いつか消えていなくなっても、誰か一人に刺さればいい。

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 オレンジ色に染まる公園のベンチに座っていた。  九月の空は、夏より高く、風が吹いている。  その日は平日で、いつものように学校に向かった。  夢半ばにして心が折れたあとに入った、興味もなかった専門学校だ。  教室の端っこに座って、ぼんやりと先生の話を聞いて、ノートにメモしていたはずだった。  だけどいつの間にか手が止まり、目の前がぎゅっと狭くなって、苦しくなった。  目と頭が痛くなって、やむなく早退した。  そのまま帰り道の公園で何時間も空を眺めていたんだ。  息を吸って吐いて、繰り返して。気付けば夕方で帰る時間などとっくに過ぎていて。    ふと、目の前に誰かが立った。 「――なにしてるの」  女の子の声だった。  目をやれば、そこには小柄で、黒く、長い髪を下ろしている、黄色いワンピースを着た子が立っていた。  その子からは、どこか息苦しいくらいの甘い香りがする。 「――ねえ、なにしてるの」  もう一度口を開いた子に、俺はふっと目を逸らして「別に。座ってるだけだよ」と答えた。 「ふうん」  煮え切らない、とでも言いたげな顔に、ふっと片方、口角を上げた。 「君は? 帰らないのか?」  女の子はふるふる、と首を横に振る。「おじさんには関係ないよ」と続ける女の子に、思わず苦笑する。 「おじさんってほど年いってないけど」 「私から見たらおじさんだよ」 「ああ、そうかい」  諦めて、また空を見上げた。  さっきよりもずっと赤に近い色になったそれは、やがて来る夜を遠くに見せていた。 「お空、きれいだね」 「ああ」 「おじさんのそのパーカーも、きれいな色してる」 「そうか?」  見下ろすと、くすんだ黄色のパーカーは、太陽の光を浴びて赤くなっていた。  だが、長年愛用意していたそれは、お世辞にも綺麗だとは言えない。それに――。 「これ、ポケットの部分が切れてるんだ。だからきれいなんて言葉は似合わない」  ぐっと引っ張れば、手直しはしたものの、びりびりに破けた後が残るそれが見える。  捨ててしまえばいいのに、今の今まで捨てられないのは、これを貰った時の理由のせいだろうか。  女の子はじっとそれを見つめて、またふるふる、と首を横に振った。 「ううん、きれいだよ。だって――」  ――それで、私を助けてくれたじゃない――。 「え?」  聞き返した瞬間、漂っていただけの甘い香りが、ぶわっと押し寄せてきた。 「う、ぐっ」  げほげほ、と咳き込んで、再び顔をあげる。  そこにあったのは、一本の立派なキンモクセイの花。  足元にちょこん、と座る子猫は、ぼんやりと霞んでいる。 「ねこ……」  あ、と声を漏らす。  小さい時だった。父がくれたぶかぶかのパーカーを着て、公園にきたとき、キンモクセイの木に登って降りれなくなっていた野良猫を見つけたんだ。  あわてて助けにいったとき、服は破けた。  子猫は、ひどく悲しそうにこちらをみていたが、やがてどこかへ去っていった。 「あんときの、子猫?」  子猫は小さな声で、にゃあお、と泣き、それからゆっくりと消えていった。  気付けば日も落ち、辺りは街灯に照らされ始める。  ふと、パーカーを見下ろした。  かつて破いたポケットの部分。そこには、オレンジ色の花と、黒い子猫の刺繍がされていた。  それから、もう一つ。 『まだ生きてるのに、諦めないで』  ぐっと唇を噛む。  やがて視界がじんわりとにじんで、見えなくなった。  ただ少し、視界は広くなっていた――。
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