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この度、映画出演をして、国民的アイドルとなったA子さんの地元ではA子さんゆかりのものをめぐるツアーが流行しています。
A子さんの出身校はもちろん、通学の時にA子さんが乗ったと思われる地方鉄道や、A子さんがよく買い物をしたとされるコンビニまで、微に入り細に入り、とにかくA子さんをめぐって、いかにA子さんと近しいかを感じる――そういうツアーが大人気です。
A子さんの実家前もツアーに組み込まれています。
おかげで、毎日、A子さんの実家のある団地は、大変な人だかりとなっています。
ワイドショーの画面には、ありふれた集合団地が映っている。ブロック塀が並ぶ細い道は、スマホやデジカメを構えた人々が何人も並んでいる。レポーターはその様子を克明に伝える。あっ、また一人、また一人、ああ、今度は五人一度に入ってきました。もうこの路地は人で埋め尽くされています。ああっ。
そこで、レポーターは一瞬絶句し、それから一層甲高い声で、視聴者に訴えるように言うのだった。
「ご覧ください、A子さんのお父様のご出勤です」
きゃー。ぎゃああああ。うわあああ。うおおおおお。
悲鳴。嬌声。歓声。
カメラは、ごく普通の二階建ての家の玄関前を撮影している。もちろん、表札や、肝心のところはボカシが入っている。
もの悲し気な顔をした中年の男性は、白いワイシャツ姿で立ちすくみ、弱弱しく会釈した。
**
何故、これから出勤というところで、大群衆の歓声を浴びなければならないのか。
その日の朝、彼は前日の疲れが抜けぬまま起床し、脂が浮いてしまったオデコを洗顔し、薄い髪の毛を整えてから、食事をとった。
妻も疲れていた。目の下にクマを作った顔で目玉焼きの皿を食卓に出してくれる。トーストは少し焦げている。彼は無言でもさもさ食べる。
テレビは何故か、NHK教育番組が入っている。それも大音響でだ。本当なら朝のニュースなど流したいところなのに、このところ、妻は敢えて教育番組ばかり流している。
だって、このチャンネルくらいなのよ、安心して見ていられるのは。
妻の言いたいことは、よく分かる。彼も同感だからだ。それはA子は可愛い娘だが、世間様の思うA子と、彼や妻の愛するA子は同一人物でありながら、なにかが完全に違うのだった。少なくとも彼や妻が大事に大事に育ててきた娘は、早朝から家の前で待ち構える猛禽のような人々とは無縁のはずだった。
リビングの壁には娘が小学一年の時に描いた「パパの絵」が飾られている。
さて、彼はしぶしぶ腰を上げる。妻はさっと青ざめる。行くの、というので、彼は静かにうなずく。まるで殉教者のようだと自分でも思う。
カバンを持ち上げ、革靴を履く。玄関ではなく裏の勝手から出ればと妻は言ったが、却下した。なぜなら以前それをしたら、表で待ち受ける大群衆よりもさらにレベルが上の、もっと変態的な奴が、はあはあと息を荒くし、目を輝かせーーお、おとう、はあはあ、おとうさんっ、はあはあはあ、おとうさんっ、A子さんのっ、アアアッ、愛してっ、愛してますっーーとびかかってきたからだ。
あんな思いをするくらいなら、正々堂々と表から出たほうが良いのだった。
くたびれたワイシャツで、ぼってり出た腹をゆらして、疲れ切った表情で彼は玄関を出る。いってらっしゃい、と妻は言うが、「いって」しか聞こえない。残りは凄まじい歓声で押しつぶされた。妻は怯えてさっと引き戸をしめた。びしゃんと彼の背後で音を立てて、玄関がしまり、がちゃんと施錠の気配まで聞こえた。
玄関前で彼を待ち受けていたものは、この集合団地を埋め尽くすほどの群衆であった。
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「ぎゃーっ、こっち見てーっ」
「ああっ、ちょっとはにかんでるっ、超かわいいっ」
「写真とれたからインスタにあげちゃおっと」
バーコードのような髪の毛が風にそよいで乱れるのにも構わず、かしゃかしゃスマホで写真を撮られるのにも構わず、彼は淡々と会社に向かう。
興奮して彼に抱き着こうとする、オタク風の男性が出現する。
「A子ちゃん、A子ちゃんっ、おおお、俺のA子ちゃん(のお父さん)、ムハムハー」
「A子ちゃん聖地巡りバスツアー」の添乗員のお兄さんが、A子さんのお父さんに触ろうとする人たちに、素早く注意する。
「えー、みなさん、A子さんのお父さんに、触ったり、髪の毛を抜いたり、プレゼントを渡したりされないようお願いします」
見るだけです。見るだけですよー。
モーゼが海を割った時のように、人ごみはサササと道をあける。彼はギャラリーのギラギラ飢えたような視線の中を歩かねばならない。どこまで行っても人、人、人だ。
人々はひしめくようにして彼を見つめている。見えない、あっ、今、ワイシャツの肩が見えた、などという叫び声が聞こえる。
添乗員たちは、ギャラリーを整理し始める。
「はい、前列の方、見られましたら後ろへ回って下さい。次の方、どうぞ。はい、見られましたらすぐに後ろへ。はい、足を止めないで下さいー」
彼は歩き続ける。
スマホの自撮り棒が朝日を受けて輝く中に、「A子ラブ」と光るモールの文字を貼り付けられたプラカードも見える。そこには華やかなアイドル衣装を身に着け微笑むA子の写真が見える。ちらりと彼は娘の顔写真を眺めるが、心の中に浮かぶのは、「高い高いしてよパパ」と出勤前の彼に飛びついてきた、幼稚園のスモック姿の幼子なのだった。
可愛いA子。大事なA子。今も娘は彼の宝である。
団地の中の道を抜け、角を曲がって大通りへ出て、彼はひたすら歩き、駅へ向かう。
ギャラリーはどこまでも続いているが、添乗員たちは、きちんと閲覧域を定めている。
集合団地の途切れ目である角を曲がるところまでが、見物席だ。
押し合いへし合いしているギャラリーは、彼が角に近づくのを見て焦る。
「やだーまだ見てないよー」
「ちょっと早くどいてよー」
などと、罵声が上がり始める。
A子の歌うCD曲が、ギャラリーの中から流れ始める。
あなたの瞳にもう夢中 ラブラブキラキラ プリティーハート
わたしを見なくちゃイヤイヤダーリン お花畑で捕まえて~。
ポップでキラキラした伴奏と、甘いA子のボイス。それに合わせてギャラリーたちはノリノリになる。
「A子、イエイイエイ、A子、ラブリー」
「エルオーブイイーA子」
「わー」
「A子好きだーっ」
ギャラリーの中から、熱烈な声が聞こえる。
泣いているような、野太い男の声だ。もう抑えきれなくなったのか、人ごみを押しのけて、自分が最前列に飛び出そうとしている。まさに今、通り過ぎようとしている彼にむかい、手を伸ばしてがっしと引き寄せようとしている。目は血走り、鼻息は水牛のようだ。
ちなみに、てらてらした脂ぎった男である。
「いけませんお客さんいけません」
添乗員たちが何人も飛びついて、やっとのことで男を抑える。
「A子、好きだA子、結婚してくれー」
俺は君のためなら何でもする。死ねと言われれば死ぬ。A子、A子おおおおおおお。
**
彼はくたびれた背中で絶叫を聞いた。そして、いつものように、淡々と角を曲がった。
大通りには車がいきかい、自転車で通学する子供たちもいた。
彼はちらっと腕時計を見る。
良かった。時間は大丈夫。
A子が遠すぎて届かないから、A子のお父さんで我慢する。奴らはそういう根性で、毎朝、家の前で待ち受けている。
確かに人間には代償行為は必要かもしれない。だが今の場合、その考え方は大いに問題があると彼は静かに思った。
「A子のためなら死ねるー、お前が好きだー、朝まで離さない寝かさないいいいいい」
男の絶叫がまだ聞こえてくる。
彼は会社に向かう。当たり前の仕事が彼を待っている。
今日も長い一日が始まろうとしていた。
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