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冬の夜明けの空の色彩はいつも劇的に変化する。
濃紺の闇に浮かんだ星々が澄んだ光を放ち、それがだんだんと薄れていく。
そして、東の空から暖色の朝焼けがじわじわと立ち上る。
そのオレンジがかった色づかいは、昔どこかで見たモネの日の出をそのまま再現したようだと、空を見上げるたびに思う。
「早起きは、三文の徳・・・ってな」
しんと静まりかえった街の空気が心地よく、知らず笑みがこぼれる。
アルバイト先のカフェに辿り着き、扉をくぐると、ひょっこり同僚の香月が顔を出した。
「おはよ。今日も夜のお勤め直行?」
既にコーヒーを入れたのか、店内は深い香りに満ちていた。
「ああ。そんなとこ」
「その細い身体で良く保つなあ。俺だったら死ぬね、銀座でバーテンダーやって二時間仮眠しただけでまた接客業って」
そう言う彼も、どう見ても自分より細い腰にギャルソンエプロンを巻いている。
香月は女性好みの容姿を見込まれてこのカフェに採用されたが、のんびりした言動のわりに仕事の手際が良く、気の合う仲閒だ。
「お前程じゃないよ」
苦笑しながらロッカーへ向かう。
「なんか食うもんある?」
「厨房に聞いとく」
廊下で別れ、顔を洗って制服に着替えてからホールに戻ると、今度は酸味のあるスープの香りがした。
カウンターへ行くと、同じく早番の厨房スタッフの三輪がミネストローネをスープボウルによそってくれた。
「はい、これ、試作品」
「ああ、朝メニューの?」
「そ。でも、ただのミネストローネと思わないでね。五臓六腑に染み渡るうまさだから」
大学生の拓真達より少し年上の彼女は、ゆくゆくはカフェを開くことを目指している。
オーナーに早朝から店を開けて朝メニューを出すことを提案したのは、彼女だった。
東京の中心地でオフィス街にも近い立地から、ラッシュを避けて朝食を摂らずに家を出ている大手企業の社員達に狙いを絞ったところ、これが当たった。
試しに開いて数週間、滑り出しとしてはなかなか好調だ。
「どう?」
自信たっぷりに笑われて、否とは言えない。
「そんなに見るなよ・・・。味がわかんなくなるだろ」
腰に手を当ててにやにや見下ろす二人の視線をくすぐったく感じながら、ゆっくりとスプーンを口に運んだ。
しかしたしかに、ミニトマトの酸味と甘さが身体に染み渡る心地がした。
「・・・うまい」
「でしょ」
とりあえずは試作品。
だが、間違いなく客に喜ばれるだろうと三人は確信した。
七時半の開店と同時に、常連になりつつある女性客たちで席が埋まっていく。
そろそろテラス席の椅子も並べるかと収納していた折りたたみ椅子を片手に抱えてドアを開いたところ、すぐ外に人が立っていた。
「・・・!」
「・・・あ」
天使が、いる。
とっさに、拓真は思った。
白く、きめ細かな肌にほんのり色づいた頬、柔和な目尻と相反してきりりと弧を描いた眉、そしてバラ色の唇。
まだ少年から抜け切れていない身体は全体的に細いが若木のようにしなやかで、女性的ではないが男臭さが全くない。
柔らかく無造作なくせ毛もどこか浮世離れしていて、宗教画で見た天使を真っ先に思い浮かべた。
受胎告知の天使。
いや、ソドムの街に降り立った天使たち・・・。
先ほどまでどこかで夜明かししたのだろうか、疲れ切った様子だが、それでも品のある雰囲気と聡明そうな瞳が今まで出会った誰とも違った。
しかし、天使と言うより。
目の前の少年に戸惑いの表情が浮かんだのに気付き、すぐに笑顔を装う。
「いらっしゃいませ」
・・・なににせよ、この少年も女性好みの容姿だと瞬時に計算が働いた。
彼が店内にいるだけで、きっと今日の客は更に増えるだろう。
「店内にしますか?それともテラスにします?」
・・・テラスと、答えろ。
心の中で念じた。
すると、長いまつげをしばたたかせ、拓真が足下に下ろした木椅子に目を止めた。
「・・・じゃあ、テラス席で」
・・・よし。
「了解しました」
気が変わらぬよう、素早くエスコートする。
それなりにコートやマフラーで防寒しているようだが、ここで身体を冷やされたら彼の来訪は二度と無い。
膝掛けを多めに出して使うように提案すると、素直に身体に巻くのを横目に見て、育ちの良い子だとしみじみ思った。
さすがに多少の良心の痛みを感じる。
メニューを渡して説明するうちに、今度は彼の瞳に困惑の色が浮かび始めたことに気が付いた。
・・・もしかして、持ち合わせがない?
場所柄のせいもあり価格設定はやや高め。
客層を選んだ結果だが、未成年と思われるこの少年には予想だにしない値段だったのだろう。
空腹のようなのに、視線がドリンクメニューをさまよい、今にも一番安いブレンドを口にしそうだ。
本当に徹夜明けなのかもしれない。
考えるよりも先に口が動いた。
「ええと、失礼だけどもしかして徹夜明けとか、かな」
客に言う言葉ではない。
しまったと思ったが今更だ。
「・・・ええ。その通りですが・・・」
遊んで夜が明けたと言う感じはしない。
ただただ困惑している風情に、思いつきを口にする。
「もしも良ければ、野菜たっぷりのスープを食べない?」
同情というより、ほっとけないなと思った。
「メニュー改造のための試作品だから、お代はいらないよ」
きょとんと惚けたように見上げられて、口元が緩んだ。
世慣れぬ様が愛らしい。
いったい、どこから迷い込んだんだか。
「じゃあ・・・。お言葉に甘えて・・・良いですか?」
「もちろん。こちらの勝手なお願いだから」
じっと見つめ返されて、面はゆい。
困った。
濡れたように黒い瞳が子犬のようだ。
「・・・じゃあ、すぐに支度するから待っていて」
おずおずと提案に乗った彼の頭を撫でたくなるのをぐっとこらえて、背を向けた。
肩越しにちらりと盗み見ると、両手を膝にきちんと乗せ、背筋をまっすぐに伸ばしてこちらを見つめている。
・・・天使と言うより。
「・・・ああ、そうか」
星の王子。
サン・テジュクペリの挿絵の王子にそっくりだ。
髪は金色ではないし、羽織っているのは普通のダッフルコート。
でも、王子の品格があった。
彼もいつかは恋に悩むのだろうか。
この世のものとは思えない、綺麗な空気をまとった少年。
また来るかな。
来ると良いな。
そう思った。
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