第二章 皇帝の寵妃

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第二章 皇帝の寵妃

第二章 皇帝の寵妃 ――そうして、春。 オスマルを下したことによって、帝国の食糧問題は解決した。 帝国が落とした地方都市イスケルンは、貿易の要所とされていた。多くの街道がこの街に集中し、積荷を運んできた商人たちが必ずこの都市に足を踏み入れるからである。 とくにオスマルよりも、東。リョウ国ならびに東大陸にある国々が、帝国に入国する際は、必ずこの都市を訪れた。 オスマルの領地を経て行われる帝国との貿易は、決して安定した取引にはつながらなかった。 その都市を手に入れたということは、リョウ国並びに東大陸の国々との直接貿易を行う権利を、帝国が得たことを意味していた。 また、皇室主導による帝国製のシルクは、無事に事業化された。服飾部によって手法が確立され、その美しい生地はクイーンズシルクと名付けられた。 リョウ国の織機を改良した、帝国式の織機から紡がれるそのシルク生地の柄は、オスマル風でもリョウ国風でもなく、帝国人の好みに合わせた帝国風。 従来の輸入シルクに比べ、色は鮮やかで、光沢は輝くばかり。二色の糸は複雑な偏光をもたらし、生地が揺れる度に違う色に見えた。 流行らない理由がなく、クイーンズシルクは上流貴族の間でまたたく間に流行になった。 結果、国内の織機の数は増え、帝都では機織工房も目にするようになった。 中でも宮廷の服飾部で織られたシルクは、最高級品と知られ、皇族さえめったに身に着けられない代物となった。 国外でもその魅力に惹かれる者は多く、他国の外交官と会話を交わせば、「クイーンズシルク」の単語を出さない者はいなかった。 手土産にシルクをもたせれば使者たちは饒舌になり、遠い地の国王たちは帝国風のドレスを欲しがる娘のために、皇帝に手紙を書いた。 クイーンズシルクは、外交上でも非常に有益な産業となったのである。 ――しかしその功労者が後宮で最も卑しい存在である、ヘロットメイドであることを知る者はほとんどいなかった。 ――一方の宮廷は、冬送りに勤しんでいた。 冬送り……別名春祝いとも言われるもので、無事に冬を乗り越えられたことを祝い合う、一年で最も重要なイベントのひとつである。 街ではコートを脱いだ男たちが力比べをし、女達は一冬の間貯蔵していたソーセージや肉、小麦やバターなどを使った料理を盛大に振る舞う。それを酒とともに口にして、春が来たことを祝うのだ。 宮廷では、例年この時期になるとパーティーを催した。 皇族たちが一同に介する観花会とは違い、より大規模であらゆる貴族たちが集まる、冬送りのパーティーである。 庶民と同様にソーセージや肉なども口にするが、最も重要なのは皇帝への挨拶だった。冬の間は雪に閉ざされていた街道も、この時期には馬車が走れるようになる。 つまり地方貴族にとっては、皇帝への新年の挨拶と同義である。 彼らは年頃の子息息女と共だって、皇帝に挨拶し、冬送りのパーティーに参加する。 冬送りは新たな貴族たちの社交デビューの場であり、また同時に社交シーズンの開幕も意味していた。 そしてなによりも、今年は帝国がオスマルを制した。 地方都市イスケルンをおさえ、講和によって国境を塗り替えた。イスケルン周辺の小さな国々は、次々と帝国に下り、帰順の姿勢を明らかにした。 帰順した国々が行う風習は、シャリアスのころから変わっていない。 ――つまり新たな異国の娘たちが、貢物として後宮にやってくることを意味していた。 ――凛とした美しい声が、響く。 「皇帝陛下とラシャーナ姫に、ご挨拶申し上げます」 玉座の下、淡く柔らかい髪色をした女性が、深々とひざまずいていた。 「顔を上げろ」 皇帝の声によって、女はゆっくりと顔を上げた。 シルクシフォンのような、艷やかで柔らかそうな白い肌に、エメラルドのような緑の目。 頬や唇は果実のようにみずみずしく赤みを指していて、それが肌の白さを強調していた。 しかし目線はまっすぐ皇帝陛下を見上げており、その横顔は高貴な身分を感じさせるほどには上品だった。 あまりの美しさに囲んでいた貴族たちが声を上げたが、彼女は何も言わなかった。ただただ皇帝を見上げ、「お久しぶりにございます」と微笑んでいた。 「……あれがルーシー姫?」 「そうそう。スタンニアの王女様。超超才色兼備で、めちゃくちゃ頭がいいんですって」 「すでに陛下から、ものすごい寵愛を受けてらっしゃるんでしょう?」 「らしいわね。今日が正式な入内だけど、すでに何度も陛下とはお会いしてるみたいよ。陛下も傑出した方だから、お話が合うんでしょうね」 ――冬送り当日。 シャリアスたちはパーティーの裏方として、会場に呼び出されていた。 今日ばかりは、服飾部だろうと洗い場だろうと関係なく、無数にやってくる貴族たちや新たな妃たちの対応を、メイド総出で行わなくてはいけなかった。 服飾部所属で、手先が器用だろうと思われたシャリアスたちが配属されたのは、冬送りのメインの催しとなる、パーティー会場だ。 もちろんヘロットメイドたちが、直接賓客に接するわけもなく、与えられたのは会場の端で、食器の片付けや飲み物の準備をひたすら行うという、雑用である。 ――しかし誰もいないこの仕事場は、返って儀式を眺めるのに丁度良かったらしい。 「ラシャーナ姫は面白くないでしょうね」 「それまでは一番の寵妃だったものね。でもロータ卿が兄上である以上、安泰なんじゃない? 実際今回の件で、妃の位が上がったんでしょ」 ロータ卿というのは、オスマル戦において最も功績を上げた辺境伯である。莫大な私財を投じ、冬の行軍を乗り越えられる装備を整え、少数精鋭の軍で難攻不落と言われたオスマルの城壁を打破した男だった。 ラシャーナ姫はその妹で、その絶大な後ろ盾から、後宮の中でも最も位の高い皇妃にある。 今回の昇格に伴い、空席である皇后の代理として、公式の場で役目を担うことになったらしい。 「ラシャーナ姫に仕えられたら、結構良い目見れそうよね。お付きのメイドさんたち、いっつもいい服着てるもん」 「え〜、でもちょっと偉そうじゃない? 洗い場で働いてたとき、シワがあるとか汚れてるとか言われて、三回くらい洗い直したわよ」 「ラシャーナ姫ご本人も、めちゃくちゃ怖い方でしょ? 今年の冬は、失態を犯したヘロットメイドを外に放り出したって聞いたわよ。アレン様が助けなかったら、凍死してたかもしれないって……」 「こわ……。やっぱりわたし下働きのままでいいかも」 「……声を小さくしないと、聞こえちゃうわよ?」 手元は動かす必要があるが、単純作業が続くため、頭と口はヒマだ。 次々と思い思いのことを述べていくローラたちに、シャリアスは苦笑いした。 一方儀式の方は、滞りなく進んでいた。 他の皇妃たちには形式的な会話を交わしていた皇帝も、さすが寵妃となると会話も弾むらしい。 「この国には慣れたか? 入国早々、風邪を引いただろう?」 「はい。おかげさまで風邪も治り、西の宮殿でつつがなく過ごしております」 頭を下げたルーシー姫を、ラシャーナ姫がじっと見下ろす。 ラシャーナ姫は見事な黒髪でそれもまた美しかったが、淡いヘーゼルの髪を持つルーシー姫とは対照的だった。 「帝国の冬は毎年やってくるわ。毎回体調を崩されてはこちらも困ります。まるで帝国がスタンニアの王女を虐げているように見えるもの」 「はい。次の冬は体調に気をつけて、陛下にお仕えいたします」 するとミアたちが再び頭を突き合わせ、ぼそぼそと喋り始めた。 「ルーシー姫が西の宮殿に入る時に、ラシャーナ姫が邪魔したんじゃなかった? いつまでも外で待たされたから、風邪を召されたとか……」 「邪魔じゃないわよ。昇格したばかりのラシャーナ姫が不慣れだったせいで、宮殿の点検が終わらなかったんですって」 「じゃあ、やっぱり邪魔じゃん……?」 「……やっぱりわたし、このまま服飾部に残るわ。細く長いが一番だもの。変にお妃様に仕えて、宮廷争いに巻き込まれたくない」 冬送りは、一年の節目でもある。 今回新たに入内する皇妃達がいるように、国に戻されたり、臣下に下賜される皇妃たちもいる。メイドも同じく、同じく新たに入ってくる者も入れば、結婚などで職を辞する者も多かった。 皇帝の私物であるヘロットメイドが出ていくことはめったにないが、そのように欠員が出た部署を埋めるため、この時期になると人事の見直しが行われる。 先ほどからミアたちが配属の話をしているのは、そのような事情があった。 「服飾部は忙しいけど、虐げられるわけじゃないもんね」 「ご飯もおいしいし、高貴な方々と接する場所だから褒美ももらいやすいし……」 「でもさあ、この間リリア姫からもらったチョコレートがおいしくてさあ……。皇妃様付きになったらそういうの毎日食べられるのかなって思うと夢を見ずにはいられないと言うか……」 ミアが天上を見上げながら、そんなことをつぶやいた。するとさすがに聞こえたのだろうか。 皇妃たちを話していた服飾部のメイド長が、ちらりとこちらを振り返った。 「やばっ」 ミアは慌てて作業を再開したが、手を止めていたところはしっかり目撃されていたらしい。 メイド長はカツカツと早足で我々のもとまでやってきて、少しも片付けられていない食器をじっと見つめた。 「無駄口は叩かない。きちんと働きなさい」 「す、すみませんっ……!」 「でもメイド長。朝から働いててもう足が辛いんです。誰かと交代できないですか……?」 「まもなく休憩になります。我慢しなさい」 朝早くから働いていたのは、メイド長も同じである。 我々はこの場所でひたすら同じ仕事をするだけだったが、メイド長は会場を歩き回りながら、賓客の対応をしていた。 髪の一筋も乱れていないその姿にシャリアスが関心していると、なぜかメイド長はシャリアスにも顔を向けた。 「シャリアス。あなたに話があります」 「……わ、私ですか?」 「ええ。長くはかからないので、ついてきてください」 一瞬戸惑うものの、すでにメイド長は歩き出してしまった。 シャリアスはみんなに仕事を頼むと、早足でメイド長のあとを追いかけた。 ――通された場所は、上級メイドたちの控室だった。 催し物の際に、メイド長以上の使用人たちが使える部屋だ。とはいえ今は祭りの真っ只中だったから、誰もいなかった。 座るように言われて、シャリアスは緊張しながらそっとソファに腰を下ろした。 メイド長は紅茶をいれると、一杯シャリアスに差し出してくれた。 「あありがとうございます」 それをシャリアスが口に運ぶと、メイド長は早速本題を切り出した。 「先日、礼儀作法の試験に合格しましたね?」 「は、はい」 礼儀作法というのは、なにも一般子女の作法ではない。ヘロットメイドだろうと、元々は皆貴族の娘たちであり、所作や言葉遣いに問題はない。 この礼儀作法というのは、使用人としての礼儀作法である。 例えば貴人がコートを脱いだとき、どのように受け取るのか。食事はどのように運び、どのように手渡すのか。 食事の給仕や、客人から受け取った品物の管理方法。代筆の行い方。 つまり尊い身分の人間に仕えるための、礼儀作法である。 この冬送りの催しに向けて、シャリアスたちはメイド長からそれらの作法について、一通りの指導を受けた。 少し前に試験が行われ、シャリアスはそれなりに優秀な成績を収めていた。 「紅茶の入れ方と口頭試験は、特に結果が良かったですね」 「はい。メイド長のご指導のおかげです」 「元々、高貴な方に仕えていた経験があるのですか?」 「いえ。ただ実家では多くのことを自分でやっておりましたので……」 メイド長はうつむいたシャリアスの顔を、じっと見つめた。 帝国では奴隷の立場だが、母国に帰れば貴族令嬢だ。人に仕えられることに慣れ、人に仕えることを知らない。 大抵のヘロットメイドは逆転した自分の立場を受け入れきれず、ここで苦労するのだが、シャリアスはあっさり理解した上、むしろ知識の下地があった。 果たして実家でどのような扱いを受けていれば、自分のドレスの洗い方を覚えるのか。 メイド長は彼女の生い立ちをある程度想像していたが、実際に指摘したことはなかった。 ただ非常に優秀なメイドとして、彼女を評価するだけだ。 「……とにかく一人のメイドとして、立派に働けるようになったと思います。試験に合格すれば、どの部署に配属されても問題はありません」 「ありがとうございます」 「あなたは忍耐強く、辛い仕事にも文句を言いません。新しいことも率先して覚えようとしますし、機転もききます」 シャリアスは、ぱちぱちとまばたきした。メイド長が何を言わんとしているのか、理解できなかったからである。 メイド長はシャリアスを見つめ、はっきりと言った。 「毎年メイド長は、数名ほど皇妃に仕えるメイドを推挙しなくてはいけません。西の宮殿ですが、欠員が出ました」 西の宮殿といえば、ルーシー姫が住まわれているところだろうか。 「やってみますか?」 「……は?」 シャリアスは目を見開いて固まった。 「西の宮殿の方もまだ不慣れでしょうから、同じ外国人がよろしいでしょう」 「……つまり私が、皇妃様にお仕えするということですか?」 「ええ」 メイド長が頷いたのを見て、思わずシャリアスは黙り込んだ。 皇妃付きのメイドは、後宮内でも侍女に次いで地位が高い。 一般のメイドと比べ、服飾部のメイドはそれなりに配慮される立場にあるが、皇妃付きのメイドたちはさらに別格だ。 ひとつ等級が代わるようなもので、一般のメイドが冬送りのような雑事を任されるのに対し、皇妃付きのメイドはその皇妃のためだけに働くことが許されている。 各皇妃たちの住まいで暮らすことが許され、食事や給金は皇妃の月俸から支払われる。 つまり一般のメイドが宮廷に雇われているのに対し、皇妃付きのメイドに皇妃から直接雇用されるのだ。 皇妃専属の使用人であり、たとえメイド長であっても彼女たちには命令できない。 つまりメイド長の提案は、シャリアスの昇進を意味していた。 「やれますね?」 メイド長にまっすぐ見つめられる。シャリアスが口ごもると、ぴくりと彼女の眉が跳ねた。 「や、やります……っ」 そのように言うしかなかった。 「よろしい」 するとメイド長は立ち上がり、部屋の扉を開けた。つまり話は終わり、シャリアスに仕事場に戻るように促していた。 「私の推挙です。間違っても失礼な真似をしないように」 「はいっ……!」 シャリアスはほとんど追い出されるように、部屋をあとにした。 ふわふわと頭が揺れていて、なにが起こったのかいまいち理解しきれていなかった。 実感が湧いたのは、「何の話だった? 叱られたわけじゃないわよね?」とヴィネットたちに聞かれたときだ。 おずおずと彼女たちに告げて、はじめて事実を理解した。 「おめでとう!!!」 彼女たちが、盛大に祝ってくれたからだ。 *** ――数日後。 「私はわかってたわ。そのうちシャリアスとはお別れするって」 ヴィネットが、シャリアスの両手をぎゅっと強く握った。 「また遊びに来るわよね? あなたがいなくなった服飾部なんて、今から不安でいっぱいよ」 「そうよ。メイドの中で織機に一番詳しいのはあなたなんだから、なにかあったら駆けつけてね」 「もちろんよ。私もまだまだ学ぶことは多いもの」 いよいよ転属の日を迎え、シャリアスはいつもの三人に見送られていた。 所属は変われど、同じ後宮。まったく顔を合わなくなるというわけではない。 また会う機会があるとお互いを励まし合いながら、シャリアスはみんなと別れを告げた。 他の仕事仲間や、メイド長にも挨拶を済ませ、シャリアスは次の職場へと足を運んだ。 (きれい……) ルーシー姫が住まう、西の宮殿である。 別名、白宮とも呼ばれていて、後宮の数ある建物の中でもひときわ美しいことで有名だった。 代々ここに住まうことができるのは、皇帝の寵妃だけとされている。 仕上げた服を皇妃たちに届ける際に、何度も眺めてきた宮殿だったが、まさか自分がこの門をくぐる日が来るとは思っていなかった。 シャリアスは緊張で心臓を跳ねさせながら、美しい白い門をくぐった。 「シャリアスというのね?」 ルーシー姫は、間近で見ても美しい女性だった。 軽くウェーブがかったヘーゼルの髪の毛に、翡翠の瞳。透明感のある容姿は、まるで妖精のようだった。 噂に違わず穏やかな性格のようで、使用人にも優しく、決して声を荒らげなかった。 「はい。出身はパトラ公国で、ヘロットメイドとして去年の春から勤めております」 「美人ね」 「ありがとうございます。至らぬこともあるかもしれませんが、誠心誠意お仕え致します」 シャリアスのはっきりとした受け答えに、ルーシー姫は満足げに頷いた。そうして、近くで顔を伏せていたメイドを手招いた。 「ニーア」 そうして彼女の手を握った。 シャリアスと同い年ほどの少女で、メイド服ではなくドレスを身に着けている。皇妃に準じるその装いに、シャリアスはすぐに彼女がルーシー姫の侍女であることを理解した。 「私が連れてきた使用人なの。仲良くしてくれると嬉しいわ」 「はい。どうぞよろしくお願いいたします」 シャリアスがかしずくと、ニーアもまたわずかに頷いた。 その後、ルーシー姫といくつか簡単な会話を交わすと、シャリアスは部屋を退出した。 ルーシー姫に、お茶を入れてきてほしいと頼まれたのだ。 「あの、ニーアさん」 同じタイミングで部屋を出たルーシー姫付きの侍女に、シャリアスは話しかけた。 「ティールームはどちらにありますか?」 いくら彼女たちよりも後宮住まいが長いと言っても、西の宮殿は初めてである。 茶葉がある場所がわかるはずもなく、シャリアスは先輩メイドに話を聞くことにした。 するとニーアと呼ばれた少女は、シャリアスにちらりと視線を送った。しかし、それだけだった。 シャリアスを置いて、すたすたとどこかへ歩き去ろうとしてしまう。 「あの……?」 慌ててシャリアスが後を追えば、ニーアは足を止めた。しかしシャリアスは見ない。 ただ廊下の奥を指差すだけだ。 「あなたの部屋はあっちよ。この道を一番奥まで歩いて、突き当たりの右の部屋。それ以外の部屋には入らないで」 ルーシー姫しか住んでいない西の宮殿は、ほとんどが空室である。主に中央部分を使用していて、他の部屋は倉庫か空き部屋となっている。 それなのに、シャリアスには最も奥の部屋を使えという。 「この宮殿に住んでいる者は、あなた以外全員メイトコイよ。いわば帝国から招かれた客人なの。同じ外国人でも奴隷のあなたとは身分が違うわ」 シャリアスはぱちぱちとまばたきした。 「あの……」 「まだわからないの? 卑しい奴隷の分際で、姫様の周りをうろつかないでって言ってるの」 ニーアはシャリアスが抱えていた紅茶ポットを奪い取った。 そうして、顎でシャリアスに指図した。 「早く部屋に戻りなさい。明日からは掃除をしてもらうわ。宮殿の一番端の、人目につかないところでね」 ――こうして、シャリアスは西の宮殿に勤めることになった。 宮殿に勤めるメイドは、ルーシー姫が母国から連れてきた使用人がほとんどで、他は数人の帝国貴族のメイドだった。 ヘロットメイドなのは、シャリアスだけだ。 シャリアスはひとり、宮殿の端でひたすら掃除に明け暮れることとなった。 「ニーア、あのシャリアスというメイドはどこに行ったの?」 「さあ。自室でさぼってるんじゃないですか。あの子、全然働かないんですよ」 「そうなの?」 「ええ。ずっとサボってます。時々様子を見に来たと思ったら、ひどい口を聞くんです。私が新人だからって、馬鹿にしてるんですよ」 「……そう」 「騙されないでくださいね。ルーシー様にはいい顔をするでしょうが、本性は卑しいヘロットメイドですから」 彼らの会話を尻目に、シャリアスは黙々と掃除し続けた。 *** ――それからしばらく。 寵愛されているという話は本当だったようで、陛下は毎日のように西の宮殿を訪れた。 昼夜問わずやってきては、ルーシー姫に高価な贈りものを届けるのだ。 「陛下がいらっしゃるから、あなたは外に出て」 「はい」 「絶対に陛下の視界に入らないで。裏で掃除でもしてなさい」 一方のシャリアスは皇帝が訪れる度に、宮殿の外で掃除をさせられていた。 ニーアの目から見ても、シャリアスは美しく、ルーシー姫から寵愛を奪うのではと疑われたためだ。 シャリアスは淡々と、ニーアの言うことを聞いた。 あまりの横暴さに、他のメイドから同情されることもあったが、なにせ相手は寵妃の侍女だ。なにか言える者はおらず、シャリアスは黙々と掃除に徹した。 「寒いわね……」 シャリアスはあいつものように掃除をしながら、両手に息を吹きかけた。 春とはいえまだ寒く、掃除をしているとどうしても手がかじかんでしまうのだ。 すると宮殿から、一人の男性が出てきた。 皇帝陛下が訪れるときは、必ず数人の護衛を連れてくる。護衛騎士か、側仕えの方だろうと思いながら掃除を続けていると、なぜかその男性はシャリアスに近づいてきた。 「……あっ」 シャリアスは、慌てて顔を伏せた。 「ここにいたんですか。宮殿にいないので探しましたよ」 「お、お久しぶりです」 現れたのは、皇帝一番の寵臣であるアレンであった。 「こんな寒い中、庭掃除ですか。掃除するものもないでしょうに」 アレンはぐるりと周囲を見回した。シャリアスが毎日掃除しているので、宮殿の庭はすっかりきれいになっていた。 「いえ、風が吹けば枯れ葉が落ちます。寒いからと言って休んではいられません」 このように雑談混じりに話すのは、毛皮の一件以来だ。 服飾部で顔を合わせることも合ったが、アレンは主にメイド長と話していて、シャリアスは質問に答える程度だった。 アレンは、じっとシャリアスを見下ろした。皇妃付きのメイドにしては、少々メイド服が汚れすぎて(・・・・・)いた。 「侍女たちの当たりが強いようですね?」 「……当然の対応だと思います。私は部外者ですから」 ルーシー姫は、まだ何の基盤もない一介の皇妃だ。 右も左もわからない異国の地で、周囲は後ろ盾のある、帝国出身の皇妃ばかり。 まずは身内で固めようと思うのも、当たり前のように思えた。 ニーアはシャリアスをルーシー姫から遠ざけようとしているが、それだけだ。無理に宮殿から追い出そうとしている様子もないし、シャリアスがこの宮殿で寝泊まりすること自体は、認めている。 笑顔の裏で真逆のことを画策する人よりも、よっぽど考えが理解できる。 「シャリアスさんなら、そのうち信頼を得られますよ」 「ありがとうございます」 これでお話は終わりだろうか。 シャリアスは深々と頭を下げて、退出しようとした。が、その前にアレンが違う話題をシャリアスに振ってきた。 「――ところで」 シャリアスはぴたりと固まって、顔を上げた。 「最近書庫には行ってますか?」 にこりと笑顔を向けられて、シャリアスはぱちぱちとまばたきした。 「……いえ。今は皇妃様にお仕えしているので、勝手に皇妃様から離れるわけにも行きません」 服飾部から書庫はまだ距離が近かったが、西の宮殿はそれなりに距離がある。昼夜問わず皇妃に仕えるべきメイドが、勝手に出かけるわけには行かない。 「それは残念ですね。リーデルが寂しがっていますよ。あなたが出世してしまってから、ほとんど会えていませんからね」 「せっかくのご厚意でしたのに、申し訳ありません。……ただリーデル殿下……、リーデルなら好きな時に書庫に行けるのでは?」 末席と言えど、仮にも皇子。宮廷を出歩く自由くらいはあるはずだ。 しかしアレンは首を振った。 「違いますよ。書庫に行きたいのではなく、あなたに会いたいんですよ」 シャリアスは驚いて、そのまま固まってしまった。 「リーデルは皇位を継げる身分ではないですが、頭もよく、陛下の覚えもめでたいです。もう少し大人になれば、爵位くらいは頂けるのではないでしょうか。まだ幼いですが、十年もすれば立派な男性になると思いますし……」 「……アレン様?」 「あ、気が早いですかね? でもまあ、こういうのは早すぎて悪いこともないですし……」 シャリアスの顔が、じわじわと赤くなっていく。 「わ、私はヘロットです。この後宮で一生を終える身ですから……っ」 「いえ、そうと決まったわけではありませんよ。ヘロットメイドでも、皇妃やメイド長の推薦があれば、帝国人になれます。もちろん希望すれば、母国に帰ることも可能です」 「……そうなんですか?」 母国に戻ったヘロットメイドなど、後宮で耳にしたことはない。 しかしアレン曰く、今は宮廷が人手不足で受け入れてばかりいるだけで、情勢によっては帰国が許されることもあるらしい。 アレンははっきりと頷いた。 「ええ。シャリアスさんなら、ヘロットの身分から開放される日も来るかもしれませんね」 染料の改良に、クイーンズシルクの提案。帝国型の織機を開発し、生産化にこぎつけた。功績としては十分だと、アレンは述べた。 「国に帰ることができれば、母国の婚約者と結婚することもできるのでは?」 その言葉に、シャリアスはぴたりと固まった。そしてうつむいて、言いにくそうに両手を握った。 「……その、婚約はすでに解消しております。妹が嫁いでいて……」 「そうなんですか?」 今度はアレンが驚く番だった。 これほど器量のいい娘が、たった一年で結婚を諦められるとは思ってもなかったからである。 「それは申し訳ないことをお聞きしてしまいましたね。……リーデルが耳にすれば、喜びそうですが」 「……っ。ですから、そのようなつもりで書庫に行っていたわけでは……っ」 シャリアスは慌てて否定したが、アレンは楽しそうに笑うだけだった。 「とにかく、元気そうで安心しました。近々、リーデルに会ってやってやってくださいね」 「わ、わかりました……」 そうしてアレンはとんでもない発言を済ませると、そのまま宮殿へ戻っていった。 ……本当にシャリアスと話すためだけに、宮殿の外までやってきたらしい。 相変わらず読めないアレンの行動に戸惑いつつも、見送りのために頭を下げる。 「シャリアス!」 するとアレンとすれ違うように、ニーアが宮殿から出てきた。 「アレン様に話しかけないで。あなたはヘロットメイドなんだから、高貴な人と喋ってはだめよ」 「はい。申し訳ありません」 謝るシャリアスに、ニーアは小箱を差し出した。平たく大きなもので、生地やドレスを運ぶ時に使う。 「陛下が姫様にクイーンズシルクを下賜されたわ。服飾部に取りに行くから、手伝いなさい」 「はい」 シャリアスは小箱を手にとって、ニーアの後ろをついていった。 *** 「じゃあねシャリアス! また遊びに来てね!」 ミアたちがぶんぶんと手を振った。 「うん。ありがと」 手に持っているのは、下賜されたクイーンズシルクだ。シャリアスはそれを落とさないようにしながら、みんなに向かって手を振った。 「……あなた、服飾部に勤めていたの?」 そうして服飾部を後にすると、隣を歩いていたニーアが聞いた。 シャリアスは頷いた。 「はい。洗い場のあとは服飾部におりました」 服飾部は数あるメイドの勤め先の中でも、花形の部署だ。 一番希望者が多く、身分高い令嬢か優秀なメイドしか勤められない。覚えることも煩雑で、指導も厳しい。 まだ後宮に来て浅いニーアも、そのくらいはわかっているようで、卑しいヘロットメイドがなぜ服飾部に勤めていたのか、釈然としない様子だった。 「じゃあ、クイーンズシルクにも詳しいわけ?」 「そうですね。ある程度触れた経験がありますので、他のメイドよりは詳しいかもしれません」 「……へ、へえ……」 ニーアはちらりと、自分が抱えた生地を見下ろした。 いくら美しい生地だといっても、ドレスにしなければ意味がない。これから何日も掛けてこれらの生地を裁断し、一枚のドレスに仕上げなくてはいけなかった。 それこそ祭典で使うようなドレスなら、スカート部分だけで何メートルも生地を使う。この国で最も尊い女性のひとりである皇妃が既存の型紙を使うわけもなく、デザインも含めて一から手作りしていく。 クイーンズシルクの人気はうなぎのぼりで、日に日に値段は高騰している。もし失敗して作り直すことになれば、その損失額は計り知れない。 ニーアはごくりと生唾を飲み込んだ。それを見て、シャリアスはおずおずとニーアに提案した。 「……よろしければ、手伝いましょうか?」 「は……!?」 「服飾部では何枚もドレスを作りました。もしかすると、お手伝いできることもあるかもしれません」 シャリアスは一応クイーンズシルクの事業を、主導してきた身だ。このシルクの特性を、よく理解しているつもりだった。 ニーアは少し黙り込んだ後、自分が抱えたシルクをぎゅっと抱き込んだ。 「ふ、服飾部に勤めてたとしても、どうせ下働きでしょ? 知ってるような事を言っても、ドレスは触らせないわよ!」 「……しかしこの生地は、すこし柄合わせが難しそうです。大量の生地が必要になりますから、入念に型紙を書かないと……」 「そ、そんなのわかってるわよ! 当たり前のことを、さも詳しいように口にしないで! 私は騙されないわよっ……!!」 ニーアは大声を上げて、シャリアスから離れようとした。生地を抱き込んだまま、数歩ほど、後ろに下がろうとした。 その瞬間、シャリアスは目を見開いた。そしてニーアの手首をつかみ、自分の元へ引っ張った。 「ちょっと、なにすっ……!!」 そうして回廊の端まで移動すると、すばやく頭を下げる。 回廊の曲がり角、赤色のラインが入った服を着たメイドを、シャリアスは見逃さなかった。 皇妃付きのメイドは、一般のメイドと比べてわずかに衣装が違う。それぞれ皇妃のシンボルとなる色が、衣装の中に入っているのだ。 「――騒がしいわね」 そしてシャリアスが見つけたメイドは、赤のライン。つまり、ラシャーナ姫付きの者だった。 後宮で、最も地位の高い皇妃である。 彼女が通るときは、どんな人間でも道を譲らなくてはいけない。彼女に道を譲らなくて良いのは、皇帝と宰相くらいだ。 ラシャーナ姫はシャリアスたちの前までやってくると、扇越しにちらりと衣装を見下ろした。 その衣装には、緑のラインが入っている。 「……ルーシー姫の侍女かしら」 ニーアはびくりと肩を揺らした。 「まだ来たばかりで不慣れだから、後宮ではしゃいでしまうのかしら? まるで子供じゃない」 「きっと主の寵愛を、自分のものだと勘違いしてるんでしょう。皇妃を見ても道を譲らないんですもの」 ラシャーナ姫ははらりと扇を開いた。縮こまるニーアの頭を、じっと見下ろす。 「……枝むちがよいかしら」 その瞬間、ニーアはびくりと身を揺らした。 「ええ。それがよろしいかと思います。皇妃様の前に立つなど、無礼にも程があります」 「こういうことは、その場で注意したほうがよろしいでしょう。ルーシー皇妃も感謝するのでは?」 ラシャーナ姫の周囲を歩いていたメイドたちも、次々と賛同した。 「誰か、刑吏を連れてきて」 枝むちは言葉通り、ふくらはぎや背中に向けて、枝をムチのように叩きつける罰のことだ。使用人への罰としては一番軽いものだが、それでもかなりの苦痛を受ける。 執行するのが刑吏なら、なおのこと痛みを感じるだろう。 ニーアは大声で騒いだわけでも、ラシャーナ姫の前で立ちふさがったわけでもない。ただ少し気がつくのが遅れて、皇妃の視界に入るよりも先に、ひざまずけなかっただけだ。 死角の多い曲がり角などで、よくメイドたちが起こしてしまう失態だった。 その非礼を皇妃が謝罪させることはあっても、枝むちに処した話など聞いたことがない。 ただ、相手は後宮で絶大な権力を持つ、ラシャーナ姫だ。 この後宮では、彼女が無礼だと言ったものは、全て無礼になる。罰を与えると言えば、どんな些細なことでも罰を受けることになる。 「いま使いを出しましたから、すぐに刑吏がやってくると思いますわ」 「大丈夫よ。刑吏は腕がいいから、傷の治りも早いでしょう」 震えだしたニーアに気づいて、シャリアスはとっさに彼女の手を握った。そうして少し考えると、一歩前に出た。 「こちらの生地だけでも、西の宮殿に届けさせてください。陛下をお待たせしているのです」 陛下という単語が聞こえた瞬間、ラシャーナ姫がぴくりと眉を跳ね上げた。 「陛下がニーアに申し付けられた以上、届けるのはニーアが望ましく思います。代わりに私が残りますので、ニーアだけでも行かせてください」 「あなた、ヘロットの身分で直接皇妃様に話しかけるなんて……っ」「なんの生地なの?」 一度侍女に叱責されかけたが、それを遮ってラシャーナ姫が聞いた。 「お答えします。陛下がルーシー姫に下賜された、クイーンズシルクになります」 シャリアスが生地を差し出せば、メイドたちが中身を改めた。艷やかな淡い緑の生地で、ルーシー姫の目の色と合わせたことは明らかだった。 ラシャーナ姫は、面白くなさそうに眉を上げた。目を細め、目の前のヘロットメイドを見下ろした。 「……その生地では、ルーシー姫の美しい容姿に負けてしまいそうね。ラミア、リョウ国の生地を出して」 するとラミアと呼ばれた侍女が、はっと顔を上げた。 「しかしこれは、ロータ卿から直接頂いたものでっ……!」 しかしラシャーナ姫がじろりとにらみつければ、ラミアはすぐに黙った。そして後ろのメイドたちが運んでいた生地を、シャリアスの小箱に重ねた。 「陛下がお待ちなら、罰を与えるわけにもいきません。次から気をつけて歩きなさい」 「はい。ありがとうございます」 「ドレスについては、私からも職人を送ります。話を聞くといいわ」 「お気づかいに感謝申し上げます」 そうして、ラシャーナ姫は去っていった。 「こ、怖かった……」 彼女のスカートが見えなくなった瞬間、ひざまずいていたニーアが、がくりと崩れ落ちた。 「本当に、枝むちになるかと思った……」 「ええ……、運がよかったですね」 彼女の腕を支えながら、一緒に立ち上がる。 ニーアはぱたぱたとスカートについた汚れを払うと、二倍の重さになった小箱を持ち直した。 金色に輝く、美しいリョウ国の生地が、クイーンズシルクの上に重なっていた。 「……すごい生地ね」 ひと目見ただけで、高価な生地だとわかる。 リョウ国のシルク生地は、独特な文様が特徴だったが、この生地は驚くほど文様が細やかで、美しかった。 「さすが後ろ盾のある人は違うわね。自分の寵愛が奪われそうなのに、その寵妃に自分の生地を譲っちゃうだなんて……」 「……ええ、本当ですね」 シャリアスもまたニーアに続いて、小箱を持ち直した。 じっと見つめるのは、与えられたリョウ国の生地だ。 リョウ国の生地は、帝国製のものと比べて少し薄い。厳しい冬がある帝国の気候に合わせて、シャリアスが厚くしたのだ。 それぞれ厚みの違う生地を組み合わせて使うとなると、少々裁縫の難易度は上がる。 ラシャーナ姫が職人を寄越すと言ったのは、当然の配慮であろう。 「やっぱりラシャーナ姫も、ルーシー姫の寵愛は警戒してるんでしょうね。万一ルーシー姫が皇后になったときに備えて、仲良くしておきたいのかも……」 シャリアスは、ぐっと目を細めた。眉間にシワを寄せ、目の前をにらんだ。 「多分、違うわ……」 「……は?」 ニーアが振り返ったが、シャリアスはなにも返事をしなかった。重たくなった小箱を持つ手が、少し汗ばんでいた。 *** ――シャリアスの予感は当たった。 「まだ届かないの!?!?」 ニーアの神経質な声が、宮殿に響き渡った。 今日は二回目の冬送りだった。 一度目の冬送りに比べて、二度目の冬送りは皇族貴族の交流に重きを置いている。 無事に春を迎えたことを祝う式典も行われるが、一度目に比べれば簡易的で、行事のメインは皇室主催のパーティーにある。 帝都にいるほとんどの貴族が参加する、大規模なパーティーで、帝国貴族が皇妃たちと直接交流できる数少ない行事のひとつだった。 当然皇妃たちも念入りに準備をして、それぞれ新たな装いをして支持者たちの前に出る。 それは西の宮殿も同じことで、今日のためにニーアたちは何日も掛けて、新たなドレスを用意していた。 「道がふさがってるって、どういうことよ!!」 ニーアたちが連日作業して完成したドレスだったが、なんと未だにルーシー姫のもとに届いていなかった。 サイズ合わせのために職人が一度持ち帰ったのだが、予想以上に人出が多く、後宮への道が封鎖されてしまっている。 このパーティーに参加するために、たくさんの貴族たちが帝都にやってきているために、馬車が通れる道が混み合っているらしい。 結局馬車がやってきたときは、予定よりも半日以上遅れていた。 「申し訳ございません……!!」 職人はどたばたと馬車から降りると、宮殿の前で待っていたルーシー姫にひざまずいた。 「兵士たちに呼び止められ、荷物を検められておりましたっ……! とにかく人が多く、少しも進まない状況で……っ」 べらべらと言い訳を始めた職人に、ルーシー姫は手のひらを見せて、静かにさせた。 「そう。ドレスは持ってきたの?」 「は、はい……!」 そうしてドレスの確認を急がせた。 「こちらになります……っ!」 職人は馬車の荷台に取り付けられた箱を見せた。中を開ければ、確かにドレスが入っていた。 帝国製のシルクと、リョウ国製のシルクをそれぞれ組み合わせた、見事なドレスである。 「大丈夫そう?」 「はい」 「では行きましょう。ドレスはそのまま運んで」 ルーシー姫はニーアにドレスを確認させると、そのまま自分の馬車に向かって歩き出した。 ニーアは目を丸くした。 「着替えられないのですか?」 「まだ時間はあるわ。会場で着替えます」 ドレスの着付けは、かなり時間がかかる。髪も整えること考えれば、たしかに会場で着替えたほうが確実だろう。 ルーシー姫は職人についてくるようにいうと、そのまま馬車に乗り込んだ。 「人手が足りないから、あなたも乗って」 シャリアスもニーアとともに、職人の馬車に乗り込み、ルーシー姫の馬車を追いかけることになった。 しかし馬車に乗り込む直前、シャリアスは後ろに取り付けられた荷台を見て、足を止めた。 「……荷台ではなく、座席に入れたほうがいいのでは?」 「あんな大きな箱、どうやって中に入れるのよ。運び込んでるだけで時間がかかるじゃない」 「しかし……」 「いいから、早く乗って。時間がなくなるわ」 しかし結局はニーアに腕を引っ張られて、そのまま馬車に乗り込んでしまった。 *** 「皇妃様、人が多く道がふさがっております。裏口からお入りください」 会場近くまで行くと、警備の兵士にそのように言われた。 職人が言っていたとおり、かなりの人が集まっているようで、たくさんの馬車も宮殿の前に停まっている。 これではいつになったら、宮殿に入れるのかわからない。一方裏口は薄暗く道も悪いが、確かに馬車は少ない。 「皇妃を裏口に通すなんて……!」 ニーアは急に揺れ始めた馬車に、舌打ちをした。 「ラシャーナ姫が言い出したせいだわ。急に一般市民にも庭園を開放するだなんて、なにを考えてるのか……」 オスマルに勝利した年の冬送り。市民にもその喜びを分けるべきだと、ラシャーナ姫が突然言い出した。 結果、二度目の冬送りは会場となる宮殿の庭園が一般開放されることになったのである。一般市民は、皇帝や皇妃を滅多に目にできない。ひと目見ようと庭園にはたくさんの人が詰めかけていた。 「まったくもう……、少しも予定通りに行かないんだから……」 そうして苛立ったニーアが、親指の爪を噛んだときだった。馬車の後方から、がたんと大きな音がした。 「いま、変な音がしませんでしたか…?」 しかし道が悪く、元々馬車も揺れている。小窓から後ろを確認しようにも、薄暗くてよく見えない。 「そう? 私には何も聞こえなかったけど?」 「……後で見てみましょう。なにか嫌な予感がします」 *** 「なにこれ……!?!?」 結局、シャリアスの予感は当たってしまった。 控室に通されて、いよいよ着替えようかと言うときだった。 運び込まれたドレスの箱を開けてみれば、ドレスのスカートがずたずたに切り裂かれていた。 「絶対あの男の仕業じゃない……っ!!」 あの男というのは、荷台に乗り込んでいた職人のことだ。 シャリアスたちに馬車の座席を譲ったため、職人はドレスとともに荷台に座っていた。ならこんなことができるのは、職人しかいない。 「あの男はどこにいったの!?」 「すでに帰ってます。ルーシー姫にお届けしたので、仕事は終わったと言って、戻りました……!」 「なによそれ……っ! 絶対ラシャーナ姫の手先じゃない!」 騒ぐニーアとメイドたちの傍ら、シャリアスは厳しい顔でドレスを見下ろした。 職人は、ラシャーナ姫がよこしたものだ。 帝国産のシルクと、リョウ国産のシルクを組み合わせるには、どうしても技術がいる。警戒してはいたものの、彼らの技術を借りざるを得ず、ドレスを手がけさせた。 彼らは腕も良く、愛想も良かったので、ニーアたちも目を離してしまっていた。まさかここまで大胆なことをするなんて、思っても見なかった。 「……私が確認した以上、その言い分は通らなそうね」 ルーシー姫は切り裂かれたドレスを見下ろしながら、ぽつりとつぶやいた。 職人が持ってきたとき、たしかにルーシー姫はニーアにドレスを確認させた。 「でも、これはラシャーナ姫が仕組んだことですよ! 職人がギリギリまで持ってこなかったのも、ドレスを荷台で運ばせるためでしょう!? そうやって私達の見えないところで、ドレスを切り刻んだんです!」 そうして、ニーアが叫んだ瞬間だった。 「――相変わらず、その侍女はうるさく叫ぶのね」 ノックもされないまま勝手に部屋の扉が開けられた。 「私の名前が聞こえたのだけど、どうかされたの? その侍女の大声が、庭園中に響き渡りそうよ」 ラシャーナ姫である。 彼女はずたずたに切り裂かれたドレスにちらりと視線を送り、その扇の裏で薄く笑った。 「……ごきげんよう、ラシャーナ姫」 すかさず、ルーシー姫が頭を下げた。 ラシャーナ姫は、後宮の中で最も高位の妃だ。後宮では下位の妃から、高位の妃へと挨拶しなければならない決まりがあった。 「お久しぶりね。それで、どうしてこんなに騒いでるのかしら?」 「……実は移動中、ドレスが破れてしまったようなのです。一度自分の宮殿に戻り、ドレスを取りに戻ってもよろしいでしょうか」 「自分の(・・・)宮殿ではなく、西の宮殿と言いなさい」 「……申し訳ございません」 ルーシー姫が謝罪をすると、ラシャーナ姫はもったいぶるように視線を開いた。 かしずいたルーシー姫を見下ろして、目を細める。 「今から戻るのは許さないわ。式典にとても間に合わない」 ぴくりとルーシー姫が、体を揺らした。 この宮殿から、西の宮殿まではかなりの距離があり、馬車で往復するとそれなりに時間がかかる。道が混み合っている今ならなおさらだ。 一度宮殿まで戻り、着付けしてから会場に入っては、とても間に合わないとの言い分らしい。 「大方管理が悪かったんでしょう。……今の格好でも十分ではなくて?」 ラシャーナ姫はくすりと笑って、ルーシー姫のドレスを見下ろした。 今着ているのは、皇妃としての普段着だ。それなりに上質なドレスだが、冬送りの式典にふさわしいものかと言えば、そうではない。 皇帝の側室が王侯貴族たちの挨拶を受けるにふさわしいドレスを身に着けていないのは、これ以上ない非礼である。皇妃としての自覚が足りないと、批判されるのは目に見えていた。 「――とにかく宮殿に戻ることは許されないわ。あとはあなた達で解決しなさい」 ラシャーナ姫はそういって、部屋から出ていった。 「なによ。自分の企みが成功したかどうか確認しにきただけじゃない……!」 ニーアは吐き捨てるように言って、シャリアスの方を向いた。 「シャリアス、あなた馬に乗れる? 新しいドレスを取ってきてよ」 シャリアスは顎に手を当てて、少し考え込んだ。 しかし、首を振った。 「……無理です。新しくドレスを作ったのは、今回の式典にふさわしいドレスがなかったからです。今から宮殿に戻っても、冬送りの行事にふさわしいドレスは残っていません」 宮殿にあるドレスは、今ルーシー姫が着ているものと大差ない。 ルーシー姫はまだ帝国に来たばかり。手持ちのドレスは少なく、公的な行事にふさわしいものとなると、より数が限られる。 ルーシー姫は、ぱたりと自分の扇を閉じた。そして決意したように、顔を上げた。 「いいわ。これで出ましょう」 「姫様……っ!」 「平気よ。陛下もお許しになるし、このような事態にさせた方も、満足されるでしょう。私に恥をかかせるのが目的なら、それ以上にはなりません」 幸い手持ちの装飾品は無事だ。それらを身につければ、まだましな姿になるかもしれない。 「姫様いけません。これなら、欠席したほうがマシです!」 「むりよ。私の馬車が会場に入ったところは、すでに目撃されてる。直前に欠席すれば、それこそ問題だわ」 シャリアスはうつむいて、思考を巡らせた。 (……ここからなら、近い。馬車で移動もできなくもない……) (道具も全部揃っているし、人の手もある……) 「ルーシー姫」 そうして顔を上げると、ニーアと話し込むルーシー姫の前にひざまずいた。 「私を信じて頂けますか?」 「あなた、またそうやって出しゃばっ……!」「ええ、もちろん信じるわ。今は打つ手がないもの。考えがあるものには、耳を傾けましょう」 ニーアの言葉を遮って、ルーシー姫がシャリアスを許した。 シャリアスは礼を述べ、深々と頭を下げると、出口に向かって手を差し出した。 「では大変申し訳ありませんが、このまま服飾部へ移動してくださいませんか」 「どうして?」 「フィッティングが間に合わないのです。その場でドレスを着ていただきながら、穴を塞ぎます」 ドレスはスカート部分を中心に、あちこちが切り裂かれている。 直前まで行っていたサイズ調整も、もはや意味をなしていない。今からサイズを合わせるには、実際に身に着けながら手縫いで直すしかなかった。 「参りましょう」 シャリアスはルーシー姫の手を取ると、早足で移動を始めた。 「シャリアス様、なにかあったんですか?」 すると回廊を出てすぐのところで、ひとりの少年に声をかけられた。 「すみません。ルーシー姫の馬車をお見かけして、ご挨拶だけでもと思いまして……」 「……殿下」 シャリアスは足を止めて、少年にひざまずこうとした。……が、少年は慌ててシャリアスの手を取って、立ち上がらせた。 「やめてください。ここでは、アレン様の従僕として勤めています。今までと同じように接してください」 リーデルは、まっすぐシャリアスを見つめた。 「僕たちは友人でしょう?」 シャリアスはしばらく黙り込んだ。 そうして、おずおずと口にした。 「……では、馬車の手配をお願いできる? なるべく目立たない馬車がいいわ」 今は一人でも多くの手を借りたかった。 *** シャリアスたちは、リーデルが用意した馬車に乗り込んだ。 会場に食べ物や酒を運び込むために用意された、使用人の粗末な馬車で、目立たずに移動することができた。 シャリアスは服飾部に着くなり、ルーシー姫の手を引きながら走った。久しぶりに訪れたかつての職場だったが、懐かしんでいるヒマもない。 「誰かいない!?」 そして服飾部の扉を開けると同時に、大声で叫んだ。 ほとんどのメイドたちは、冬送りの手伝いに駆り出されていたが、作業に残っている者も少しはいるだろうと踏んでいた。 「シャリアス!? どうしたの?」 ヴィネットの声が聞こえて、シャリアスはほっと息を吐いた。 「その方は……」 ヴィネットはシャリアスに支えられて歩く美しい女性にちらりと視線を送った。 「ルーシー姫よ。今は時間がないの。ドレスを縫うのを手伝って」 本来なら皇妃に挨拶しなければならないが、それさえも時間が惜しい。シャリアスは振り返り、ルーシー姫の両手を握った。 「ルーシー様、今着ているドレスを脱いで頂けますか?」 「わかったわ。ニーア、手伝って」 すると我々を送ってくれた少年が、扉の前で頭を下げた。 「では僕は外に出ています。それとも、なにか手伝えることはありますか?」 シャリアスは顎に手を当てて、すこし考え込んだ。リーデルはアレンの従僕であり、ヴァシレウ家の血を引く皇子である。 ひとりでも多くの手伝いが必要な今、彼のような人材を待たせておくのは惜しい。 シャリアスは、顎に手を当てて考え込み、そして顔を上げた。 「……先ほど馬車を引いていた馬は、大きかった?」 「いえ。特別大きくはありません。使用人用の馬車ですから」 「では、なるべく大きな馬を用意してきてほしいわ。華やかで、見た目がいいものがいい」 「わかりました。必ず探してきます」 リーデルは頷いて、駆け足で部屋を出ていった。シャリアスはそれを横目で見送りながら、すぐにルーシー姫の元へ戻る。 「シャリアス、脱げたわよ」 振り返れば、床に落ちたドレスと、肌着姿のルーシー姫がいた。 「では、しばらく座って待っていていただけますか。今からドレスを直します」 シャリアスはルーシー姫に毛布を手渡すと、ドレスをつかんだ。ルーシー姫が今着ていたドレスと、無残に切り裂かれたドレスの、二枚である。 「なっ……!!」 そしてためらうことなく、それらを手で引き裂いた。 「ちょっと! なんで破いてるのよっ!!!」 ニーアが慌ててドレスを奪い返そうとしたが、シャリアスは彼女の手にドレスの型紙を押し付けた。 服飾部に残っていたものを元に、自分が覚えている範囲で今のドレスに修正した、型紙である。 「今は時間がありません。あとから説明するので手伝って頂けますか?」 「でも、今からドレスを作っても絶対間に合わないじゃな……!」「ニーア」 再びルーシー姫が、ニーアを遮った。椅子から立ち上がり、裁断用のハサミを手にとった。 「私も手伝うわ。ニーア、布の切り方を教えて」 「しかし……」 「いいから」 そうしてニーアが渋々布を切り始めたのを見て、シャリアスは再びドレスに視線を戻した。 「どうするのこれ?」 ヴィネットたちの表情は暗い。曲がりなりにも服飾部のメイドだ。このドレスを修正するのがどれほど難しいことか、よくわかっているらしい。 「……まず分解を続けるわ。袖を外して、スカートと前身頃も外す。……あとは、考えながらやりましょう」 ――それからというもの、シャリアスは猛然と作業をした。 ルーシー姫に着せた状態で、ドレスにミシンを掛け続けた。最初は形も見えなかったドレスも、パーツが組み合わされていくうちに、徐々に形をなしていく。 これなら、間に合うかもしれない。 そうして誰しもが、安堵したときだった。 ミアがどたばたと足音を立てながら、戻ってきた。 「シャリアス! 布がないわ!!!」 あと少し……。足りない生地をどこかから見つけてきて、スカートに合わせるだけというときだった。 「さっき他の皇妃様が、布を持っていってしまったんですって……!」 もしかしたら、ラシャーナ姫が手を回したのかもしれないし、ただの偶然かもしれない。 需要が高すぎて、服飾部のシルクは常に在庫がない。服飾部にシルク生地が一片もないというのは、十分有り得る話だった。 「……っ」 シャリアスは一度手を止めて、爪を噛んだ。 使用人のドレスを使おうにも、シルクの服を着ている者はいない。ニーアだけがシルクのドレスを着ていたが、色が違いすぎて使いようがなかった。 今服飾部に残っているのは、シルク以外の生地……麻やコットンといったような生地だけ。 それらの色は豊富に揃えられているが、今作っているドレスは、最高級のシルク生地が使われている。麻のような艶のない生地を使えば、どうしても浮いてしまう。 ルーシー姫が着ていたドレスはすでに大半を使用していて、大きな面積を覆うだけのものは残っていない。 「…………」 シャリアスはぐるりと部屋を見回した。 そうして息を大きく吸い込んで、ルーシー姫の前にひざまずいた。 「ルーシー姫、最善を尽くしますがうまくいかなければ、私に罪を押し付けてください。ヘロットの私が破いたことにすれば、ルーシー姫の責任にはなりません」 「好きにして。あなたがこんなに楽しそうにしているところを初めて見たわ。うまく行かなければ、私が責任を取ります」 シャリアスは深く感謝の言葉を述べると、ルーシー姫に「ではもう一度、ドレスを脱いでください」と頼むのだった。 *** 「――では、失礼します」 騎乗したリーデルが、ルーシー姫の手を取った。ニーアに支えられながら、彼女はふわりと鞍に乗った。 「……背中はピンで止めているだけです。どうか大きくは動かれませんよう」 見送りのためにひざまずいていたシャリアスが言えば、ルーシー姫はそのブルグレーの髪を緩やかに見下ろした。 「……最初は嫌がらせで、ヘロットメイドを寄越したのだと思ってたわ」 何度も針を指した指には包帯が巻いてあり、服にはあちこち糸くずがついている。皇妃付きの色が入っているとはいえ、着ているものは最下級のメイド服だ。 「でもメイド長が、あなたを勧めた理由がよくわかった」 服飾部でのやりとりを見ればわかる。 「クイーンズシルクの功労者は、ヘロットメイド出身だという噂を聞いたの」 ヘロットメイド相手に、服飾部のメイドたちがなんのためらいもなく従っていた。 「……あなただったのね?」 シャリアスは深々と頭を下げた。 「そのような事を、言っていただくこともあります。しかし実際に完成させたのは、服飾部です。私だけの力ではありません」 「……そう」 ルーシー姫は視線をそらし、今度は自分の足元を見た。そこには心配そうに自分の手を握る、侍女がいた。 「ニーア、あなたはわざと私からシャリアスを遠ざけていたわね?」 するとニーアが、はっと目を見開いた。 「私はただ、卑しいヘロットメイドを姫様に近づけたくなくて……っ」 ルーシー姫は片手を上げて、侍女を黙らせた。 「自覚がないようだから、ここで言うわ」 「――あなたのような者のことを、奸臣というのよ。主を軽視して、自分の思い通りに操ろうとする臣下のこと」 ニーアははっと目を見開いた。そしてくしゃりと顔を歪めながら、必死に顔を振った。 「わ、私はただ、姫様のことをお守りしようと……っ!!」 「あなたの気持ちはわかる。でも私は馬鹿ではないの。仕えさせる人間は、私が決める」 ルーシーはぽろぽろと泣き出したニーアの目元を、そっと拭った。そうして改めて、シャリアスに声をかけた。 「シャリアス、ごめんなさいね。ニーアは世間知らずでまだ幼いの。これからも、仲良くしてくれる?」 「はい。もちろんです」 シャリアスのはっきりとした返事に、ルーシー姫はやわらかくほほえんだ。そうして前に乗るリーデルに、馬の腹を蹴るように言った。 *** 皇帝は、こつりと手元のワインを置いた。 階下に視線を送れば、ひしめく皇妃たちの中、ぽつりとひとつ空席があった。 「ルーシーはまだか?」 すると背中に立っていた寵臣が、わずかに身をかがめた。 「なにかトラブルがあったようですが……。まもなく来られるかと」 「またあの女の仕業か」 ため息交じりに言ったが、寵臣はなにも言い返さなかった。憶測で答えるには、少々重すぎる話題だった。 「……めんどうなことばかりだな」 皇帝は寵臣にしか聞こえないような声量で、ぽつりとつぶやいた。 ……ともかく彼女が困っているのなら、それなりに手助けをしなくてはいけない。 弟に頼み込まれ、馬を一頭貸したものの、それで足りるかどうか。 まもなく式典が始まる。 そのときにあの女がいなければ、今後が困る。ここであの女を、見せつけて置かなければいけないのだ。 「――アレン」 皇帝は力添えしてやるために、寵臣に声をかけた。察した寵臣は静かに自分の元から離れていき……、しかしそこで足を止めた。 庭園の中央、招かれた客人たちの馬車が通る道を走り抜ける馬が一頭。 皇帝の愛馬の証である、皇室の紋章が刻まれた馬衣をまとったその馬を止めるものはいない。 馬の背に乗るのは、少年と美しい女だった。 女のスカートは長く、馬が走る度に白いレースが揺れた。 艶のある深い緑のシルク生地と、異国の文様が入った金の生地が組み合わさったドレスを、柔らかく白いレースが覆っている。 体に沿って作られたドレスに比べて、レースは緩やかに作られていて、それが馬が走る度に揺れるのが、返って人目を引いた。 そのレースが、まさか服飾部のカーテンだと気づくものは誰もいないだろう。 ただ美しいクイーンズシルクを覆う、女神のような衣はなんだろうかと、目を凝らすだけだ。 皇帝は立ち上がり、宮殿の入り口まで歩いた。馬もまた宮殿の入り口で足を止め、現れた主に向かって鼻を鳴らした。 「……陛下」 「散々待たせておいて、なかなかいい演出をする」 皇帝は、寵妃(・・)に向かって手を伸ばした。 「申し訳ありません。リーデル殿下とシャリアスに助けて頂きました」 「構わん。まっすぐ歩け」 ――皇帝が美しい寵妃と共に、群衆の前を歩く。 その姿は、数ある冬送りの中でも最も象徴的な瞬間となった。 *** ――こうして、無事に冬送りのパーティーは終了した。 式典はつつがなく進み、続々と皇帝に挨拶しにきた王侯貴族は、ルーシー姫の美しいドレスに目を奪われていた。 オスマルの台頭で疎遠となっていた帝国とリョウ国の関係は、この冬送りを機に本格化していく。シルクも含め、これから莫大な額の貿易が始まるのだ。 帝国産のシルクと、リョウ国産のシルクを組み合わせた彼女のドレスは、まさしく両国の融和を象徴するものとして絶賛された。 一方、なにごともなく……むしろ事を起こした前よりもずっと美しいドレスをまとって現れたルーシー姫に苛立っている者もいた。 美しい白馬とともに現れたルーシー姫を見て、彼女らはぴくりと眉を跳ね上げたが、その表情の意味を知るものは、決して多くはなかっただろう。 リョウ国との関係回復の節目の日に、帝国産とリョウ国産の生地でできたドレスを傷つけるという、責め立てるに十分な状況を作り出すつもりが、全て裏目に出てしまった。 ――ルーシー姫の美しさとドレスは、しばらく社交の間で持ちきりになった。
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