消沈と迷妄

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 心臓を素手で握り潰されるような感覚だった。視線は狼狽して定まらず、額から滴り落ちる脂汗は生ぬるくて気持ち悪い。馬鹿みたいに唾液が出て、口のなかがベトベトする。眩暈がしてきた。息もしづらい。  ……なんで、こんなことになった。  必死で働いてきた。土日も返上で一心不乱に金を稼いだ。日中はコンビニでアルバイト。日が暮れてから夜明けまではカラオケ店で働いた。  生活に困窮している実家に無理を言って、大学に進学させてもらった。そのため学費は全額、自分で稼ぐ必要があった。サークル活動などには目もくれず、授業以外の時間のほとんどをアルバイトに費やした。  休まず昼夜も問わずに働いて、手取りは月に二十五万円。家賃と生活費が引かれて二十万円。それを毎月貯め続けて六か月。納入期限の寸前でようやく学費の全額が貯まった。今週中に全額を指定の銀行口座に振り込む予定。  ……そのはずだったのに。    ちょっとした気の緩みか、ふと魔が差したのか。六か月間の激務の末、ようやく学費を工面できたことで心に隙が生まれたか。いずれにせよ冷静であれば考え直すこともできたに違いない。  前日の夜にバイト仲間から「博打で三十万円勝った」という話を聞いた。朝一番、わずか五千円で当たり、それからはずっと勝ち続けた。確率変動はほぼ一日中続いた。そんなくだらない自慢話だった。  ……少しだけのつもりだった。  一万円くらいならよいかと思った。一万円入れて、当たらなければ店を去ろうと思っていた。六か月間、死ぬ気で働いてきた自分へのご褒美だと、自分にそう言い聞かせて店に入った。  バイト仲間のことが羨ましかったわけではない。まさか自分も勝てるだなんて、そんな甘いことを考えていたわけでもない。ただ単純に心の余裕を満喫したかった。少しくらいなら遊んでもよいだろうという誘惑に負けた。  打ち始めると、一万円は溶けるように消えていった。わずか三十分程度のことだった。ハンドルを右に回し、玉を打ち回す。最初の五千円が消えるまでに煙草を二本吸った。吸いきったところで席を立ち、真っ黒なパッケージの缶コーヒーを買った。玉はみるみるうちに呑み込まれていった。  学費は117万円。俺の全財産は今月の生活費を含めて120万円。金銭的な余裕はまるでなかった。しかし失った額に対する時間があまりに“一瞬”で、思考が停止した。  もの足りなさもあり、悔しさもあった。  その結果、今しがたわずか三十分程度で失った一万円札を、次の一万円札で取り返そうと思った。単純な話だ。失ったものは取り返せばいい。さすがに二万円入れれば、一度くらい当たるだろう。  そう思った。  二枚目の一万円札もそうして簡単に溶けていった。俺の期待は、いとも簡単に裏切られた。ハンドルを握る右手が汗でべたべたになっていることに気づいたのは、下皿が空っぽになった後だった。  二万円も費やしたのだ。400回転を超えていた。「1/299の確率」で当たると記載されたその遊戯台の説明書。さすがに三万円入れれば当たると思った。それからはもう、時間が経つのはあっという間だった。 「少しだけ遊びのつもりで」と自分に言い聞かせて打ち始めた“博打”は、いつからか「失ったものを取り返す」ための“戦い”に変わり、それからはもう「薄っぺらい紙をただ溶かす」だけの“作業”に変わった。  俺はなぜこんなものに手を出してしまったのだろう。後悔先に立たずとはこのことだ。我に返ると、俺は明日支払うはずの学費にすら手を出し、手元から五万円もの大金を失っていた。  「次こそは、次こそは……」という迷妄が俺を誘惑し、気づいたときにはもう、取り返しのつかない事態に陥っていた。
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