第二章 皇帝の寵妃 2

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第二章 皇帝の寵妃 2

それから西の宮殿は、随分とにぎやかになった。 ルーシー姫は皇妃の中で、最も市民の支持を受ける妃となり、数々の貴族からの誘いが耐えなかった。 彼らはなにかと用事を作っては西の宮殿に訪れ、ルーシー姫と茶会を行う。 寵妃とは、皇帝と最も親しい人間のうちの一人である。時として宰相以上に皇帝を動かす力を持つ。 この歴史長い帝国の王侯貴族のうち、脛に傷を持たない者などいない。貴族と在任の違いとは、皇帝の庇護があるかないか。皇帝が頷けば貴族であり、皇帝が首を振れば国賊になる。 彼らは皇帝の首を縦に振らせ続けるために、なにかにつけてルーシー姫を手土産を持ってきた。宝石類はもちろん珍品や書画骨董の類を惜しみなく、彼女への面会料として支払った。 現皇帝ラフテル二世は、毎夜のように彼女の宮殿に訪れる。この寡黙で底知れない皇帝がこれほど妃を寵愛したことはなく、彼女の閨での囁きは、小国以上の価値があると言われた。 ――西の宮殿に、莫大な金が集まり始めていた。 シャリアスは、ひとり後宮を歩いていた。 冬送りのために毎日せわしなく働いていたメイドたちも、ようやく落ち着きを取り戻しつつあった。 「西の宮殿、昨日も宝石商人が来てたそうよ 「あ、それわたし見たかも。すっごい大きな宝石を、ケースに入れて持ち歩いていたわ。ルーシー姫って、スアンニアの出身でしょう? 宝石の名産地なのに、帝国の宝石も好きなのね」 「骨董品や美術品も、たくさん集めてるって聞いたけど。皇妃ひとりに西の宮殿なんて大きすぎると思ったけど、ルーシー姫はすべての部屋を倉庫にしてしまいそうね」 「陛下からもたくさんの贈り物を頂いているみたいだし……。こういうのを傾国の姫君っていうのかしら」 「しっ。聞かれたら怒られるわよ」 彼女たちは無邪気に笑って、シャリアスの脇を通り過ぎた。 シャリアスのメイド服には、西の宮殿の所属を示す緑の差し色が入っていたが、彼女たちの目には入らなかったらしい。 しかし彼女たちだけが、うかつな態度を取っていたわけではなかった。後宮を少し歩けば、同じような話をあちこちから耳にすることができた。 強い光が生まれれば、その分濃い影も落ちる。 日に日に隆盛を極める西の宮殿の主に、眉をひそめる者もいる。後宮の首席皇妃を筆頭に、毎日西の宮殿を訪れる貴族たちを日和見主義だと揶揄する者は多かった。 彼らが言い出したのか。それとも自然に生まれた話なのか。 当時絶賛されたドレスは、今になって「華美すぎた」とか「浪費の象徴に他ならない」といった評価を受けるようになっていた。 彼らから言わせれば、皇帝の愛馬に乗って現れたのは寵愛の証ではなく、寵愛を盾にして陛下を軽んじる、悪女の証であるらしい。 シャリアスはメイドたちの噂話の中を縫うように歩きながら、白い宮殿の門に近づいた。 門前には貴族たちに手紙を持たされた小間使いたちが、ずらりと列をなしている。執り成しを求めてくる彼らに頭は下げつつも、突き出してくる荷物は受け取れない。 シャリアスは彼らに謝りながら通り過ぎ、門をくぐった。 そうして主の部屋に向かい、扉をノックしようとして手を止めた。 「手段は選ばなくていいわ。すべて買い入れて」 「……しかし」 「全てよ。どんなにお金を使ってもいい。上から下まで全部買って」 我が主が、侍女とともになにか会話を交わしていた。それは皇帝の前で話すときの、穏やかな主の声とは打って変わって、少し神経質な声だった。 「無理ですよ。こんな金額……」 「少しは黙って私が命じたことをやりなさい。あなたは私の使用人でしょう? 早く仕事して」 これらの会話は、自分が聞いてはならないもののような気がした。 シャリアスは自分の存在を知らせるために、部屋をノックした。部屋はすぐに静まり、少々の沈黙を経て、返事がきた。 「誰?」 「シャリアスです。俸禄を頂いてまいりました」 「入って」 主の返事に、シャリアスは扉を開けた。 手に持っていた俸禄を掲げながら、ゆるやかに部屋に入る。部屋の中央には、宮殿の主とその侍女がいた。 部屋にはたくさんの宝物であふれかえっていて、もはや片付けも間に合わない有様だ。 「額面通りに頂きましたが、いかがいたしましょう」 「お疲れ様。そこに置いてくれる?」 シャリアスは頷いて、支持された書斎の上に俸禄を置いた。 俸禄とは、皇妃たちに支払われる給料のようなものだ。与えられた皇妃の位や、役割に応じて増減するが、その役目を担うための最低限の金額が、宮廷から支払われる。 何人もの使用人を養うことが想定された俸禄は、それなりの大金になるが、ドレス代や装飾品、各方面への付け届けを考えれば、これだけでは足りない。 大抵の皇妃は、自分たちの支持者にこれを補填させていた。 ルーシー姫も同じように、この部屋中にあふれた金銀財宝によって、宮殿で働くたくさんの使用人たちを養っている。 俸禄を置いた瞬間、書斎に積み上げられた本がぐらりと揺れた。シャリアスはとっさに本をおさえたが、崩れかけた本の山からはらりと一枚の紙が床に落ちた。 どこかの土地の地図と大量の数字。そして長々と書き添えられた、異国の言葉。 シャリアスは目を細めて、それを拾い上げようとした。 「あなたの分を持っていったら?」 が、ぴりっとした声を聞いて、思わず手を止めた。シャリアスは立ち上がり、主に向かって頭を下げた。 「……いえ、私はヘロットメイドですので報酬は頂いておりません」 ヘロットメイドは、奴隷である。 一般のメイドに対し、ヘロットは皇帝の財産。食べ物とベッドが、彼らの給料代わりだ。 「そう」 ルーシー姫は大して関心がなさそうに返事をして、手元の扇を閉じた。 「主のものを、勝手に触るのは関心しないわね」 「申し訳ございません。本が倒れそうで、思わず支えてしまいました」 「そう。でも動かさないで。今調べ物をしているから、勝手に動かされたらわからなくなるわ」 「はい。大変失礼いたしました」 深々と頭を下げたシャリアスを、ルーシー姫はしばらく眺めた。そうしてゆるりと扇を振った。 「今日は商人が来るから、もうあなたは来なくていいわ。部屋で休んでいて」 「はい」 シャリアスは改めて頭を下げると、そのまま自分の部屋に戻っていった。 *** ――それからしばらく。 シャリアスは再び後宮を歩いていた。 ルーシー姫と親しい皇妃への使いを頼まれていて、他にいくつかの小用も言いつけられていた。そのどれもが西の宮殿からは距離のある場所ばかりで、今日は朝から出歩いている。 ドレスの一件以来、率先して邪険に扱われるということはなくなった。 新しくニーアの近くの部屋を充てがわれたし、陛下が来たからと言って、庭掃除を申し付けられることもない。 ただ最近は、外回りの仕事ばかりを頼まれるようになっていた。 それが勝手に書斎を漁る使用人だと思われたからなのか、なにか他に考えがあってのことなのかはわからない。 ただ事実として、宮殿の主はシャリアスを遠ざけたがり、もっぱらニーアと自室に閉じこもっていた。 噂もまた、着実に広まっていた。 率先して噂を流している者もいるのだろうが、なにより実際の目撃者が多いせいだ。 実際に、西の宮殿へと商人たちを案内した者。西の宮殿から、大量の金が運び出されるところを見た者。 彼らが噂を信じるに足る理由や出来事が、あまりに多すぎた。 「西の宮殿の方は、かなり金遣いが荒いらしいな」 後宮の最も端、外壁を守る兵士さえも噂する有様だった。 「贈られた金品は、すぐに現金に替えるらしいぞ。それもあっという間に使っちまうんだと」 「もっぱらドレスや化粧品に使われてるって話だが、皇帝の気を引くためには、そこまでしないといけないのかね」 「初めて見たときは、慎ましくしとやかな皇妃だと思ったが……。いやあ、寵愛を受けると、どんな女でも変わってしまうな」 彼らはシャリアスの姿を見ると黙り込んだが、道を曲がれば、別の兵士たちから再び同じような話を耳にできた。 (疲れた……) シャリアスはため息をつきながら、宮殿に戻った。 あまりに外回りの用事が多すぎて、すっかり夜になっていた。すでに他のメイドたちは自室に戻っていて、主の部屋だけが明かりをともしている。 シャリアスは用事の報告をするために、主の部屋を訪れた。 そうして、足を止めた。 「いけません!!!」 わずかに開いたドアの隙間から、大きな声が聞こえてきた。 「これは売ってはなりません……っ!!」 「でも売れるものは、もうこれしかないのよ」 「でもこれは、値段が付きません。貴重すぎて、帝国では誰も価値を知りませんよ……!! 価値を知らない商人に、買い叩かれるのが目に見えてます!」 なにか悲痛な、追い詰められたような声だった。 明らかに一介のヘロットメイドが、耳にしてはいけない会話だった。シャリアスは以前と同じように、自分の存在を教えるため、扉をノックした。 「シャリアスです。今日のご報告に上がりました」 「……入って」 シャリアスは部屋に入ると、奥に座ったルーシー姫と侍女に向かって頭を下げた。そうして、今日頼まれた用事をひとつひとつ報告したが、彼らは一言も喋らなかった。 顔を伏せながら、ちらりと視線だけ上げると、ルーシー姫が座したテーブルの上に、金色に輝くなにかが見えた。 一見装飾品のようだが、形は丸く、首にかけるためのチェーンもなければ、指輪のための台座もない。 「――ご苦労さま。もう休んでいいわ」 報告を終えたシャリアスに、ルーシー姫は手を降った。 しかし呼びかけられたシャリアスは、いつまでも退席しようとしなかった。ただ頭を下げたまま、ぽつりと言った。 「……私が売ってまいりましょうか?」 するとルーシー姫が、ぴたりと固まった。 「申し訳ございません。部屋に入る前に聞こえてしまいました」と謝罪すれば、ルーシー姫はぐっと眉間にシワを寄せた。 「あなた、これがどれほどの価値を持つかわかるの?」 「はい。懐中時計ですよね」 この帝国で、懐中時計を知るものは多くない。 一般的に時計と言われて思い浮かべるものは、教会に設けられた大型のクロックタワーだ。 それも大抵の庶民はその文字盤さえ読むことができず、一定の時間ごとに鳴り響く鐘の音を手がかりにして、大体の時間を把握している。 貴族の家ならば、精巧なゼンマイや振り子によって作られた時計を目にすることができるだろうが、それも多くは一抱えほどある置き時計で、このような小さな時計はほとんど見られない。 帝国の人間の多くはこの品物を見ても、宝石で縁取られた金属の塊としか思わないだろう。 時計であることを理解したとして、果たして時計を懐に持ち歩ける価値が理解できるかどうか。「鐘の音を聞けばいい」と返されてしまえば、それまでである。 帝国も含め、この大陸の大半の人間が、まだ時刻を知ることに価値を見出していなかった。 「私が帝国に来て、一年が経ちました。私なら価値がわかる方を探し出せるかと……」 「……あなたはヘロットメイドでしょう?」 シャリアスは一歩前に出て、改めて頭を下げた。 「運良くクイーンズシルクに携わりまして、様々な方と交流があります。決して期待を裏切りませんので、どうか任せてくださいませんか?」 ルーシー姫は、じっとシャリアスの頭を見つめた。 「……ただひとつ、頂きたいものがございます」 「なにがほしいの?」 シャリアスはルーシー姫に向かって、両手を出した。 「スタンニア産のエメラルドをひとつ、頂けますか? なるべく大きなものがほしいのです」 すると、傍らに立っていたニーアが目を見開いた。 「あなた、姫様にせびる気なのっ!?」 スタンニアは宝石の産地だが、エメラルドはその代表格だ。 この広い大陸には無数の鉱山があるが、エメラルドの等級分けを行う時に基準とされるのが、スタンニア産のエメラルドだった。 大陸の各王室で保有される著名なエメラルドは、ほぼスタンニア産のものだと言って過言ではない。 ルーシー姫はシャリアスが差し出した両手を見下ろした。 「……そうね。あなたはヘロットメイドで、金を持つ権利もない奴隷だったわね。このくらい、取っておいてもいいでしょう」 ルーシー姫は指にはめていた指輪をひとつ外すと、床に落とした。カツンと床に跳ね返り、シャリアスの足まで転がっていった。 「ちゃんと売ることが出来たら、もっと上等なものを贈ってあげるわ」 「……ありがとうございます」 シャリアスは指輪を受け取ると、あっさり部屋から出ていった。振り返りもしないその姿は、ニーアにとっても憎たらしく見えた。 「人の足元を見るような態度ですよ……っ!!!」 「いいのよ。あの程度で時計が売れるなら、安いくらいだわ」 「あの子は、もっとまともなだと思ってたのにっ……!」 ルーシー姫は目を伏せながら、ポツリと言った。 「……きっといろいろな噂を耳にしているわ。私のことが許せないのよ」 *** 手紙を出したところ、予想以上に返事がはやかった。 シャリアスは一介のメイドであり、こちらの都合で呼び出すなど無礼極まりない行為だったが、気にした様子はなく、あっさり段取りを考えてくれた。 呼び出された場所に向かうと、見知らぬ騎士がいた。 その騎士に案内されるまま、とある後宮の建物に入ると、部屋の真ん中に約束した人物が座っていた。 「――久しぶりですね」 シャリアスは入室するなり、すばやくひざまずいた。 「申し訳ございません。アレン様しか、相談できる方を思い浮かばず……」 「ええ、構いませんよ」 アレンはシャリアスに立ち上がるようにいい、さらには椅子まで勧めた。シャリアスは迷ったが、断っても再び勧められるのは目に見えていたので、素直に着席することにした。 「どうぞ」 あっさり紅茶までいれられてしまい、シャリアスは縮こまりながら、それを受け取った。 「元気そうですね」 「そうですね。不自由なく過ごさせていただいております」 顔を覗き込まれて、シャリアスは少し後ろに体を引いた。 「でしょうね。西の宮殿なら、虐げられることはないでしょうね」 傷もなければ、痩せてもいないシャリアスに、アレンはにっこり笑いかけた。シャリアスはわずかに笑い返してみたが、書記官長相手では、とても自然な笑顔はできない。 「……それで、私に見せたいものとはなんでしょうか?」 本題に入ったことで、シャリアスは背筋を正した。そうして抱えてきた小箱を、緩やかに開く。 「こちらです」 「……ほう?」 アレンは中身を見るなり、笑顔を消した。目を細め、じいっとその金の塊を見つめ続けた。 「大変高価なものですが、アレン様なら興味を示されると思いまして……」 「いいですね。こういう物は大好きですよ」 アレンはそれを取り上げ、中身を開けた。カチカチと音を立てる文字盤を満足気になで、ひっくり返した。 そうして裏面に刻印された文字を見て、再び表情を消した。 「……い、いかがでしょう?」 その視線に、シャリアスの心臓は跳ねる。 アレンはちらりとシャリアスの顔を送ると、ぱたりと蓋を閉じた。そうして元の小箱の中に、金属の塊を戻した。 「――つまり陛下が興味を示されるだろうから、私を通じて買い取っていただこうということでしょうか」 「……っ」 シャリアスはぎくりと体を跳ねさせた。 「そ、そこまでは言いませんが……。その……、アレン様なら良い方法を思いつかれるかと」 慌てて弁解すれば、アレンはふっと笑った。 そしてあっさり快諾した。 「いいですよ」 「……ほんとですか!?」 「ええ。これほど精巧な懐中時計なら、陛下も気にいると思います」 「なら、よかったです……!」 シャリアスはぱちんと手を合わせて喜んだ。 「では色々と手入れをして改めて持ってまいりますねっ……!」 椅子から立ち上がり、テーブルの小箱を抱きかかえようとした。 ……が、その瞬間アレンががしっと小箱をつかんだ。 「でも、私が買い取ります」 「……えっ、でも……」 「それが一番よろしいのでは?」 ぎらりと光ったアレンの視線に、シャリアスは一瞬固まった。そして少しの間考え込んだが、結局頷いた。 まさしくシャリアスが、望んでいたことだったからだ。 「……その、少し手入れをして、それからのお渡しでよろしいでしょうか? 早くて二週間後になると思うのですが」 「もちろん良いですよ。そのときに代金は持ってまいりますね。現金でよろしいですか?」 「げ、現金ですか!?」 シャリアスは目をむいた。 通常、このような大きな買い物をするときは、分割払いか小切手。同程度の価値のある宝飾品で支払うのが普通だ。 金貨となると場所も取るし、とにかく重い。現金を持ち歩くのは一般市民が多く、それも少額だ。 大量の現金を持つのは、銀行家か大貴族だけ。果たしてこの時計を即日現金で買い取れる人間が、国内にどれほどいるか。 (アレン様って、どれほどの財力をお持ちなの……っ?) もちろん、アレンは皇帝の寵臣(テラポーン)であり、書記官長である。 別途爵位も持つのなら、押しも押されもせぬ上位貴族であることはわかっていたが、これを現金で支払うとなると……。 シャリアスが黙り込んでいると、アレンが笑った。 にこにこと人懐こい、しかし底知れない笑顔だった。 「では、現金と宝石のどちらがいいのか、ルーシー姫に伺ってきてください。おそらく、現金でしょうが」 「…………わ、わかりました……」 (これが、ルーシー姫のものだってことも、バレてる……) シャリアスは冷や汗を流しながら、深々と頭を下げたのだった。 *** ――それからしばらく。 冬送りのシーズンが終わり、帝国には穏やかな春が訪れていた。 つまり社交シーズンはピークを迎えつつあり、各皇妃や貴族のもとで毎日のように華やかなサロンが開かれていた。 今日集まった皇妃たちも、冬送りのときのように寒さに凍えている様子はない。まだ冬の名残が残る風も、温かな紅茶を楽しむのに丁度いい寒さだった。 「ルーシー様、毎週のように宝石商人と会われてらっしゃるようですが、珍しいものはございました?」 「ええ。色々と見ましたが、やはり帝国は加工技術が素晴らしいと思います。母国の宝石も、この国で加工していただいたほうが価値が出るかもしれません」 「まあそれは、楽しみですわね。私もスタンニア産の宝石をいくつか持っておりますけど、やはりどれも美しくて見とれてしまいます」 当然シャリアスもルーシー姫の後ろに控えながら、皇妃たちのサロンに参列していた。 しかしその横顔は若干複雑そうな、なんともいえない顔をしていた。 (……まさか本当に、現金で持ってくるなんて……) ついさっきまで、宮殿に運び込まれた金貨をせっせと倉庫に運び込んでいたのだ。 昨日が約束の期日だったのだが、あまりに量が多すぎて今日の朝までかかってしまった。 金貨を山のように詰め込んだ馬車が、しめて七台。それも一台一台が重いため、一頭立てではなく、二頭立ての馬車だった。 突如として西の宮殿に現れた馬車の隊列に、何事かと見物に来る使用人もいたほどだ。 自分が売った手前、それほどの量になることは予想していたが、実際に目にするとやはり顔はひきつってしまう。 (……でもまあ、それでお元気な顔が見られたなら……) ちらりと見上げるのは、皇妃たちと会話を重ねる我が主だ。 日に日に表情が暗くなっていた彼女だったが、昨日は深く眠れたようで随分顔色が良くなっている。このようなサロンの際に、自ら茶菓子に手を付ける姿を見るのも、久しぶりだった。 そうしてサロンも終盤というところで、ひとりの騎士が会場にやってきた。白の服を着た、皇帝直属の騎士である。 「――陛下がいらっしゃいます」 皇妃たちが立ち上がり、馬に乗った陛下を出迎えると、陛下は馬上からルーシー姫を見下ろした。 どうやら政務の合間を縫って、ここまでやってきたようだった。 「お前に贈りたいものがある」 皇帝は使用人を手招いて、ルーシー姫に小箱を差し出させた。使用人が蓋を開けば、そこには金の小さな丸い塊が見えた。 「珍しいだろう? これほど小さな時計は、久しぶりに見た」 サロンに招かれていた夫人や皇妃たちが、一斉に沸き立った。 「あれはなに?」 「時計よ! あんな小さな物は初めて見たわ」 「すごいわ。これ以上ない貴重な品ね?」 彼女たちも普段なら、時計の価値について、懐疑的な姿勢を見せたかもしれない。 ただ皇帝が貴重な品(・・・・)として、寵妃に手渡した。その瞬間、この懐中時計の価値はまさしく貴重なものとして、定まったのである。 ルーシー姫は、しばらくその時計を見下ろしていた。 「アレンが見つけたんだが、あまりに珍品だったため、私に贈ってきた。よく見れば、スタンニア産のエメラルドが埋め込まれていてな。……ならば、お前に贈るべきだろう?」 小さな手のひらにも乗る大きさで、蓋はダイアモンドで縁取られ、中身は金字の文字盤が輝いている。 帝国に向かう道中、落として欠けてしまった縁飾りには、代わりにエメラルドが埋め込まれていた。 「同じような指輪を持っていなかったか? それと合わせればちょうどいい」 ルーシー姫は察したように、目を閉じた。 「嬉しいです。まさかこんな貴重なものを、贈っていただけるとは……」 そうして目元に涙をにじませながら、陛下に向かってひざまずいた。 「ありがとうございます。……この上なく、感謝申し上げます」 *** サロンが終わったあと、シャリアスは主の部屋の真ん中で、ひざまずいていた。 主の手元には、丸々戻ってきた懐中時計が置かれてる。 西の宮殿の主は、めったなことでは怒らなかった。たとえメイドが寝坊しようと、目の前で皿を落とそうと、常に穏やかに接していた。 「……こんな人を騙すような真似を、よくできるわね」 しかし今の彼女の表情は、厳しかった。鋭い視線で、目の前の使用人を見下ろしていた。 「これが私のもとに戻ってくるように、仕向けたわね?」 シャリアスはただただ、彼女に向かって頭を下げ続けた。 「わざとスタンニア産のエメラルドを埋め込んで、陛下が私を思い出すようにした。そうすれば寛大な陛下は、当然私に時計を贈るわ」 ルーシー姫が、一度強くテーブルを叩いた。 「あなたは陛下をなんだと思っているの?! 時計は手元に残したまま、陛下に代金だけ払わせるなんて……っ!」 そうして立ち上がり、卑しいヘロットメイドに向かって大声を出した。彼女自身、人生でこれほど大きな声を出したことはなかった。 「申し開きの内容によっては、陛下に代金をお返しし、あなたを詐欺師として突き出すわ! 私も陛下に謝罪します。その場合は、その首が落ちることを覚悟しなさい」 しかしシャリアスは、ルーシー姫の叱責に怯えることはなかった。ただ緩やかに顔を上げ、ルーシー姫をまっすぐ見つめた。 「申し訳ございません。今回のことは、決して故意ではなかったとは言いません。確かに私は、ルーシー姫のもとにこの時計が戻ってくるように仕向けました」 「――その時計がルーシー姫にとって、とても大切なものだろうとお見受けしたからです」 ルーシー姫の手が、ぴくりと揺れる。 「……恐れながら、その時計は姫様のお母様の時計ではないでしょうか。この大陸発の懐中時計は、スタンニアの王妃に贈られたものだと記憶しております」 鉱山が多いスタンニアは、当然宝石の加工も盛んだ。細かい技術を得意とする職人が多く、その延長で金型技術も発展している。 この大陸に出回る小型のからくり時計や、特殊な錠前はスタンニア産のものが多く、大陸で初めて作られた懐中時計もまたスタンニア産だった。 「だとしたらなんとしても、ルーシー姫のお手元にとどまらせなくてはいけないと思いました。……スタンニアの王妃様は、今回の戦火によって亡くなられているからです」 この懐中時計を見たとき、縁飾りのティアラの刻印に気がついた。 その時点でシャリアスは一定の仮説を立てていたが、裏にスタンニアの宝石工房の名前と年代が刻まれているのを見つけたとき、確信に変わった。 「また私は陛下に直接お売りしたわけではありません。アレン様に、買い取っていただいたのです。アレン様は厚意で、それを陛下にお贈りいたしました」 昨日届いた金は、全てアレンのものだ。陛下に直接、懐中時計を売りつけたわけではない。 「私はただ、欠けていた縁飾りのダイアモンドを一つ、頂いたエメラルドに入れ替えただけです」 「ルーシー姫のご寵愛がなければ、このようなめぐり合わせにはならなかったでしょう」 シャリアスはほんの少しだけ、その方向へ行くように小手先を整えただけ。本筋の展開は、ルーシー姫自身がもつ陛下の寵愛と信頼が引き寄せたのだ。 「……つまりあなたは、陛下とアレン様のお考えを予見し、自分の罪にならない範囲で売りさばき、私の手元に戻ってくるように仕向けたってこと?」 「そこまでは、言いませんが……」 シャリアスが言葉を濁せば、ルーシー姫は額に手を当てて、ため息を吐いた。 そうして緩やかに、椅子に腰を下ろした。 「…………あなた、恐れを知らないわね」 「申し訳ございません」 「どうして私に協力したの? あなただって私の噂を耳にしたでしょう?」 「……それは」 シャリアスが言いよどんでいると、ひとりのメイドが部屋に飛び込んできた。 「陛下がいらっしゃいます」 彼女が告げた直後、美しい金髪の男が部屋に現れた。後ろには、彼の寵臣もついてきていた。 皇帝は部屋に入るなり、ちらりとひざまずいたヘロットメイドに視線を落とした。 「取り込み中だったか?」 「いえ構わないでください。大したことではありません」 ルーシー姫は立ち上がり、陛下に席を勧めた。 「お忙しいでしょう? 小物には構わずお話ください」 シャリアスは退出するタイミングを見失い、そのままひざまずいていた。 許可なく陛下の前では立てないが、陛下が寵妃と話しかけている今、許可をもらうわけにもいかない。 「――お前をスタンニアの監督官にする話だが」 陛下の話を耳にした瞬間、シャリアスの手がぴくりと揺れた。 「どうにか話がまとまりそうだ。正式に任命され次第、国に戻れる」 「ありがとうございます」 「自治領にするのはまだ早い。虎視眈々とオスマルが狙っているからな」 「はい」 スタンニアはたくさんの鉱山が、眠っている。 発見された宝石鉱山は、未だ一部だけであり、染め物に使うミョウバンや石炭燃料も、大量に眠っていると言われている。 大陸の地図から見れば小国だが、その価値は計り知れない。ルーシー姫が皇妃として皇帝に娶られたのも、そのような背景が合った。 「実際オスマルが土地を買い叩きに来てるだろう」 「……ええ」 ルーシー姫は、鬱々と顔を伏せた。 「土地も営業権も釣り上がり、もはや際限はありません……」 戦争で疲弊した国に、なにが起こるか。 なにも資金難や、人口減だけではない。最も恐ろしいのは外国人の侵略である。 彼らは莫大な金で、戦争で暴落した土地を買い漁る。主だった街や首都に関わる商売や土地を占領されれば、もはやそこは異国と変わらなくなる。 見た目こそ栄えるだろうが、その土地で行われる商売は、売るのも買うのも外国人。土地を抑えられている以上、国民は外国人のもとで働くだけの労働階級に成り下がり、富むのは戦勝国の人間だけだ。 「私からもお前にいくらか贈ってやっているが、たかが側室にそこまで大きな金額は動かせない。お前だけで、どうにかまともな土地だけでも買い戻せればいいんだが」 「ご心配なく。幸い帝国貴族の支持を受け、いくらか頂いております。またいくらかの財産も、嫁ぐ際に持てるだけ持ってまいりました。帝国の皆様は宝石がお好きですから、色々と売り払えるものはあります」 「任命する際にも、いくらか融通しよう。それまではお前の手持ちで耐えろ」 「はい」 皇帝はちらりとテーブルに視線を落とした。 「ただもう、これは売るなよ」 撫でるのは、美しく輝く金の時計である。 「……皇妃に物を売りつけられた皇帝など、醜聞もいいところだからな」 その瞬間、ぴりっと部屋が凍りついた。 シャリアスは慌てて、一歩前に出た。 「陛下、それはすべて私が考えたことで……っ」 ……が、喋りだした瞬間、ルーシー姫がシャリアスの前に立った。そうして陛下に向けて、ひざまずいた。 「陛下。このメイドがやったことは、全て私のためです。すべての責任は、私にあります」 「……別に怒ってない」 皇帝はルーシー姫に立ち上がるように手を振った。 見つめるのはその奥。 皇帝はにやにやと笑みを浮かべながら、子猫のように丸くなった卑しい使用人を見下ろした。 「自らの主のために皇帝を顎で使うなど、一体どんな度胸のあるメイドなのかと見物しに来ただけだ」 「顔を上げろ」と言われれば、シャリアスは顔をあげるしかない。顔はもちろん、髪や手、震えている足先まで、皇帝の視線が突き刺さった。 「……アレンの気にいりのメイドだな?」 「ですから、気に入っているってことではなくてですね……」 唐突に名前を挙げられて、後ろに控えていた寵臣がすかさず反論する。 「一度私に助けさせておいて、なにが気に入ってないだ」 「あれは陛下が勝手にお助けになられたんでしょう? 急に監察官を押しのけて地下牢に入るんですから、肝が冷えましたよ」 「それはそうだろう。お前が牢から出せば脱獄だが、私が牢から出せば釈放だ。一番話が早い」 シャリアスは、ぱちぱちと瞬きした。 皇帝と長年の寵臣とのやりとりを見るのはこれが初めてである。 ルーシー姫など、シャリアスが監察官に捕縛されたことさえ知らないものだから、さらに戸惑っているようだった。 皇帝は寵臣との言い合いを終えたあと、改めてシャリアスを見つめた。 「……で、どこまで気付いていた? まさかルーシーと私の会話を、盗み聞きしていたわけではあるまい」 シャリアスはしばらく黙り込み……、そしておずおずと話しだした。 「その……、ルーシー姫が現金をお求めになっていることは気づいておりました」 ルーシー姫がすっと目を細めた。 「私とニーアの話を聞いてたのね?」 「いえまさか。そのようなことはしません。ご存知かと思いますが、居合わせたときは、必ずノックをしてルーシー姫の前に出ました」 彼らの会話を耳にして立ち去れば、返って疑いを持たれてしまう。だからシャリアスは二人の会話を耳にしたときは、なるべく早く自分の存在を教えるようにした。 そうすれば彼らは話すのをやめるし、シャリアスがなにを聞いたのかある程度推測できる。今までたしかに漏れ聞いてしまったことはあったが、核心をついた会話は耳にしていない。 「……じゃあ、どうやって知ったの? みんな私が遊んでいると思っていたのに」 シャリアスは少し黙り込み、言葉を選ぶようにぽつぽつと話した。 「……ルーシー姫はスタンニアの方で、宝石にはお詳しいです」 「ええ、そうね」 「高価な宝石というのは、めったに世に出るものではありません。目の肥えた方が欲しがるような石となれば、なおさらです」 スタンニアの鉱山が発見されてから、もう随分時間が経っている。 掘り出しやすい部分からは大半の原石が掘り出されていて、残りの鉱脈は深く硬い地層ばかりしか残っていない。 毎日鉱山を潜ろうと、一日に出る石はわずか。出てくるものはほとんどが小ぶりの代物で、上流貴族が手にしようと思う石は少ない。 良い石が出る頻度は、精々ひとつの鉱山に付き、一年でひとつかふたつ。そこから鑑定し、加工し、装飾品にまでするとなると、更に一年以上かかる。 「ゆえに石を買い求めようとする方は、“良い石が入り次第、自分のもとを尋ねるように”と商人に命じられます。まともな石を買うためには、年単位の時間が必要だとわかっているからです」 いい石は、世に出た瞬間からすぐに買い手がつく。 商人が抱える在庫はないに等しく、まともな石を持っていたとしたら、それは売る気のない石だ。 商人もまた宝石のコレクターで、彼らは常に自慢の石を持ち、顧客との話の肴にする。 「にも関わらず、西の宮殿には毎週のように宝石商人が訪れておりました。世界中を飛び回り、石を探し続けている商人が、たった一週間で皇妃に売れるようなものを用意できるはずがありません。……ですから、ルーシー姫は宝石を買っているわけではなく、売っていると思ったのです」 骨董や絵画も同じだ。 ルーシー姫は毎週のように美術商を呼んでいたが、彼女が興味を持つような商品が毎週のように入荷されるわけがない。ゆえに買っているわけでも、眺めているわけでもなく、売っているのだと考えるのは自然なことだった。 ルーシー姫は支持者からの贈り物を、常に自室に置くように命じていたが、移動させたわけでもないのに、よく中身が入れ替わった。商人たちに買い取らせていたものだと思えば、辻褄が合う。 「色々と噂が流れましたが、ルーシー姫がお気にする様子はありませんでした。評判は支持者との関係に直結しますが、それを顧みないということは相当に緊急性の高いものだと思いまして……」 シャリアスの声は、徐々に小さくなっていった。 「ルーシー姫が手元の物を売られながら、なにかの金策をされていることは察しておりました」 「……しかしそれ以外は、本当に知りません……」 話しながら、なんて厚かましい勘付き方だろうと思っていた。本来の使用人の役割から、明らかに逸脱しているからだ。 高貴な人間の実情を、卑しい人間が察する必要などないのである。 「……それだけでよく、私の時計を売ろうと思わったわね。謀反に通じていたらどうするつもりだったの?」 シャリアスは黙り込み、両手を握り込んだ。そうしてアレンを見上げ、頭を下げた。 「……陛下にお仕えするアレン様の前で、私のような人間が言うのは、恐れ多いことですが……」 「私は姫様に、お仕えしております。お仕えしている方の望みを叶えることが、使用人の仕事です。メイド長からは、主を信じ、主の手足としてお支えするのが、使用人のあるべき姿だと教えられております。ゆえにそちらに関しては、自身で判断しておりません」 なによりルーシー姫は、仕える足る主だと思っていた。 彼女は身分の線引はしても、シャリアスを蔑むことはなかったし、ニーアのことも尊重している。 ドレスの件ではためらいなく、シャリアスにすべてを任せてくれた。 「……なにより陛下の寵妃を、誰が疑えましょう。陛下が寵愛される方が、帝国に害をなすことは決してありません。私がためらえば、陛下のお力を疑うことになります」 シャリアスの答えを聞いた皇帝は、にやりと笑って足を組み替えた。 「つまりお前は、自分に罰を与えらればこの女を寵妃と呼ばせた私の責任だと言いたいわけだな?」 「そ、そのようなつもりでは……。私はただ、ルーシー様のお手元に、時計をとどまらせたい一心で……」 すると突然ルーシー姫は立ち上がり、皇帝の足元にひざまずいた。 「……陛下。メイド長から頂いたこのシャリアスですが、陛下にお返ししたいのです」 シャリアスはぱっと目を見開いた。 「このように大胆な娘ですが、主に忠実です。心根も良く、金や権力に流されません」 「ひ、姫様……?」 しかし、ルーシー姫はシャリアスに背中を向けていて、顔が見えなかった。 「皇妃付きのメイドというのは、確かに敬われます。しかし身分高い方々を相手にするために、画一的な仕事を求められます。つまり存在しないものとして振る舞うのがふさわしく、シャリアスの才能は発揮できません」 「服飾部にするか、それとも別の部署に置くか。とにかくこのメイドは、どこか能力を使える地位に置いてやってください。私はまもなく母国へ帰る身。この娘は不要です」 めったにないルーシー姫の嘆願に、皇帝は面白そうに頬杖をついた。 「なるほど」 そうして足を組み直し、主の背中を見つめたまま、呆然としているヘロットメイドに視線を送った。 「――では引き取ろう」 「……は?」 驚きすぎて礼儀を忘れたシャリアスは、気の抜けた声を出してしまった。 「私の部屋付きにする。お前が使え」 皇帝が“お前”と言いながら見上げたのは、後ろに控えていた寵臣(テラポーン)だ。 「……大臣方からお小言を頂くのは、私なんですが」 「免職しろ。たかが使用人に口出しするほどヒマなら、必要ない役職に違いない」 皇帝は椅子から立ち上がると、シャリアスの脇を通り抜けた。つまり部屋の外へと歩き出していた。 「ヘロットだからといって、登用がかなわないわけじゃない。皇帝を顎で使うんだ。これからどれほど面白いことするのか、側で見ていてやろう」 そうして皇帝は、部屋から出ていってしまった。アレンもあとを続き、シャリアスは床に座り込んだまま、置き去りにされた。 そうしてはっと我に返ったときには、すでにルーシー姫もニーアの手を借りて、立ち上がっていた。 「ル、ルーシー様! 私が陛下にお仕えするなど、とんでもないことです」 慌ててルーシー姫の足元にひざまずく。 しかしルーシー姫は、シャリアスに向かって首を振るだけだ。 「いいからやりなさい。私はもうすぐこの国を去るわ。帝国貴族と癒着し、浪費し、陛下をたぶらかした悪妃として、国に戻るの」 「……で、ですが」 「その後、あなたはどこに身を寄せるつもりなの? ヘロットメイドの身分で放り出されれば、あっという間に転落生活を送ることになるわよ?」 ルーシー姫は、震えるシャリアスの手を握った。 「今までのお礼よ。もうお礼のしようもないほど、あなたには世話になったけどせめてもの恩返しとして、いい仕事に就かせてあげる」 最初に会話を交わしたときから、このヘロットメイドが傑出した存在であることは気がついていた。 奴隷として庭掃除をする姿を見る度に口惜しさを覚えていたが、自分もこの国に来たばかり。 身分を変えさせてやることもできず、ただ近くで見てやるだけだった。 ただもう、ルーシー姫は母国に帰る。 皇帝とは貸し借りのない関係だったが、最後にねじ込ませてもらった。どれほど跡を濁そうが、母国に帰ってしまえば関係ないのだ。 ルーシー姫は、シャリアスの白い頬をなでた。なめらかで美しいその顔を、真正面から見つめた。 「私があなたの身分を変えてあげる。陛下の元で、自分のやりたいように、やってみなさい」 皇帝の側にいれば、ヘロットだろうと決して軽視されない。 口を開けば卑しい奴隷として笑われていたこの娘も、皇帝の側にたてば人としての口を持てる。人に耳、傾けさせられるのだ。 「あなたならできるわ」 シャリアスはただただ呆然と、()主となってしまった異国の王女を、見上げていた。 *** ――後日。 ルーシー姫は、本当にスタンニアへ戻ることとなった。 スタンニアは帝国とオスマルの狭間にある。 長らく両国の貿易摩擦の道具として使われてきたスタンニアは、疲弊し国力を失っていた。 帝国の庇護下にこそ置かれたが、自分の経歴が傷つくことを恐れた貴族たちは、誰も監督官になりたがらなかった。暗躍するオスマルの商人たちとの、厳しく長い戦いになることは目に見えていたからだ。 結果、皇帝の訪れが途絶え、隆盛に陰りが見え始めていた西の宮殿の主に、白羽の矢が立った。 ルーシー姫は皇帝の元皇妃かつ、正式に指名されたスタンニア統治者として、母国に戻るのだ。それも多額の支援金を携えて。 どこまでが計画されていたことで、どこまでが偶然だったのか、シャリアスは知らない。ただこうして、元主に帰国の算段がついたことに、安堵していた。 「ルーシー様」 シャリアスは馬車に乗り込む、ルーシー姫を見上げた。 「陛下からは、体に気をつけて過ごしてほしいとのお言葉を頂いております」 シャリアスはすでに、西の宮殿から身を移していた。 皇帝の宮殿は使用人の部屋までも美しく快適で、夜横になって休む度に萎縮してしまう。 皇帝の人となりは、まだ見えてこない。 ただ恐ろしく頭が切れ、無能な者をそばに置きたがらない人であることは、わかっていた。 「……陛下が寂しらがれますね」 ルーシー姫の美しいヘーゼルの髪の毛に、シャリアスは目を細めた。 「ルーシー様……?」 するとルーシー姫は少し考える素振りを見せて、一度馬車に掛けた足を地面に戻した。 「陛下には口止めされているのだけど、あなたには言っておくわ」 首をかしげるシャリアスに、ルーシー姫ははっきりと述べた。 「私は陛下の寵妃ではないの。一度も同じ部屋で眠ったことはないわ」 シャリアスは目を見開いて固まったが、構うことなく話を続けた。 「私を寵妃に見せかけたのは、人を集めるためよ」 スタンニアは要地だ。だが同じように重視すべき国は山ほどあって、スタンニアだけに金を出すわけには行かなかった。 存分に袖の下を受け取り、存分に使え。一銭も残さず使い果たして、後は寵愛を失った皇妃として国に消えろ。 爵位にあぐらをかいている貴族たちへの追加徴税だと言って、皇帝は毎日西の宮殿に訪れた。 ただ見返りとして、ルーシー姫が国を再興させた際には、今後採掘される宝石類はもちろん、ミョウバンや石炭も帝国に提供することになっている。それでも国民の雇用は保障されるし、なによりオスマルの手から逃れられる。ルーシー姫に、交渉の余地はなかった。 この国の皇帝はひどくしたたかで、抜け目がないのだ。 「外交上必要な妃だけ娶っているけれど、しばらく皇后を立てる気はないでしょうね。為政者を置かないまま、後宮を荒らすつもりよ」 ルーシー姫は、シャリアスの手を握った。 「……シャリアス、あなたはヘロットメイドよ。どのように考えているかわからないけど、元々は陛下に仕えるために存在しているの」 シャリアスの細い指がぴくりと揺れたが、ルーシー姫は離さなかった。しっかりと握り込み、ひたすらシャリアスをまっすぐ見つめた。 「準備しておきなさい。もしその日が来ても自分の身を守れるように、あらゆる手段を考えておくの」 「……ルーシー様? 一体、なんのお話をされているのですか?」 しかしシャリアスの問いかけに、ルーシー姫は返事をしなかった。 話は終わったとばかりにシャリアスから手をはなし、馬車のステップに足を掛け直した。 そうして閉じられた馬車の窓から、シャリアスを見下ろした。 卑しいヘロットメイドとして、みすぼらしいスカートを風に揺らしていた。 「次に会える日を、楽しみにしているわ」 「きっと美しい姿をしてるでしょうから」 そうしてぽかんと口を開けたシャリアスを置き去りにして、ルーシー姫の馬車は出発してしまった。 *** がたがたと揺れる馬車の中、隣に座る侍女はじっと窓を見つめていた。 「……仲直りしそこねたでしょう?」 するとニーアははっと目を見開いて、ルーシー姫に向き直った。 「国についたら、手紙でも送っておきなさい。シャリアスならあなたのことも無碍にはしないでしょうから」 しかしニーアはそっぽを向いて、窓を見つめるだけだ。 「……どうして姫様は、シャリアスにあんなことをおっしゃったのですか? 姫様が、再び後宮に戻られる可能性もありますでしょう?」 ルーシー姫はふっと笑って、ニーアと同じように窓枠に肘をついた。 王女にしては無作法な振る舞いだったが、もはや後宮を出た身。誰もルーシー姫の振る舞いを、監視するものはいない。 「ありえないわ。私の国はもう利用価値がないもの」 あの皇帝にとって、後宮の妃たちは取引相手のようなものだ。 講和条約に調印するのと同じように、妃たちを娶る。 皇帝には何人も弟がいて、跡継ぎの心配がなかった。国基は盤石で、急いで皇后を立てる必要もない。 「陛下はずっと、妃を探してるわ。無駄な後ろ盾も危険な外戚もいない、陛下のためだけに動く妃を、ずっと探してる」 ルーシー姫は目を閉じた。 そうして、美しいブルーグレーの髪の毛を思い浮かべた。母国に捨てられ、もはや帰る家さえない、哀れなヘロットメイドだった。 「……だからニーア。シャリアスとは仲良くしておいて」 スタンニアは、弱い。 産業は鉱業のみ。帝国とオスマルの間に位置し、山ばかりに囲まれて道も悪く、大した交易も望めない。 人口は少なく、戦争のせいで男は半分に減った。 「あの子は必ず、帝国の要人になるわ」 今から帰国したとして、果たして立て直せるかどうか。 「そうなれば、スタンニアが危うくなったときに彼女が助けてくれる」 それでもルーシー姫は、立ち上がらなくてはいけなかった。 彼女とあの皇帝に助けてもらえるだけの価値を、生み出さなくてはならないのだ。 ――こうしてシャリアスは、皇帝直属のメイドとなった。 常に皇帝の後ろを歩き、彼が質問すればそれに答え、彼が悩めばそれに耳を傾ける。 皇帝直属のメイドは、もはや一介の使用人ではない。時として貴族さえ敬意を払う、皇帝の側近である。 数あるメイドの役職の中でも、最も敬われる立場と言っても過言ではない。 ――気がつけば、シャリアスはただのヘロットメイドではなくなっていた。
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