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子猫のおきゃくさま
真夜中、用をたしに布団から出ると、子供らのはしゃぐ声がする。
うちには子供はおろか妻もいない、僕ひとりというやもめ暮らしだというのに、いったいぜんたいどういうことだろうと雨戸をそおっと開けて、庭のほうを覗いてみれば、なんともほほえましい客人がきているではないか。
向かいの家で生まれた子猫が、母猫や家人たちの目をぬすんで、抜き足さし足しのび足、真夜中の散歩をしている最中だったのである。
可愛いでしょう、とつい先日、奥方に見せてもらった白黒ぶちと縞三毛がちょこちょこと歩いたり、ふんふんと土や草のにおいをかいだりしている。
猫好きな僕としては、たまらず雨戸をがらりとあけた。
「やあ、こんばんは。ずいぶん楽しそうだねえ」
話しかけると白黒ぶちは「ひゃあ」と驚き、草の上でころころ転げてしまった。
何やってんのよ、といかにもおしゃまな感じの縞三毛が言う。
「なんだ、若くて味の良い生き肝があると聞いたのに、出てきた奴はおじちゃんじゃないか。これじゃあ、役にたたねえや」
ふるふるふる、とかぶりを振った白黒ぶちに言われ、僕は思わず目を見張る。
「おじちゃんとは失礼だなあ、これでもご近所さんなんだから困ったときはお互い様だろう?それにしても君たち、いったいぜんたいどうして、生き肝なんか必要なんだい。穏やかじゃないね」
実はさあ、と白黒ぶちが口を開く。
どうやら、案外おしゃべりなようだ。
「おいらたちの母ちゃんがさ、ー産後のひだちが悪くて、おっぱいも出ないし、苦しい苦しいって伏せってばかりいるんだ」
「そうなの、お母ちゃまったら大好物のみそ汁ごはんもたべないし、だんだん痩せてしまって……あたしたちのおっぱいも、奥様が牛乳にちょこっとだけお砂糖をいれて、こさえてくれるのよ。でもね、やっぱりお母ちゃまのおっぱいのほうが、弟もよく飲むの」
「なんだい、姉ちゃんったら大人ぶっちゃってさ。おいらだけじゃねえや、姉ちゃんだっておんなじだい。だからいろいろ考えて、母ちゃんに生き肝でも食わせてやれば、元気になれるかなって思ったんだい」
「もうしわけないけれど、あなたのは結構よ。若い人間の生き肝がいいって、聞いたんですもの。ねえ、どこかにあてはないの?」
「あるわけないだろう、小さく可愛いなりをして、ずいぶんなことを思い立ったもんだ」
そう答えると私は子猫たちに提案した。
「生き肝が欲しいなら、明日の昼にでもおいでなさい。僕が用意しておいてあげよう」
「本当かい、おじちゃん。もし嘘ならのど笛をかみ切るぜ。人間は悪知恵が良く回るらしいからな」
「そうよ、あたしたちの牙は鋭いんだから。がぶってかみつくと、ひとたまりもないわよ」
「わかったわかった。約束するからいったん、おうちへ帰りなさい。皆さんもさぞかし、心配されているだろうからね」
向かいの家から、猫たちを呼ぶ声が聞こえてきたので、縞三毛が「あらほんとだわ」と耳をぴくぴくさせる。
「じゃあ約束よ、ちゃんと用意しておいてね」
「なあ姉ちゃん、こおろぎ捕まえていこうぜ」
「こおろぎなんかいいから帰るわよ、じゃあおじさま、ごめんあそばせ」
庭の花を一本ずつくわえて、子猫たちはひらりと壁を飛び越え、向かいの家へと何食わぬ顔で帰っていった。
昼になり、約束のものを差し出すと子猫たちは「うわあ」とよろこんで、ぐるぐる喉をならした。
おもてなしにと出した煮干しも気に入ったようで、頭をかりこりと噛んでいる。
子猫たちへ僕から贈ったもの、それは新鮮な牛のレバーをおよそ二百グラム。
空が白み、朝を待ってから肉屋へ急いで買いにいった代物である。
まだピンと表面が張っていてが、こっくりとしたくすみない赤はつやつやと照っていた。
「あいにく若い人間のものではないが、牛さんのレバーだから上物だよ。どうだい?僕は約束を守れたかな?」
「おじちゃん、ありがとう。母ちゃんもきっとよろこぶよ」
「そうね、お母ちゃまもきっと美味しく召し上がってくれると思うわ。ご迷惑ついでにおじさま、できたら風呂敷かなにかに包んでいただけると助かるわね。台所にある包丁で切りわけてくださるかしら」
おませな縞三毛が提案したので、僕も乗りかかった船だと望み通りにしてやった。
レバーを半分に切り、経木を使ってそれを包み、手拭いを適当な長さにちぎって小さな「お使いもの」が背負えるようにしてやると、白黒ぶちが「遠足ってこんなかな」と目を輝かせた。
「ありがとう、おじちゃん。早速お母ちゃまに持って帰ってあげましょ、足が早いんだからモタモタしていられないわ」
「待って待って、姉ちゃん、ちょうちょ捕まえてから」
「あんたって子はいっつもこうなんだから、行くわよ。結構なものを頂戴しましたわ、ではごめんあそばせ」
ひらり、と背負った豆絞り手拭いもりりしく、子猫たちは家へ戻って行った。
後日、回覧板を届けた折に向かいの家の奥方から「妙なことがございましてね」と、神妙な顔つきで話を切り出された。
「我が家で子猫をうんだ母猫がどうも具合が悪うございまして、案じていましたところ、眠っていたカゴの中で何やらくちゃくちゃと口を動かし、赤いものを食べていたのでございますの。よく見たら生のレバーなんですもの、あたくし腰を抜かしてしまいましたわ。子猫ちゃんたちもお相伴して、舐めたり遊んだりしているものですからもうビックリして……でも、母猫がそのおかげで元気になりまして、今はあの通りでございますよ」
玄関の戸を開けて、僕は元気そうな母猫が、子猫たちの追いかけっこに付き合っている様子を拝見し、ほっと胸を撫で下ろした。
「これはこれは、親孝行な、いいお子様をお持ちで」
「どうかいたしまして?」
実はね奥方、と打ち明けかけて僕は「いいえ、こちらのこと」と辞した。
可愛い猫に、秘密のひとつやふたつあったほうが、素敵じゃないか。
そう思ったと同時に、縞三毛がこちらをチラリと見て、牙をむいたのを見逃さなかったからだ。
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