消沈と迷妄

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 もはや精根も尽き果てた。  無気力でかつ自暴自棄。どうにでもなれと思った。この世の終わりのような絶望感を身に纏い、深いため息をつく。視界がぼやける感覚の中でもう一度だけ、折りたたみのくたびれた財布の中を覗きこむ。 「……まだ、一枚ある」  財布から遠慮気味に顔を出したのは、一枚の千円札。たかだか千円。俺が失ってしまった五万円と比べたら、どれほどまでに安価か。俺がこの一瞬で失った六か月間の努力と比べれば、いかに儚く脆弱なものか。 「こんな紙ぺらに何の価値がある」  まわりも気にせず、そんな言葉を独りで呟いていた。騒がしい店内の音など、何ひとつ耳に入らなかった。いまこの空間には、俺と、前方に鎮座する“金を喰う魔物”と、あまりに薄っぺらく価値のない一枚の“紙ぺら”だけだった。  魔物がその禍々しい口を開けている。「よこせ、金を喰わせろ」という恐ろしい呻き声が聴こえるようだ。俺はもう一度、左手に握る千円札を見つめる。多くのものをこの一瞬で失った。いまさら千円や二千円失おうが、何も変わらない。  俺の人生はもう終わったんだ。  餞別にこいつもくれてやろう。  俺は遠くを見るようなまなざしで、その千円札を魔物の細長い口に持っていく。手が震えて思うように口の中に差し込めない。やがて魔物は機械的に紙幣を飲み込み、自らの体に取り込んでいく。デジタルに表示された「1000」の数字。何の期待も持てずに作業的にハンドルを右に傾ける。  もう、これで帰ろうと思っていた。  バイト仲間なら数万円貸してくれるだろうか。最悪の場合、バイト先から給料を前借りできるだろうか。実家は頼れない。むしろ仕送りしてやりたいくらいだ。  ああ、この失った五万円。どうせこんな機械に飲まれるくらいなら、両親に渡してやればよかった。  両親の笑顔がまぶたの裏側に浮かぶ。俺のために苦労をかけた。どんなときでも俺のことを優先してくれた。美味い飯を食わせてくれた。ときには厳しく叱ってくれたりもした。俺はこんなところで、なんて馬鹿なことをしているのだろう。  魔物の顔をまともに見ることさえできなくなっていた。俺は右手でハンドルを捻ったまま下を向き、膝にこぼれ落ちる涙がデニムの生地に滲んでいく様子を、ただ呆然と見つめていた。  ──そのとき。  けたたましい警報音が頭上で鳴り響き、驚きのあまり顔をあげる。眼前の機械仕掛けが七色の光で煌めき、まばゆい輝きを放っている。その刹那、見たこともない真っ赤な扉が魔物の画面上に浮かびあがり、勢いよくバタンと閉ざされる。見るのもうんざりだったランダムな数字の回転がすべて覆い隠された。  土壇場に起きた、奇跡だった。  画面に映る深紅の扉がふたたび開き、勢いよく放たれる光の粒。あまりに眩しくて思わず目を伏せてしまいそうになる。光が消えたことを確認し、ようやく液晶画面に目を向ける。すると、なんと回転する数字はいずれもすでにゾロ目で揃い、そのままゆっくり回転を続けている。  ……これは。  目をこすり、もう一度映像を直視する。液晶を流れていくその数列たちは、まるでこれまでいくつもの苦難を乗り越えてきた俺を祝福しているかのようにすら思えた。 「はは、そういうことだったのか」  これまでのものは、神が俺に与えた最後の試練だったに違いない。諦めず最後まで打ち込み続けたからこそたどり着いたこの境地。まさに努力の結晶。いままでの頑張りが報われた瞬間。  ……ずっと待っていてくれたのだ。  この俺が努力の末、苦難の末に。  ──この境地までたどり着くことを。  いまより、眼前の魔物が業火を吹き荒らす。俺の戦いはこれからだ。いまの俺に怖いものなどひとつもない。まずは学費を取り返す。そしてこの台を打ち続けた時間分の金を取り返す。次にこの時間内に受けた心労分の金を取り返す。 「さあ魔物よ、身ぐるみ剥がしてやる」  俺はまっすぐな視線でその魔物を睨みつける。そして右手に握り締めたハンドルを、力いっぱいに右に回した。
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