働いた。結果経済は爆発的に活性化して、それがオスマルを強国に押し上げたわ」
今までは平民がどんなに働いても、儲けたお金は領主のものだった。だから平民はそれなりにしか働かなかったし、領主も領主で既存の地位に甘んじてばかりだった。
しかしオスマルでは、身分と収入は必ずしも一致しない。能力さえあれば引き抜かれ、金さえあれば、奴隷でも家を持つことが許されている。
この大陸で、最も奴隷が豊かな国と言われる所以だった。
「そしてオスマルは軍の在り方も、画期的だった。召集制度が取り入れられていて、必要なときにだけ一般市民が兵士になるの」
建国当初から、国民のほとんどが商いをしていたため、誰も軍人にはなりたがらなかった。
結果出来たのが召集制度で、役所から声をかけられたときにだけ、傭兵として国軍に雇われるのだ。
「平時から訓練を受けているから、武器は使えるし、なにより数が多い。平時に軍を用意しておく必要がないから、軍費も少なくて済む。その分を徴兵した兵士たちへの褒賞にしてるわ。だからものすごく、士気が高いの」
「……そんなの、最強の国じゃん」
「ええそうね。だからこの国に対して、輸出制限という強い姿勢を取れたのよ。そして帝国は、中々その現状を打破できなかった。何代も、何代も、同じような闘いを続けてきたわ」
「えっと……、じゃあどうやって帝国はその国に勝ったの?」
ミアは首を傾げた。
シャリアスの説明は、オスマルがどれほどすごい国なのかわかるだけで、なぜ帝国の勝因の説明にはなってないように思えたからだ。
そんなことを聞けば、シャリアスは頷いた。
「そうね。だから陛下は毛皮を買ったの」
「…………つまり?」
「たくさん毛皮を買ったでしょう? 国民全員に毛皮を配る勢いで、オスマルから毛皮を買い尽くした。それも、かなりの高値で」
オスマルの商人は、決して商機を逃さない。交渉上手で打算的だ。帝国が厳冬なのを察して、毛皮の値段を釣り上げた。
しかし皇帝は、それでも毛皮を買い尽くした。
「そうなると、狩人に転職する人が増えるわ。山に入って獣を狩れば狩るほど、すごい収入になるもの」
皇帝はなにも、毛皮だけを買い漁ったわけではない。
薬草や、きのこ。葬儀に使う鳥の羽根やイモ類といった、山に関係する多くのものを、オスマルから買い漁った。
どれもこれも、山に入らなくては手に入らないものだ。
「狩りというのは、すごく山奥まで行くわ。特に高値になる大型のシカや狐はなおさらで、一ヶ月や二ヶ月、山にこもることも珍しくない」
シャリアスはぎゅっと手元を握った。
「……でも山というのは、連絡する手段がないの」
「あっ……」
シャリアスの言葉を聞いていた三人は、そこで気がついたようだった。
「招集に気づいても、山にいたらすぐには戻ってこれないわ。みんな次の戦争は、春になると思ってたもの」
帝国との戦争は、毎年春から秋にかけて行われていた。
故に多くの狩人たちは、春までに戻ればいいと考えていたはずだ。この厳冬がオスマルを味方していて、帝国から金を吸い上げる好機だとばかりに、山狩りに明け暮れていた。
しかし皇帝は、今年に限って冬の始まりに攻め込んだ。
毛皮を受け取る商人の護衛に見せかけて、少しずつ兵士を国境付近に送り込んだ。
「送り込む兵士は少数で良かったわ。破るのは国境の城壁だけ。そこさえ破ってしまえば、占領して供給拠点にすればいいもの」
数も多く、士気も高いオスマル軍だが、集まらなければ意味がない。
結果オスマルの城壁は破られ、長年争い続けてきた土地は帝国の物になった。
講和によって輸出制限は撤廃され、これからは帝国側に有利な条件で貿易を行うことになるだろう。
オスマルと結託することで、どうにか帝国を抑え込んでいた西アーランドは、これから孤軍奮闘を余儀なくされる。
今回の勝利でまた、大陸の勢力図は書き換わるはずだ。
シャリアスはゆっくり目を閉じた。
(まるでチェスのように戦争をする方だわ……)
まさか今年一年だけで、計画したものではあるまい。
商人たちを山へ誘導するように、大量に輸入する品目が決められていくのを見て、シャリアスは少し恐ろしさを覚えた。
あの貿易統計は、このために作られたのだろう。
輸出制限を受けていない物かつ、腕に覚えのある商人を遠方まで行かせられるような輸入物はどれか、何年も掛けて調べ抜いていたに違いない。
皇帝は一年分の遠征費にも満たない額で、大国オスマルを落としてしまった。
「……皇帝陛下ってすごい人なのね」
話を聞いていたローラがポツリと言った。
「本当ね。シャリアスを助けたときから、突拍子もない事をする方とは思ってたけど……」
「ちょっと。そんな不敬なこと口にしたら、捕まるわよ?」
三人が話しているのをぼんやり耳にしながら、シャリアスは空を見上げた。
冬特有の少し色の薄い空に、大勝を祝う花びらがちらちらと舞っていた。
(……大陸戦争は、何百年も続いている。数々の国で生まれてきたどんな名君でさえ、ひとりとして戦争のない時代を作れなかった)
花びらはひらひらと一枚舞い降りてきて、シャリアスの手のひらに落ちた。
(――でもこの皇帝は、このまま大陸を統一してしまうかもしれないわね)
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