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翌日の夕刻、父親に声をかけられてそちらに顔を出すと、研ぎ終わったらしいジェイクの剣と小さな箱を手渡された。
「……随分早かったのね?」
「まあ、あいつの頼みだからな。届けてきてくれ。ついでにその箱の中身の件で話したいことがあるから、子鹿亭に来るよう言っといてくれ」
「父さんが自分で行けばいいじゃない」
「俺はまだ仕事が残ってるんだよ。終わったらすぐ行くから、お前はそれを届けたらすぐ帰って来いよ」
「……はーい」
ともあれおつかいでもジェイクに会えるのは嬉しかったので、素直に荷を受け取ると家を出た。そろそろ夏も終ろうかという季節で、まだ日は長いが風が吹いて心地よい。そういえば、ジェイクと初めて会ったのもこんな時期だった、と思い出す。かれこれ十年近く前の話で、彼女はまだ子供で、彼もまだどこかの見習い船員だった。年長のレンディに連れられて剣を求めに彼女の家でもある鍛冶屋にやってきたのだ。当時はまだ少年の面影が残っていたが、気がつけば随分お互いに大人になっていたものだ。
彼がこの港町に寄るのは年に数回。それでも何となく彼を待つようになってしまっていた。他の女たちのように関係を持ったことさえないので、彼女の完全な片想いなのだが。
そんなことを思い出しながら、件の家の前に着くとその扉を叩いた。
「ジェイク、いるんでしょ! クロエよ、開けてー」
返事はない。だが、ごそごそと扉越しに物音が聞こえるので、中にはいるようだ。
「ちょっとーいるんでしょ?こんなとこ置いておいたら盗まれちゃうかも知れないわよ。開けてってば」
しばらく扉を叩き続けると、やがて荒々しい足音がして、バタンと扉が内側から開かれた。現れたジェイクは、上半身裸でズボンを履いただけの姿だった。そして、その表情はこれまで見たことがないくらい凶悪に不機嫌そうだった。
「……何の用だ?」
地の底から響いてくるような低い声と険しい眼差しに腰が引けつつも、その見事な体に思わず見惚れる。あちこち傷だらけだが、それがまた引き締まった体を魅力的に飾っている。だが、ふとその胸元や首に赤い痕が点在しているのに気づいて、クロエはようやく状況を悟り、真っ赤になった。
「えーと、私……?」
「だから何の用だ?」
「あ……とこれ! 剣、研ぎ終わったから!」
ジェイクは無言で受け取ると、そのまま扉を閉めて引っ込んでしまう。
「ちょ、ちょっと待って!」
もう一度扉を叩くと、さらに不機嫌そうな顔が現れる。
「まだ何かあるのか?」
「……これも、父さんから。あと、これについて話したいことがあるから、このあと子鹿亭に来てって」
箱を見ると、ジェイクは驚いた顔をする。
「……取りに行くから持ってくるなと言っておいたはずだが……。ともかく今日は無理だ、親父さんに伝えて——」
「ジェイク?」
急に後ろから静かな声が割って入った。そちらに視線を向けると、長い髪の少女が白いシャツを羽織っただけの姿でこちらを見つめている。白い肌に、真っ青な海のような瞳。端正なその顔は、以前見せてもらったことのある絵画の妖精のように美しかった。美しい顔と、しどけないその姿に思わず呆気にとられて見惚れていると、一瞬ののち、我に返ったらしいジェイクが大声を上げた。
「……っあんたは何て格好で出てきてんだ!」
「……あなたと大して変わらないと思うが」
「全然違うだろうが!」
そのままばたんと扉が閉じられる。しばらく何かを言い争う——というよりはジェイクが一方的にまくし立てている——ような声が聞こえてきたが、さすがに内容までは聞き取れなかった。二人の関係はどう見ても明らかだった。ジェイクが誰かと寝るなんて珍しいことではない。だが、基本的に彼は一夜限りの相手しか求めないはずだった。しかし、この家は借りているものだという。では、そこにいたあの少女は——。
何となく帰りそびれてしまい、玄関先に座り込んでいると、しばらくしてから扉が開いた。ジェイクは身なりを整え、きちんと服を着込んでいた。クロエの姿を認めると目を丸くする。
「……何だ、まだいたのか?」
「だってこれ渡せてないし」
「……悪かったな」
少しばつが悪そうにそう言って、小箱を受け取る。
「親父さんは、もう酒場にいるのか?」
「まだ仕事が残ってるとは言ってたけど、すぐに行くって。だから着いてるかも」
「……やれやれ」
ため息をついてから家の中を振り返る。
「悪い。ちょっと出かけてくる。遅くなるかも知れないから飯は適当に食っておいてくれ」
「……わかった」
声の方に目を向けると、先ほどの少女がこちらもきちんと服を着込んで立っていた。扉の外まで出てくると、その髪が烟るような見事な金髪であるのに気づいた。緩い三つ編みに編み込まれた長いその金髪は派手ではないが、その白く美しい顔を引き立てるように包んでいる。背はジェイクよりはだいぶ低いが、女性としてはまあまあ高い方だろうか。線は細いが柔らかな体の線は十分に女性らしく、非の打ちどころがない。その身に纏うのは、静謐とでもいうのか、どこか浮世離れした雰囲気がある。
ジェイクはその顎を捉えると、ごく自然に口づけた。軽く触れるだけのキスだったが、それにしてもジェイクが人前でそんなことをするのを見たことがなかった。
「……いい子にしててくれよ」
「騒ぎは起こさないように気をつける」
「頼むぜ」
そう言って、見たこともないほど甘い笑みを浮かべると、今度はその髪に口づけてそのまま出て行った。後には少女とクロエだけが残される。呆気にとられたままジェイクが去った方を見つめていると、後ろから声をかけられた。
「あの……」
「え?」
少女がこちらを真っ直ぐに見つめていた。その瞳は吸い込まれそうなほど、真昼の海のように鮮やかに碧い。思わず見惚れていると、もう一度声をかけてくる。
「あなたは?」
「あ、ごめんね。私はクロエ。ジェイクの昔からの知り合いの鍛冶屋の娘なの。あなたは?」
「……ユーリ」
それきり何かを考え込んでいるようだったが、こちらに視線を戻すと口を開いた。
「このあたりで食事ができるところを教えてもらえないだろうか?」
「あ、夕飯? 家に何かあるんじゃないの?」
「食材はあるようなんだが、生憎料理ができなくて……」
「え、そうなの? ジェイクったら何考えてるのかしら……」
「まあ、干し肉とパンくらいはあるからそれで済ませても……」
「船旅から戻ってきたばかりなんでしょ? じゃあ美味しいもの食べなくっちゃ。お金はある?」
「……少しなら」
「じゃあ、子鹿亭に行きましょうか」
「……?」
「うちの父さんそこでジェイクと待ち合わせしてるらしいの。一人で夕飯食べるのも味気ないし、一緒にどう?」
「でも、彼らの邪魔をするのは……」
「ばれなきゃいいのよ」
あっさりと言った彼女に、ユーリと名乗った少女は少し目を丸くして、それからふわりと微笑んだ。そうして笑うと、浮世離れした雰囲気は薄らぎ、年相応の少女に見えた。いくつかは知らなかったが。
「あなた、歳は? 私はちなみに二十二歳よ」
「……十八歳だ」
「……えっ?!」
少女、とは内心で思ってはいたものの、実際に——思ったより若かった。
「……ジェイクったら……」
父親のニヤニヤ笑いの理由がわかった気がした。
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