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彼と彼女の事情 〜前編〜
どんどん、と扉を叩く音に目を向けると「開いてるぞ」という彼女の父の言葉を待つまでもなく扉が開いた。薄暗い部屋の中に差し込む光が逆光で眩しい。けれどもその人物はすぐに誰だかわかった。雑な身なりと無造作に伸びた黒い髪に無精髭はともかく、その鋭い灰色の眼差しと、軒をくぐるには少し屈まなければならないほどの長身と引き締まった体躯はいつ見ても惚れ惚れするほどだ。
「ジェイク! 戻って来てたの?!」
「よう、クロエ。久しぶりだな」
その首に抱きつくと、迷惑そうに引き剥がされる。いつものことだが、彼女はそんなことでめげたりしない。
「いつ着いたの?今回はどれくらいいるの?!」
「つい今朝方だよ。ちょいと野暮用でな。半月か一月か、そこらはいるつもりだ」
面倒臭そうながらもきちんと答えてくれる。そういう律儀なところが女たちをまた惹きつけるのだと皆が噂していた。
「そんなに長く? 珍しいね」
彼は船乗りだ。確かしばらく前に自分の船を手に入れて、あちこちの港を渡り歩いていると聞いていた。船を維持するにはそれなりの人手がいるし、それはつまりある程度まとまった金が必要になる。そのためにはよほどの船団の船長でもなければ、こんな小さな寄港地には長く留まることはないのが常だった。
「だったらうちに泊まれば? そんなに長いこと宿屋に泊まったらすっからかんになっちゃうでしょ?」
「おいクロエ、勝手に話を進めてんじゃねえ。うちのどこにそんなでかい男を泊める場所があるってんだ?」
後ろから父親が口を挟んでくる。
「あたしの部屋でいいわよ」
「……馬鹿は休み休み言え」
呆れたような父親の声に、ジェイクはいつも通り低く笑う。
「ありがたいが気持ちだけ受け取っとくぜ。それよりブルーノ、この剣なんだが」
そう言って、彼は腰に差した剣を鞘ごと引き抜くと、彼女の父親に手渡した。父親は鞘から引き抜くと、途端に険しい表情になる。
「ずいぶん刃こぼれてやがるな。どんな海賊とやりあったんだ?」
「……まあいろいろあってな。頼めるか?」
「当然だ。だが、こんなことがしょっちゅうあるなら、もう一本くらい用意しておいた方がいいんじゃないのか?」
「そう頻繁にあるとは思わねえが、まあ、そうだな。いいのはあるか? と言ってもせいぜい俺の手の届く範囲で、だが」
ニヤリと笑った彼に、彼女の父はため息をついて肩を竦める。
「お前さんみたいな腕はいいが扱いが雑な奴に半端なもんを渡せるかい。ちょっと待ってろ」
そう言って裏に引っ込んでしまう。二人で残され、改めてその顔を見つめると、あちこちに傷が増えているのがわかった。
「海賊退治ってそんなに大変なの?」
「海賊程度ならまあ大したことないんだけどな」
「それって、相手は海賊じゃなかったってこと?」
問い返すと、ジェイクはしまった、というような顔をして、それ以上は口をつぐんでしまう。
「ねえねえ?」
「うるせえな。お前こそ最近どうなんだ? もう結婚——はまだみたいだな。あんまりのんびりしてると嫁き遅れるぞ」
クロエは二十二歳。明るい茶色の髪に榛色の瞳で、自分でもまあまあ容姿は悪くない方だと思っている。声をかけてくれる男はそこそこいるし、それなりに恋の経験もあるが、ジェイクと比べるとどうにも幼く見えてしまうので、本気になれないのだ。
「そしたらもらってくれる?」
「こんなおっさん捕まえて、何言ってんだ」
「まだおっさんじゃないでしょ。ジェイクは格好いいもの、全然アリよ」
「ありがとよ」
全然本気にされていない。クロエとしては、本当に結婚相手としては大歓迎なのだが。あちこちで浮名を流しているのは知っているが、その誰とも本気でないというのも皆が噂していた。狙っている女は数知れず、とはいうものの、いずれもせいぜい船旅の合間の一夜の相手となるくらいだと。
「ジェイクこそ、結構いい歳なんでしょ。結婚とかしないの?」
「余計なお世話だ」
「クロエ、無駄口ばっかり叩いてるんじゃねえよ。暇なら洗濯でもしてこい」
戻ってきた父親が、不機嫌そうにそう言ってくる。だがクロエはふんぞり返って言い返した。
「もう終わってるわよ」
「なら、夕飯の支度でも……」
「それももう終わってる」
「……できる娘がいて助かるな、ブルーノの親父さんよ」
吹き出しながら言うジェイクに、父親はますます苦虫を噛み潰したような顔になる。だが、すぐに表情を改めると一振りの剣を差し出した。
「こないだ打ち上がったばかりだ。珍しい鉱石が手に入ったんでな」
首を傾げながらもジェイクは受け取ると、鞘から引き抜く。その刀身はわずかに黒みがかかり、波のような斑紋が浮かんでいた。その刃を見てジェイクは顔色を変える。
「これは……黒鋼ってやつか?」
「よく知ってるな」
父が驚いたように目を瞠る。ジェイクはなぜかばつが悪そうに肩を竦めた。
「……ちょっとな」
「普通の鉄鉱石で作るより遥かに硬い。鍛えるのは手間だったがその分、軽くて硬いいいもんに仕上がった。どうだ?」
問われ、ジェイクは少し離れると二度三度と大きく振って見せる。その剣捌きだけでもクロエが思わず見惚れるほど見事だった。
「悪くないな」
「だろ?」
「……けど、普通の鋼の剣はあるか?」
「何だ、気に入らなかったか?」
「そんなこともないんだが、まあ、この刃にあんまりいい思い出がなくてな」
「……そうかい、残念だな。まあ、値も張るからどうかとは思ったが、気が変わったら声をかけてくれ」
そう言って、父親はもう一振りの方を差し出す。そちらは普通の鋼だが、それでも娘の彼女が見ても見事な仕上がりだった。
「こいつは見事だな」
ジェイクもほうと息を吐いて、それから同じように何度か振って見せる。ぶん、と風を斬る音も軽やかだった。
「だろう、俺の自信作だ」
「あんたのはどれも見事なもんだけどな。いくらだ?」
「銀貨三十枚でどうだ?」
「高ぇな……。まあ仕方ねえ。だが、ついでにもう一つ頼みたいことがあるんだがいいか?」
ジェイクは剣を鞘に収めて銀貨を渡しながら、父親の方に歩み寄る。そしてちらりとクロエの方に視線を向けた。父は頷くと、ジェイクを連れて奥へと引っ込んでいった。
しばらくして奥から現れた父親はどことなくいつもより機嫌がよさそうだった。対照的にジェイクは何だか微妙な顔をしている。
「お前さんがねえ……」
「うるせえ……ぺらぺらしゃべるなよ?」
「レンディの野郎は知ってるのか?」
「……まあな」
「そうかいそうかい」
「何なのよ、男二人でニヤニヤして。やらしいわね」
「……放っとけ。じゃあブルーノ、頼んだぜ」
「任しとけ。準備が出来たら連絡する。宿はどこだ?」
そう尋ねると、ジェイクはなぜか気まずげに視線を泳がせた。
「どうした?」
「……夜の子鹿亭の奥に空き家があってな。今はそこを借りてる」
「へぇ……?」
「何、ここに住むつもりなの⁈」
「違ぇよ。とりあえずちょっと滞在が長くなりそうでな。そう言ったらレンディの野郎が都合してくれただけだ」
どことなくその顔が赤い気がする。何かありそうだ、とは女の勘である。思わずニンマリ笑った彼女に、ジェイクはすかさず釘を刺してくる。
「言いふらすんじゃねえぞ?」
「わかってるわよ」
何か秘密がありそうだとは思ったが、ここは一旦引いておく。その秘密を知る機会は思いの外早く訪れたのだった。
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