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光が、地上を埋め尽くしている。
いや、光に覆われている・・・と言うべきなのだろうか。
「すごいもんだな・・・」
感嘆のため息をつくと、隣に立つ男がふっと笑うのを感じた。
「良かった・・・。間に合って」
掴まれたままの指先にきゅっと力を込められた。
仕事帰りに偶然会った義弟が、いきなり見せたいものがあるからと半ば強引に連れてこられたのが、この川辺だった。
彼のマンションの近くを流れるこの川は普段はなんの変哲もない住宅街の中のそれだが、桜並木がずっと続くため春は花見客が多く、更にいつの頃からか冬になるとイルミネーションで飾られるようになり、その期間もまた物見客でごった返すらしい。
もともとこの地域に縁のなかった拓真が冬の桜並木を歩いたのはこれが初めてだ。
地域住民に配慮してかあまり遅くまで点灯されないとのことで、駅を出てからは義弟に手を引かれ、行き交う人の間を縫うように早足で歩いた。
大の大人の、それもいい歳して、しかも比較的背の高い自分たちが子供のように手を繋いでいるのはかなり抵抗があったが、「時間がないから」と珍しく焦り気味の義弟の一言に全ては封じられてしまった。
光の通路に辿り着いて、彼が見せたいと言う理由がわかったような気がした。
暖かな飴色の光が桜の木々の枝先に張り巡らされ、輝くその様は、桜の満開の頃を思い出す。
「あったかい・・・」
キャンドルを灯したようなきらめきが、川を覆い尽くす。
せせらぎと一緒に流れて来るはずの水の冷気も、行き交う人のさざめきとこの灯りの行列に緩められているような気がした。
そして。
握り込まれた指先に伝わる、義弟の手のひらの熱さと、かすかに触れ合う腕の感触が拓真の身体を温めていく。
互いの唇からは白い吐息がはっきりあがるほど、今夜の気温は低いはずだけど。
火照り気味の頬を冷やすぐらいが丁度良いと、思った。
「拓真さん、実はイルミネーションミルを見るのは好きでしょう?」
「うん?そうかもしれない。仕事の途中とかにけっこう見かけてはいるんだけどな・・・」
仕事場の丸の内など、都心にはいくつかこのようなスポットがある。
「よくわかったな」
「ええ。去年の今頃、あなたが観ている姿を見かけたから、そんな気がして」
「去年の今頃・・・か」
「はい」
去年の今頃は。
また、違った景色だった。
初夏に結婚して、半年にも満たなくて。
週末にしか会わない妻との距離もうまく保てないまま、彼女のお腹の子供がどんどん大きくなっていくことに当惑していた。
生命が宿ったと知ったその日から、このまま父親になっていいのか、なれるものなのかと悩むけれど、答えはどこにも見つからない。
仕事は息つく暇もないほど忙しくて、毎日にただ流されていることに焦れば焦るほど雁字搦めになり、歩くことさえ面倒になるほど疲れ切った自分の前に、光の道が広がっていた。
人工的に作られた光の洪水を、なぜか綺麗だと思った。
そしてこれが瞳に映る限り、自分はまだ大丈夫なのだと、少し、肩の力が抜けた。
以来、ついついイルミネーションを見かけると立ち止まるようになってしまった。
己の中に残された気力を測るために。
「たった一年しか経っていないんだな・・・」
「・・・そう、ですね・・・」
かすかな風に枝先が揺れ、光がきらきらとまたたいているように見えた。
近くを通る子供たちが歓声を上げる。
結局、式を挙げて一年満たない間に離婚が成立した。
無事に生まれた息子に会えたのはほんの数えるくらいで、どんな顔をしているのかさえも思い浮かべることが難しい。
「あの時とは、随分心境が違うせいかな。同じ仕掛けでもなんだか違って見えるよ」
今、こうして並び立つ自分たちの空気も、随分変わった。
「・・・違いますか?」
上半身を少し傾けて、義弟の端正な顔が覗き込んできた。
柔らかな、ほほえみ。
「そりゃそうだろう。偶然とはいえ、今夜瑠佳に会えて良かったよ。でないとここで観る機会もないだろうから」
「偶然・・・」
彼は少し困ったように眉を寄せて苦笑したが、かまわず言葉をつづけた。
「そういえば、瑠佳とは偶然が多いよな」
出会いは、早朝のカフェだった。
ウェイターのアルバイトをしていた拓真の前に、まだ少年だった瑠佳が客として現われ、常連になった。
互いの環境の変化でしばらく途絶えたが、再会したのは結婚式直前の両家の顔合わせで、お互い驚いたものだ。
数々の行き違いから姉の瑠璃や義両親とは裁判沙汰に近い決裂状態になってしまったのに、義弟は再会したその日から変わらぬ優しさで接してくれている。
その優しさに、溺れそうだ。
「確かに、偶然は何度か重なったけれど・・・。俺はずるいから」
ちらりと長いまつげに影が落ちる。
何かを気にしていることに今さら気づいた。
視線の先にあるのは、時計。
「どうかしたか?」
そういえば、時間がない、と言われたことを思い出す。
尋ねるために首をかしげた瞬間、あたりがふっと暗くなった。
「え・・・」
突然のことに瞬きをするが、よく見えない。
周囲からどよめきが起きる。
驚く間もなく、繋いだ手を強く引かれた。
「瑠佳・・・?」
少し前のめりに倒れかけた顔に熱い吐息がかかる。
「・・・」
視界も、吐息も闇に覆われた。
感じるのは、瑠佳の、唇。
柔らかくて熱い肌の触れ合いを、なぜか素直に受け取ってしまう。
「ん・・・」
温かくて、甘い。
与えられる熱に酔いそうだ。
手を繋ぐどころじゃない。
今、自分たちはキスをしている。
周囲に人がいるはずなのに、その気配もざわめきも感じ取れなくなってしまった。
一瞬のことだったのか、長い時間そうしていたのかもわからない。
最後に軽く吸われて肩を震わせると、こつんと軽く額を合わせられた。
「・・・偶然じゃ、ないです。ごめんなさい」
ため息ととも、謝罪の言葉が頬をなぶる。
「瑠佳・・・?」
「どうしても二人でここに来たくて、機会を狙ってました」
真剣な口ぶりに、こんな状況なのに、つい笑ってしまった。
「狙うって、何のために」
「こうして、あなたにキスするために」
ささやきが、近い。
「拓真さん」
初めて、名前を呼ばれた。
「・・・」
応えようと口を開く前に、唇をふさがれる。
「拓真さん・・・」
ささやきが甘くて、甘すぎて。
こらえきれずに目を閉じた。
瞼の奥に、光が散る。
「拓真さん・・・」
光が、こぼれた。
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